セルフ塾は閉めましたが、そのままの名前でブログを続けます。独学,独習。教わるより,学ぶを重視。 セルフラーニングの方法,英語,数学などの情報を発信するつもりです。

特殊を一般化することの危険
 出典がはっきりしないので残念ですが,次のような実験がありました。

 ねずみの実験です。過酷な条件を与える。水中にねずみを入れるのですが,その表面にふたをつける。そして,かなり長い距離を泳がないと抜け出せないのです。。

 その中でそこを泳ぎ切ったねずみはとてもとても強くなるのです。
 しかし,ほとんどのねずみはおぼれ死んでしまう。

 たくましいねずみが育ったのだから,そのような過酷な条件をみんなに与えていいのか,です。

 リンカーンはとても貧しい少年時代を送った。その生活が糧となり,偉大な人物に育った。これは真実でしょう。
 しかし,貧しい生活を送った少年たちは,そのほとんどがみじめな人生を送ってします。


 平均的人間のことを一応は頭の中においておく。しかし,それをすべての人に絶対だということで,押しつけてはいけない。

 一般論を頭におきながらも,一人ひとりの子どもたちや家庭環境をよくみる,ということが大切ではないか,
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客観的な世界と主観的な世界
 ぼくらの世界には,客観的な世界と主観的な世界があります。

 小学生の教科書に「ごんぎつね」が載っていますね。

 多くの人が知っているでしょうが,念のためにあらすじを

 ごんぎつねは,いたずらばかりしていました。
 ある日,ごんぎつねは,兵十(ひょうじゅう)のつかまえたさかなやうなぎを逃がします。
 十日ほどたったある日,兵十の母親の葬式に出合います。
 そこで,ごんぎつなは,あのうなぎは兵十が母親のためにとったもので,自分が逃がしたためにお母さんが亡くなったのだと反省します。
 ごんぎつねはつぐないとして兵十の家にくりや松茸を置くようになります。
 兵十は,それは神様があわれんでやったことだと思って,神様にお礼をします。
 またしばらくした日,ごんが家に入って行くのを兵十が見つけます。またいったずらだと思った兵十は,火縄銃でごんを撃ちます。

 兵十はかけよってきました。うちの中を見ると,土間にくりが固めて置いてあるのが目につきました。
「おや。」
と,兵十はびっくりして,ごんに目を落としました。
「ごん,お前だったのか。いつも,くりをくれたのは。」
 ごんは,ぐったりと目をつぶったまま,うなずきました。


 ちょっと長くなってしまいました。

 客観的世界と主観的世界の話です。

 客観的世界では,くりや松茸を持ってきたのはごんです。

 しかし,兵十はそれを知らない。だから,神様がやったのだろうと思う。これは主観的世界です。これはある意味でしようのないことです。客観的世界を知ることができないのですから,「~だろう」ということで世界を作り上げるしかないのです。

 ぼくらはどちらかと言えば,主観的世界の中で生きています。だから,兵十は神様にお礼を言ったのです。兵十にとってはくりをくれたのは神様なのですから,当然です。

 しかし,最後にごんがやったことだと知ります。つまり,ここで主観的世界が客観的世界と同じになったのです。一致したのです。

 これが認識できたということです。

 さて,神がいると思っている人がいます。またぼくのようにいないと思っている人がいます。これはどちらも主観的世界です。問題は客観的な世界には神がいるのか,いないのかですね。どちらかは主観的世界と客観的世界が一致しているが,一方は一致していない。

 これを考えるときにいつも思い出す歌謡曲の一節があります。西田佐知子の「東京ブルース(?)」です。古いですね。
 
 どうせ,私をだますなら, 死ぬまで,だまして欲しかった


 その女性はだまされていた。つまり,主観的世界と客観的世界が不一致だったのです。ある日,だまされていることに気づいた。一致したのです。

 しかし,それが一致したら不幸せが訪れたのです。

「知らない方がよかった」

 ぼくらは 主観的世界と客観的世界が一致する方向で普通努めますが,一致すれば幸せになるとは限りません

 ぼくは神はいないと思っている。しかし,いないと思った方が幸せかというとそうとも限らない。心の平安というのは,だまされていた方がいいということもあるからです。

 前に宗教の力はすごいと書きました。癌を宣告されても,平安を保てるひとがいる。これはすごいことだと思います。マザーテレサのような行いも宗教のなせるわざなのだろうな,とも思います。

脳と精神の相互作用,バイオフィードバック
 いま,脳科学がとても進歩してきました。脳の中の状態がだいぶ観察することができるようになったようです。

 それで,意識(精神)と脳 の関係をいま解明しようと研究を進めています。

 ぼくはそういうことに関心があり,

「脳のなかの幽霊」
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4047913200?ie=UTF8&tag=selfyoji-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4047913200

「無意識の脳 自己意識の脳」 アントニオ・R・ダマシオ
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062118785?ie=UTF8&tag=selfyoji-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4062118785

茂木健一郎氏の一連の著作

 などを読みました。まだまだ脳がどのようにして意識を作り出していくのか,仮説の仮説といった感じです。道のりは遠いです。

 しかし,脳が意識を作り出している,ということは疑いのないこととしています。ぼくもそう思っています。


 そして,その脳によって作り出された意識,精神は,脳を含む身体に作用しているのです。

 「これは胃薬です。これを飲むと胃の痛みがなくなります」,といって小麦粉などで作った錠剤を与えると本当に胃の痛みがなくなることがあります。意識が体に作用しているのですね。それがプラシーボ効果です。

 ストレスで胃潰瘍になる,というのはもう常識です。それを疑う人はいません。これなどは意識が体に作用しているもっともよい例です。

 それを利用しようとしているのが,バイオフィードバックです。

 バイオフィードバックについて簡単に説明します。

 ぼくらは緊張すると筋肉も緊張します。嘘発見器というのは,それを見るものです。

 さて,その嘘発見器のようなものを手につけます。そして,その状態が目で見えるようにします。落ち着いているときには緑のランプがつきます。しかし,動揺しているときには赤のランプがつきます。それをつけて緑のランプがつくように努めるようにいわれます。心をゆったりして落ち着いていると唱えます。それをつづけていくと,本当に緑のランプがつくようになります。

 これはぼくも以前,試しました。

 病院では,血圧を下げるバイオフィードバックもあると聞いています。血圧の変化が見えるようにする。それを見ながら血圧が下がる状態を学習していくのです。

 偏頭痛にもいいようです。

 要するにぼくがいいたいのは,脳が意識(精神)を作り出すが,その意識(精神)が身体に作用もする,精神と肉体は,相互作用を行っている,ということです。

自分の人生の中では,だれもがみな主人公
 まず,知って欲しいのですが,「人間は基本的にジコチューだ」ということです。

 写真を見るときに,まず自分をさがします。どんなふうに写っているかなと思って。

 カラオケでは,どんなに歌のうまい人が歌うより,自分が歌う方が好きです。

 友だちと話をするとき,相手の話を聞くより,自分が話す方がいい。特に酒を飲むとそれぞれが勝手に自分の好きなことを話す。相手のいうことなんかまったく聞いていない。

 雑踏の中でも,自分の名前を呼ばれたら,すぐに反応します。

 これは,もう本能です。個の保存のためには自分のことを中心にしなければいけない。

 ただ,個の保存より種の保存が強いことがあります。
 だから,自分の孫の写真を見せたがるおじいさん。自分がかわいいと思ったらみんなもわいいと思っているはずだ,と思っています。
 まあ,種の保存は横に置いておきます。

 「自分の人生の中では,だれもがみな主人公」という歌がありました。さだまさしの「主人公」という歌です。(ぼくはよくカラオケで歌います。)

 「ぼくの人生ではぼくが主人公」です。しかし,「Aさんの人生ではAさんが主人公」「Bさんの人生ではBさんが主人公」なのです。

 時代劇を見ると,自分より主君を主人公にすることもあります。それはゆがんだ関係でしょう。

 「自分の人生の中では,だれもがみな主人公」
 頭では分かるはずです。でも,ついそれを忘れてしまうことがあります。みんな自分を見ているんだ,自分に注目しているんだ,と思ってしまう。

どの子も価値があるんだ
 ぼくは,これからカウンセリングのテクニックをいろいろ書こうとしています。

 ただ,これを単なるテクニックとして使っていると危ないです。人間ってけっこう相手の心理を見抜くことがあります。かなり間違えた読み方をする場合もありますが,当たる場合も少なくない。人の心を読むことが生きていく上でとても大切だからです。

 だから,生徒や子どもとの会話の中で,テクニックとしてだけカウンセリングの技法を使っていると,見破られたときが大変です。

 「あんたは,本当はそう思っていないのに,見せかけだけだったんだな」ということで,信頼を失ってしまいます。一度失った信頼を取り戻すのはかなり難しい。

 ぼくは前回,それぞれの人生の中ではそれぞれが主人公だということを書きました。

 どうでしょうか。それぞれが主人公なら,その人は関心をもつに値すると思いませんか。

 どんなに頭が悪かろうが,どんなに性格がひねくれていようが,どんなに顔が不細工であろうが,どんなに脚が短かろうが(おっと,つい自分のことを書いてしまった)

 その人は主人公なんです。そう思うと,この子も生きているんだ,主人公として,と関心をもつことができます。尊敬するまではいかないにしろ,この子も価値のある人間なんだ,と思うようになる。

 もし,まだ思えないようなら,自分に言い聞かせましょう。この子も価値があるんだ。話を聞く価値があるんだ,と。

 そうしながら,それぞれの子どもと接していると,素直にその子の言葉に耳を傾けることができます。

「(今度の期末テストの)数学,83点だったよ」
「83点か。これまではだいたい何点くらいだったの?」
「これまでは,80点とったことなかったよ」
「そうか,じゃー,今度はよくがんばったんだね」

 主人公なら関心を示しながら対話できます。もっと高得点をとった生徒がいることも知っています。しかし,その子にとってどうなのか,とう立場にたって話をする,それができるようにならなければいけません。

アダルトチルドレンとピグマリオン効果
 mixiのコミュ「セルフラーニング」でピグマリオン効果はアダルトチルドレンに効果があるかの意見交換があり,ぼくは次のように書き込みました。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25093093&comm_id=1037793

 アダルトチルドレンにピグマリオン効果は効くかどうか,ですね。

 ぼくは,アダルトチルドレンについてよく知りません。検索してみました。

アダルトチルドレン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
アダルトチルドレンとは、機能不全家庭で育ったことにより、成人してもなお内心的なトラウマを持っている人のことを指す。Adult Childrenの頭文字を取り、単にACともいう。学術的な言葉ではないため、論者により定義が異なる場合がある。

一般的には虐待やアルコール依存症のある機能不全家庭で育ち、その体験が成人になっても心理的外傷として残っている人をいう。破滅的であったり、完璧主義であったり、対人関係が苦手であるといった、いくつかの特徴がある。また、無意識のうちに実生活上の人間関係に悪影響を及ぼしている場合も多い。


 以上でいいでしょうか。

 とすると,ぼくはアダルトチルドレンにピグマリオン効果は効くと思います。推論で書き込むので,よろしく。

 ピグマリオン効果がありうるのはなぜか。

 それは,教師が心理学者で言われた子どもたちがその後伸びると本当に信じたからです。そう信じるとそれは行動に表れる。その子への質問が多くなる,その子に答えさせる,その子を認めるなどの行動によって子どもたちが引き上げられるのです。そのような行動は無意識かもしれない。しかし,そのような行動が出てくることによって子どもが変わるわけです。

 教師が厳密な平等主義者ならピグマリオン効果は出てこないでしょう。伸びると言われた子も言われなかった子も同じように扱えば,差は出ないはずです。

 さて,アダルトチルドレンの場合。

 Aさんも伸びるとその教師は言われた。しかし,Aさんはアダルトチルドレンであった。
 心の底からそれを信じた教師は,Aさんに関心をむけるでしょう。そしてなぜそのような行動をとるのかも考えるようになる。いまこのような行動をとっていても指導次第で伸びるはずだ,と信じている。
 そして,アダルトチルドレンだということを突き止める。すると,アダルトチルドレンについて学ぶでしょう。そして,それへの対処の仕方も学ぶはずです。
 そして,その子をみながらその子に適した方法で学習を導いていく。

 すると,その子は伸びるのではないでしょうか。

 ピグマリオン効果はなぜ起きるのかは,見えない不思議な力ではありません。その子に教師(親)が関心を向けるということです。

 最初はうそからはじまったかもしれません。しかし,そのうそを信じた教師は,それが実現する方向で行動を起こしているのです。

 また,その教師が研究熱心でなければ効果はないでしょう。ほかの子と同じように画一的な指導をしていたのでは伸びるはずがありません。

 いまシェークスピアのマクベスを思い出しました。
 魔女に「未来の国王」になるという予言を告げられたマクベスです。その国王の座が自然に舞い降りたわけではありません。マクベスが殺人を犯すという行動によって国王の座を得るのです。

 ピグマリオン効果も

 予言 → 教師の行動の変化 → 子どもの伸び

 です。 

クライエント中心療法
 さて,カウンセリングでは,何をしているか,と言えば,ひたすら相談に来た人(クライエント,来談者といいます)の話を聴いているのです。極端に言えば,それだけ。

 カウンセリングにもいろいろあります。ぼくが大学で学んだのはロジャーズという学者によるクライエント中心療法というものです。

 このカウンセリングは,徹底した性善説です。つまり,人間の根底は善である。ということです。だから,自分の中にある善でもって,何でも解決できる,ということです。

 カウンセラーはアドバイスを行いません。解決法はクライエント自らが見つけるのです。

 カウンセラーがひたすら聴くと,クライエントは自分の考えなりを話します。話す中で自分の持っている問題が解決できるとするのです。

 そして,「今,ここ」が大切です。
 これは精神分析と根本的に異なるところです。フロイトの精神分析では幼児期の経験が今の問題を引き起こしていると考えます。

 だから,過去の記憶に遡っていきます。幼児期に何があったのかを思い出せば解決するという立場ですね。フロイトは。

 それに対してロジャーズは「いま,ここ」が大切だとします。だから,無理に過去に遡ることをしない。
 いま,ここでクライエントが何を感じているか,何を考えているかを話してもらうようにするのです。

「いい子で心配」症候群
 みなさんの周りにもいませんか,「いい子で心配」症候群

 「いい子で心配」症候群って何? でしょうね。たぶん。

 ぼくの造語です。

 たまにいます。
 「うちの子はとてもいい子なんです。手がかからないし。それに悪いことをしないので叱ることもないのです。」

 そういう「いい子だけど大丈夫だろうか,心配だ」と思う大人たちを「いい子で心配」症候群と名付けました。

 ぼくも「いい子で心配」症候群のころがありました。
 保育園をしていたころ,いい子をみると「大丈夫かな?」と思ったものです。

 なぜそう思うようになったのか?

 「心」の専門家のみなさんがよく言っているんです。
いい子は危ない」と。
「いい子というのは,自分をおさえつけているのだ。いい子を演じているのだ。だから,それがそのうちにたまりたまって爆発するときがある。親殺しの犯罪はいい子がやっている」などと。
 たぶん,みなさんも読んだり,聞いたりしたことがありますね。

 しかし,ぼくの見たいい子たちは,そのまま素直にいい子のままで育って,いい青年になっています。

「いい子はいい」のです
 「伊豆の踊子」にありますね。有名なセリフが「いい人はいいね」(あっているかな?)

 普通のいい子はいい子なのです。特に自分を押さえつけているわけでもないが,素直な気持ちで親のいうことが聞ける。親もいい親です。子どもの気持ちを理解しながら,無理なことを要求しない。自然にいい関係ができているのです。だから,「いい子」を演じているわけではないのです。

 では,専門家が間違えているかといえば,そうではないでしょう。

 ただ,専門家はふつうのいい子ではなく,異常ないい子を多くみているのでしょう。専門家に相談にいくのですから,ふつうではない。その中で「いい子」は危ないことが多い,ということではないでしょうか。
 

「すぐほしい脳」と「がまんする脳」
 以前,「EQ」にあった「マシュマロ実験」について書きました。

http://selfyoji.blog28.fc2.com/blog-entry-323.html

 簡単に言えば,マシュマロをいますぐ1個欲しい子と,少しがまんして後で2個欲しがる子がいるという実験です。

 この差はとても大きい。ゲームをしたい,テレビを観たい。そういった目の前の欲求に従うか。ちょっとがまんして勉強をするか。
 いまちょっとがまんした方が後で得るものは大きい。

 さて,山元大輔著「浮気をしたい脳」によると,その2つは脳にもちがいがあるというのです。


 そこで脳の働きを透視するファンクショナルMRIという機械を使って「すぐほしい脳」と「がまんする脳」を見つけてやろう、と考えた訳だ。 「すぐほしい脳」は、すぐもらえないと興奮しないに違いない。一方「がまんする脳」はすぐもらえなくても、必ずいつかはもらえるならば興奮するはず。そんな予測のもとに、「今なら千円、明日なら千百円の選択をしている時の脳の活動を観察したのである。そして、予想とぴったりの反応をする脳の場所が見つかった。
 
  まずは即金の時にだけドカンと大きく興奮した場所は、内側前頭眼窩野、内側前頭前野,腹側線条体、後部帯状回だった。昔から辺縁系という名前で呼ばれてい情報センター連なる脳が、軒並み登場である。

 これらの場所には、俗称快感神経が伸びていて、「超、気持ちいい!」感覚を呼び起こす脳内物質、ドーパミンを分泌する。ドーパミンは「その場の快感」を生み出す物質なのだ。これが出ると、脳はそれに酔いしれてしまう。タマラン脳になっちゃうのである。こうなると、お金は貯まらん脳なのだ。

 一方、支払いが先延ばしになった時でも、確実にもらえる限りしっかり興奮する場所は,右脳の背外側前頭前野、腹外側前頭前野、外側前頭前野だった。これらは人格を決める脳、判断の脳として有名な部位である。つまり、感情と理性は脳の中の別の場所によってコントロールされていて、その両者が絶えず綱引きをしているのだ。

 なるほど、見えてきたぞ。「今がハッピーならそれでいい」は辺縁系、「ちょっと待て、ここは投資を」は前頭前野の役目という訳だ。


 前に「いい子で心配症候群」を書きました。

http://selfyoji.blog28.fc2.com/blog-entry-426.html

 一般にいう「いい子」と「いい子でない子」の違いもそこにあるのではないでしょうか。

 「いい子」は,理性の脳である前頭前野が発達,自分をコントロールする,
 一方「いい子でない子」は,感情の脳である辺縁系が発達。自分の欲求が先に立つ。

 ふつうに「いい子」なら問題はない。自分をコントロールすることによって,将来に投資し,そして大きな獲物を得る。

 ただ,「いい子」がすぎると,感情を抑圧しすぎて,たまりたまっていつか爆発する。

 専門家はそこを注意しているのです。「いい子」すぎるのは危険ですよ,と。

 ただ,ふつうに「いい子」の親はそれを聞いて心配する。「うちの子はいい子なんだけど,大丈夫だろうか」と。そして「いい子で心配」症候群になるのですね。

 ここでも「中庸」がいいんですよ,ということでしょうか。

秋葉原殺傷事件と無視すること
 投稿した文が,きょうの琉球新報に載りました。

 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※ 

 東京・秋葉原での17人殺傷事件の加藤智大容疑者は「ネットでも無視された」と無視されたことをとても憎んでいたようです。無視されるというのは,とても大変なことです。子どものいじめにもシカトというのがあり,シカトされた子どもの心は大きく傷つくそうです。

 さて,ダドソン博士は,その著書「しつけの百科」の中で「湿けたポテトチップの法則」を紹介しています。

 子どもはパリパリの乾いたポテトチップが好きです。しかし,それがなければ,湿けたポテトチップでもがまんして食べます。

 それと同じで,子どもはお母さんから認めてもらいたい,ほめてもらいたいと思っています。しかし,それがかなわない場合には,悪いことをしてでもお母さんの関心を引こうとするのです。

 つまり,ほめてもらうというパリパリのポテトチップが手に入らなければ,叱られるということで湿けていてもいいから,関心というポテトチップを手に入れたいのです。
 
叱られるよりも無視されることがイヤなのです。

  秋葉原殺傷事件の加藤容疑者は,ふだん静かにしているときは,無視されていました。ポテトチップが手に入らなかったのです。しかし,殺傷事件を犯してあとは,かなり湿けたポテトチップではありますが,多量に手に入れることができたのです。マスコミで大々的に報道されたのですから,望み通りでしょう。

 さて,では私たち大人は子どもに対してどのようにしているでしょうか。
 
子どもが静かに遊んでいる,みんなと仲良くしている,自分で勉強している。そういうときは,何も働きかけをしていません。つまり無視しています。

 しかし,それが逆だとどうでしょう。うるさく走り回る,兄弟げんかをする,勉強をしない。そういうときは無視できなくなって,叱ってしまいます。

 いい行動をしているときは無視し,悪い行動が始まるとすぐに関心を示す。これは悪いことをやりなさいと勧めているようなものです。

 子どもが悪いことをしているとき,それを無視することは難しいです。特に子ども自身かその友達が傷つくかもしれないときは,飛んでいって止めなければいけません。

 しかし,いいことをしているときは簡単に無視できます。うまくいっているのですから,大人は自分のことに専念できるのです。

 でも,それを逆にしなければいけません。

 加藤容疑者も,ふだんの生活の中で関心を示してくれる人がいればあのようなことはしなかったでしょう。

 ちょっとした心がけでいいのです。静かに遊んでいるところに近づき,笑顔で見る,「楽しそうね」と声をかける,「(勉強)がんばっているね」と肩をたたく,それだけでもいいのです。そして,子どもが話しかけてきたら,よくよくその話を聴いてあげる。これがパリパリの乾いたポテトチップです。乾いたポテトチップが十分に手に入る子は,湿けたポテトチップを欲しいとは思わないのです。 

いい子の脳,いい子でない子の脳

 下のページに詳しく書き込みましたが,「すぐほしい脳」と「がまんする脳」があるそうです。

http://selfyoji.blog28.fc2.com/blog-entry-428.html

 まとめの部分だけを抜粋すると,

>>「今がハッピーならそれでいい」は辺縁系、「ちょっと待て、ここは投資を」は前頭前野の役目という訳だ

 そうです。

 このことは,そのページにも少しふれましたが,
 これらの脳と,「いい子」「いい子でない子」は関連がありそうに感じます。

 なお,これまでも似たようなことを何度か書いていますが,「いい子」とか「悪い子」「いい子でない子」というレッテルは好きではありません。特に「この子は悪い子」とレッテルをつけることは絶対にやってはいけないことだと思っています。
 レッテルをはると,それが一人歩きをするからです。「悪い子」と言うと自分の中でその子は「悪い子」になってしまう。

 ただ,世の中に,「いい子は危ない」という専門家がいて,また,それによって「いい子で心配」症候群になる親がいます。それに対する意見ということで書いています。以上のことをふまえた上で誤解のないように読んでください。
「いい子で心配」症候群

 さて,前置きはこれくらいで,

 「いい子」というのは,「がまんする脳」である前頭前野が発達しているのではないでしょうか。それで,「ちょっと待て、ここは投資を」をいいうことで,目の前のものに迷わされずに,がまんする。

 一方「いい子でない子」は,「がまんする脳」が未発達で,「すぐほしい脳」である辺縁系が強いのではないでしょうか。それで,「今がハッピーならそれでいい」ということで目の前のものにとびつく。

 「危ないいい子」は,「がまんする脳」が強すぎて,無理に「すぐほしい脳」を押さえ込む。そして爆発です。

 ただし「危なくないいい子」も多い。その子たちは,「がまんする脳」が適度に「すぐほしい脳」を押さえている。無理はしていない。

 しかし,「いい子は危ない」という専門家の意見を知った親は,その子を見ていて手のかからないいい子だ,大丈夫だろうか,ということで「いい子で心配」症候群になってしまう。
子育てのことをよく学ぶ親ほどそれになりやすいのです。

 ぼくがここでいいたいのは,自分の子どもをちゃんとみていて,十分に愛情をそそいでいれば,いい子でも大丈夫ですよ,ということです。「いい子で心配」症候群になる必要はないですよということです。

 「いい子は危ない」と説く専門家の意見が強すぎるのではないでしょうか。
 
  

相づちをうつ(聴くテクニック)
 カウンセリングのテクニックの先ず第一は,うなずく,相づちをうつ,です。

 日常でも,相手が話しているときに,「うんうん」「ふ~ん」「なるほど」など,よくやっていますね。あれです。

 ぼくは日本人はけっこう相づちがうまいのではないかと思っています。相手の話を懸命に聴こうとすると,自然に相づちが出てきます。

 適切な相づちは,話している人にちゃんと聴いていますよ,というサインになります。話を聴いてくれているのなら,もっと話そうという気になって,話してくれます。

 ちゃんと相手の話を聴く中で出てくる自然な相づちを大切にして話を促すようにすればいいのです。

 上の空で聴きながら相づちを打ってもすぐにばれてしまいます。「おまえ本当におれの話を聴いているのか」となる。ちゃんと話を聴きながら相づちをうつことが大切ですね。


 さて,日米の文化の差を相づちで感じたことがあります。

 アメリカ人が電話で話しているのを見たことがありますか。
 ぼくは以前,アメリカ人の宣教師の方から英会話を習っていました。そのとき,彼が電話で話をしていたのですが,ずっと無言なんです。
 そのことについて話をしたのですが,彼によると,相づちは邪魔だそうです。話しているのはじっと聴いてくれたほうがいい,とのこと。

 そうかな,と思って,いつものように日本人の知人から電話がかかってきて,相手が話をしているとき,じっと聴いていました。すると,すぐに「おい,聴いているのか?」との声。「ちゃんと聴いているよ」と言って,また無言で聴いていると「おい,ちゃんと聴いているのか?」といらいらした声になりました。

 日本人は,相づちがないと,電話で話ができないのです。ぼくの周りの数人に試しただけなのですが。

 ただ,アメリカ人の宣教師の彼はぼくと電話で話すときは,相づちを打ちます。日本の文化にあわせているのです。

 あいづちから,それますが。
 20年も前のことです。その宣教師に誘われてアメリカ人のディナーに出かけたことがあります。食べながらしゃべってとてもにぎやかでした。しかし,食事が終わって,スピーチが始まると,みんなスピーチをする方に向かって椅子を向けて座り直し,じっと聴きに入ったのです。そしてユーモアがでると笑う,拍手するところでは拍手する,ときちんきちんと反応していました。

 沖縄ではまったく逆です。結婚式披露宴では,食べながら,舞台の踊りがあり,スピーチがあります。舞台を見たり,スピーチを聴いたりするのは,近くの席の人や関係者だけ。あとは勝手に近くの人とおしゃべりを楽しみます。スピーチをする人に失礼だからぼくはできるだけ聴くように努めているのですが,隣の方から話しかけられると話してしまいます。

フロイトの「あのとき」とロジャーズの「今ここ」
(ぼくはカウンセリングの専門家ではありません。ただ,質問があったのでぼくの知識で書きました。正確さを求めるなら別にあたってください。)

 精神分析学のフロイトはヒステリー患者の診察をしました。ヒステリーというのは,私どもがふだん使っている意味とは違うものです。心の病によって目がみえなくなったり,脚が動かなくなったりするものです。心身症のようなものなのでしょうか。ぼくはその区別までは知りません。

 さて,フロイトは,その患者の幼少期にその原因があると考えました。そしてその人がみた夢を分析したり,連想をさせていろいろ話させる内容を分析したりしました。その結果,無意識という概念に辿り着きます。幼少期に受けた大きな傷が無意識の中に押し込まれていると考えたのです。そして,それが原因でヒステリーの症状が出てくると。

 そして,その原因がはっきりしたときに,その症状はきれいになくなるというのです。その原因は性的(セックス)なものが多いというのもフロイトの理論の大きな特徴です。フロイトは何でも性に結びつけて考える傾向があったように思います。

 夢の中に棒状のものが出てきたら,それは男根の象徴である,馬に乗る夢は性交の象徴だと考えました。
 
 最近思うのですが,性的なものというのはぼくらにとってとても大きなものではあります。「利己的遺伝子」についてご存じでしょうか。ぼくらは遺伝子の単なる乗り物でしかないというのです。
 ここで説明を始めると大きく道がそれてしまいそうです。極端に簡単にいえば,個の保存より,種の保存が上だというものです。だから,性というのはとても大きい存在。

 だから,フロイトは性に結びつけて何でも考えたのでしょう。
 そして,彼は過去にこだわった。原因を追及するために幼少期に何があったかを追求したのです。

 さて,さて,ロジャーズです。彼は,今,目の前の問題の原因がどこにあるかにこだわらなかったのです。原因が何かを徹底して追及するよりも,それがよくなることを考えた。だから,過去にもどって何があったかをクライエント(来談者:相談に来た人)から聞き出そうとしなかったのです。

 それよりも,「今ここ(now and here)」に焦点を合わせたのです。後でもう少し詳しく書くつもりですが,「受容」「共感」を重視しました。問題行動の原因を追及するより,今ここで感じていることを話すことを重視しました。そして,カウンセラーがその話を聴き,クライエントの気持ち,感情を受容し,それに共感する。カウンセラーが自分を受容し,共感していることがクライエントに伝わると,クライエントは自分で問題に立ち向かい,それを乗り越えることができると,ロジャーズは言っているのです。

 だれでも自分の問題を乗り越えることができると信じて,その人の「今ここ」の気持ちを精一杯聴くとういことです。

相手の言ったことを繰り返す
 次のテクニックは,「相手の言ったことを繰り返す」です。

 クライエントが,話し始めて,それを聴いて相づちを打ちます。そしてクライエントはまた話を続ける。その話している言葉の一部をそのまま繰り返すのです。

 上の話を聴いて「なるほど,言葉の一部を繰り返すのですね。」という感じ。

 相づちは話を聴いていなくてもできます。適当なときに「そうそう」「なるほど」などと言えばいいのですから。ただし,上の空での相づちは見破られるでしょうが。

 しかし,繰り返すのは,それなりに相手の話を聴いていないとできません。だからこそ繰り返すというのは,あなたの話をちゃんと聴いているよ,というサインになるのです。

 相手が聴いているということが分かったら,もっと話をしようと思います。そして,次々と話を続けるのです。

カウンセリング,精神分析は効果があるか?
 カウンセリング,精神分析は,効果があるかどうか,はっきりしていないと思います。

 カウンセリングを専門にしている方がいたら,以下の意見への批判,反論などしてください。これは行動分析(行動療法)からの意見です。

 薬に効果があるかどうかは,偽薬を用いてプラシーボ効果がないかどうか確かめます。

 カウンセリング,精神分析学でも,そのうちに直ることがあるのですが,それがプラシーボ効果的なものなのか,ちゃんと研究がされていません。難しいのです。

 ただ,似たような患者でカウンセリング,精神分析を受けるグループ,そして何もしていないグループにわけて追跡調査をしたことがあり,それによると,「差はほとんどない」,だったと思います。
 治療内容にもよるでしょうが。

 とにかく,カウンセリングにしろ,精神分析にしろおそろしく長い時間がかかります。数年なんてものはざらです。そしてそのうちに直ります。それがただ時間が解決したのか,カウンセリング,精神分析の効果なのかよく分からないといったところです。

 行動療法では,こんなに時間がかかっては大変だから,もっと早くよくなる方法をとろうということで対処します。行動療法は対症療法です。心理的な原因であれ,腕が上がらないのであれば腕があがるようにする,というものです。

 だから,根本的治療ではないから,再発するはずだなどの批判もあります。

 なお,ぼくはいまブログ上でカウンセリングの初歩の初歩を書いています。上の意見と矛盾するのではないかと思われるでしょうね。

 行動療法においてもクライエント(相談に来た人)との間に信頼関係を持つことはとても大切なことだとしています。そのような信頼関係をラポート(ラポール)といいます。

 そのラポートの築き方はカウンセリングの方法が優れています。それを借りてくるといったかんじです。


時間が解決するということで,
中島みゆきの「時代」を思い出しました。

今はこんなに悲しくて
涙もかれ果てて
もう二度と笑顔には
なれそうもないけど

そんな時代もあったねと
いつか話せる日がくるわ
あんな時代もあったねと
きっと笑って話せるわ

(以下略))

し手の話をまとめる
 「相づちを打つ」「話し手の言葉を繰り返す」に続いては「話し手の話をまとめる」です。

 相手がいろいろ話します。相づちを打ったり,言葉を繰り返したりして相手が次々に話をするのを促します。まとまりのない,とりとめのない話になることがあります。
 そのときに,「あなたの言いたいことは・・・・・ということですか」と話をまとめて,確認してみるのです。

 これができるのは,本当に相手の話を注意して聴いていなければできないことです。注意して聴いて,そしてその話を要約してみるのです。
 

話をさえぎる
 ぼくは妻と話すとき,いらいらすることがあります。

 ぼくの妻は特別おしゃべりではないのですが,普通の女の人並みにおしゃべりです。失礼。

 だからたいていはぼくが聞き手です。でも,こちらが話を聴いてもらいたいことがあります。

 いつもではないのですが,まとまった話をするときは,ぼくはある程度話の順序というか構成というか,考えてから話します。きちんとではないのですが。つまりA→B→C→D→E→F・・ の順で話そう,というように。

 そして,話しはじめると,妻はちゃんと聞いているのですが,途中で質問が入ることが多いのです。A→B→C と話しているときに,Fのことを訊かれる。するといらいらしてしまうのです。話をさえぎられるといらいらするのです。

 友人と話していてもそんないらいらはあまり感じないです。妻とは近すぎるから感情的になってしまうのでしょうね。でも,友人との間でも実際はいらいらしているのでしょう。それを無意識に押し込めているのでしょう。

 妻は,自分のペースで聞いているのです。自分の関心が先に立つのです。前に,「それぞれが自分の人生では主人公」と書きました。妻は妻の人生の中で主人公なんです。


 ただ,人が話をしているときは,その人を主人公にしなければいけません。カウンセリングでは,相談に来た人(クライエント)が主人公なのです。
http://selfyoji.blog28.fc2.com/blog-entry-401.html

 だから,自分の気持ちを優先させて,質問をしてはいけないのです。相談をしているときはその人の身になって話を進めなければいけません。

 生徒との間でもそうです。生徒が話を始めたらそれに耳を傾けることが必要です。

 ぼくも含めて教育をする立場の人は,生徒より話しすぎることが多いです。生徒が話をしていてもそれをさえぎって,自分の説教をしようとします。

 前に書きましたが,共感と同情(同感)はちがいます。相手の気持ちと同じになって相手のいうとおりする必要はありません。ただ,とにかくまずは相手の言い分はきちんと聞くということがとても大切なのです。
http://selfyoji.blog28.fc2.com/blog-entry-99.html

 生徒が話している途中で,「それは言い訳でしかないだろう」と口をはさんではいけないのではないでしょうか。

 さて,偉そうなことを書きましたが,振り返って自分を見ると,ぼくもいつでも生徒の話をその子の立場に立って聴いているわけではないですね。
 もっと聴くように努めなければ。

無言を大切に
 ぼくは,カウンセリングを専門に勉強したことはありません。大学の講義を受け,数冊の本を読んだだけです。

 それでも,これまで書いたことは友人,知人との会話,塾で生徒との会話の中で十分に生かしてきました。
 だから,このようにしたらいいですよ,というのを自信を持って書くことができました。

 ただ,きょうこれから書くことはあまり自信のないところです。というのは,ぼくがうまく利用することができなかったからです。
 でも,大学の講義の中ではけっこう強調されていたし,ぼくも頭では理解しているので,ここに書くことにします。

 それは,「無言を大切に」です。

 会話の中でお互いが無言の状態が続くといやですね。しらけ鳥が飛んでいるといった感じ。だから,だれかが気を遣って話を始めます。

 しかし,カウンセリングにおいては,無言でいるのはとても大切だというのです。無言の状態がしばらく続く。そして,その後にクライエントがどっと話を始めることがあるというのです。無言のときは休みではなく,クライエントの頭の中ではいろいろな考えが動き回っているのです。進行中です。だから,そこで変にこちらから話しかけるべきではないのです。ゆっくりクライエントが語り出すのを待つというのです。

 それが難しいです。
 だれか知っていたら教えて欲しいのですが,
 普段の会話の中で,しらけているときと相手が何か考えているときの区別がなかなかつかないのです。ぼくは。

 ぼくは,知人との会話などでは,どちらかと言えば聞き手になります。そして無言の状態になる。そのときに,ぼくもだまっている。すると実際にはしらけていた,ということもあるのですね。そういうときは適当な話題をさがして話を切り開いたほうがいいのかもしれません。

 カウンセリングと普段の会話とは,似ているところもあるが違うところもあるのでしょうね。

 子どもを叱るとき,ぼくは子どもに話をするようにもっていきます。「なぜそうしたのか,説明しなさい」というように。

 しかし,たいてい子どもは話しません。そのときしばらくはぼくも無言でいます。あなたが語るのを待っているよ,というように。

 カウンセリングとはちがうからでしょうが,その後,子どもがどっと話し始める,ということはまずありません。

 ただ,ぼくはこの無言の状態は無駄ではないと思っています。確かめることはできないのですが,子どもの頭の中では,とにかく何かを考えているのでしょう。自分のやった行為について。または,ぼくが叱っていることを憎むようなことを考えているのかもしれません。
 そのときに口を開かせることができれば,本物だなあ,とは思うのですが,本物にはなりきれませんね。

共感すること
 「共感」という言葉をカウンセリングではよく使います。

 クライエントの気持ちに共感するように努めるのです。

 共感とは,ぼくは文字通り「感情を共にする」と考えています。

 クライエントが悲しんでいる。そのときの悲しさを共にするということです。そのためには,悲しんでいることについて語ってもらいます。うなずいたり,相づちをしたり,まとめたりといったテクニックで。

 語ってもらわなければ共感しようがありませんから。

 なぜ悲しんでいるのか,何があったのか,いまどのように感じているのか,

 それを語ってもらい,聴いて,その感情を理解するのです。

 クライエントが主人公なのですから,その立場にたってその気持ちを共にします。

 小説の読解では,よく言われますね。主人公の立場に立って小説を読んでいき,主人公の気持ちになりましょう,と。

 あれと同じことをします。いまここでは,クライエントが主人公です。その気持ちが分からなければいけない,ということですね。

 これはいろんな場面で使えます。

 居酒屋で飲みながら話をするとき,相手が話し始めたら,まず相手の話すことをよく聴いて,相手の気持ちと共感する,すると,相手は気持ちよく話を続けていきます。
 ただし,酔っぱらいは同じ話を繰り返しますから,そういうときは適当に聞き流さないともちませんが。

 議論するときもそうです。反対意見であってもまずは相手の意見に共感することが必要です。相手が何を考えているのか,どう感じているのか,それを理解して,議論を進めなければ,話は発展しません。
 相手の意見を最初からうち破ろうと思って,批判的に聴いて揚げ足取りをしていたのでは,本当の議論とは言えません。

 ただ,こちらは共感的に拝聴しても相手にその気がまったくないことがあり,収集がつかないことがあります。そういうときは,もう聞き流すしかないでしょうか。ケースバイケースですね。

 本を読むときもそうです。最初から批判的に読むのではなく,まずは著者が書こうとする気持ちを知るように努めるのです。

 生徒との間でもそうです。なぜ勉強に身が入らないのか,なぜ休んでばかりいるのか,
 そのような気持ちにまずは共感する。頭ごなしに叱っても子どもたちは聴こうとしません。

 次回は,共感と同感(同情)について書こうと思っています(以前も書きましたが,改めてここに書いておきたい)。

 「共感」と「同感(同情)」
 「共感」は,相手の感情と共になる,ことですから,相手の気持ちをよくよく理解することになります。なぜこんなに悲しんでいるのか,なぜそのように苦しんでいるのか,その気持ちを察するのです。

 「いまここ」の気持ちを語ってもらう。そしてそれを理解する。その中で,共感するのです。

 でも,「共感」と「同情」は違うよ,と大学で教わりました。
 「同情」というのは,相手の感情と同じになることです。
 悲しい気持ち,苦しい気持ちになってしまって,自分も悲しむ,自分も苦しむ,そうなることが同情なのです。

 クライエントはその悲しい気持ち,苦しい気持ちを何とかして欲しくてカウンセリングに来ます。しかし,カウンセラーも同じレベルで悲しくなり,苦しんで,そしていっしょに涙を流し,おろおろしたら,クライエントはどうすればいいのでしょうか。おろおろしているカウンセラーでは役に立ちません。

 クライエントは,その悲しみ,苦しみが増幅してしまい,そして,おろおろしているカウンセラーに頼ることができなくなってしまいます。

 そうではなく,カウンセラーはクライエントの気持ちに「共感」をするが,「同情」するのではなく,自分をきちんと保って,しっかりしていなければいけないのですね。クライエントに頼られるカウンセラーでなければならないのです。

 さて,以下は,ロジャーズのクライエント中心療法とは違うかもしれません。または,カウンセリングの場面と実際の生活の場面,学習の場面との違いかもしれません。

 ぼくの考えです。

 例えば,いま勉強したくないという生徒がいるとします。勉強したくないという主張を聞いて,その気持ちを理解します。つまり共感します。

 しかし,だからといって,では勉強しなくていい,ということではないと思うのです。

 勉強したくないという気持ちはよく分かる。しかし,勉強はしないといけないよ。なぜなら・・・・,と説明し,理解を求めます。たいていは簡単に理解してくれません。
 それでも,とにかく今は勉強を続けよう,ということにします。

 頭ごなしに,子どもの気持ちも理解せずに大人の主張を通すわけではない,子どもの気持ちを理解するように努める,共感する,しかし,子どものいう通りにする必要はない,と思います。

 もちろん,共感し,その子どもの気持ちの通りにさせた方がいいな,と思ったら,大人の考えを変える柔軟さは大切です。

受容すること
 カウンセリングにおいては,「共感」と並んで「受容」ということをよく言われます。

 相手の気持ちを受け入れるということです。共感とよく似ていますが,微妙に異なるものです。

 「受容」について考えるときに,フロムの「愛するということ 」を思い出します。
なお,これも大学時代に読んだ記憶です。本棚をさがしたら出てくると思いますが,ちゃんとしたことを書くとかえってめんどうになりそうなので,記憶で書きます。

 父親は,子どもに条件付きで愛を与えます。あなたががんばって立派な人間になったら,ぼくはあなたを愛しましょう。だから,立派な人間になるように努力しなさい。というものです。

 一方,母親は無条件で子どもを愛します。あなたには悪いところがある。でも,それでも私はあなたを愛していますよ,というものです。どんな子どもであっても私の子どもなら,私はあなたを愛します,なのです。

 父親の愛と母親の愛のちがいです。これはすべての父親,母親にあてはまるわけではなく,一般的,典型的な父親,母親ということでしょう。最近は少し違うかも。

 これを書きながらいろいろ頭に浮かびます。
 「五体不満足」という本,ベストセラーになりました。
 手足のない赤ちゃんが産まれた。父親は医者はそれを見て,母親にどう伝えようか,どのようにして赤ちゃんを見せようか,悩みます。母親がショックを受けるだろうと思ったのです。当然ですね。でも,見せないわけにはいかず,勇気を出して対面させる。
 すると,お母さんは,手足のない我が子を見て「わあーかわいい」と笑顔で抱きかかえたというようなシーンがあったように思います。

 いいですね。

 一方,父親。映画「エデンの東」では,ジェームズディーンが父親の愛を得るためにいろいろ努力するが・・・,というようなものだったように思います。

 障害児が産まれたために,離婚して父親が去っていく,という話もよく聞きます。

 そうでない父親,母親もいるでしょうがね。

 さて,カウンセリングにおいては,母親の愛のように,無条件で相手を受け入れるように努めます。そのままのあなたでいいのです。それをそのまま私は受け入れます,とうように。

 それが「受容」です。ロジャーズ流のカウンセリングは,それを徹底します。

 人間には「ホーム」というのが必要だと思います。いつでも帰ることができる「家」です。

 いつでも帰るところがあると思うと,人間は思いきり飛び立つことができます。疲れ果てるまで飛び続け,そして自分を生かし,疲れたら帰って休む。そういう場があると積極的に自分を生きることができるのですね。

 だから,無条件で自分を受容してくれる人がいるということを知った人は,自分で自分を高めていくことができるとロジャーズは考えていると思います。

  

ブレーンストーミング
 「ブレーンストーミング」ってご存じですか。

 ネットで検索してみると,かなりの数のページがヒットしたので,いまでも利用されているのでしょう。
 
 ぼくの記憶では,ぼくは
発想法―創造性開発のために (中公新書 (136)) (新書) 川喜田 二郎 (著)

の中で呼んだのではないかと思います。

 いまアマゾンでみると,この「発想法」1967年発行ですが,まだ販売されているのですね。もう古典でしょう。いい本です。


 ブレーンストーミングについては,
http://nokai.ab-garden.ehdo.go.jp/giho/41.shtml で簡単に知ることができます。

 ただ,次の4つのルールを知ればいいと思います。単純ですから。

 ルール

1,自由奔放(奔放な発想を歓迎し、とっぴな意見でもかまわない)

2,批判厳禁 (どんな意見が出てきても、それを批判してはいけない)

3,量を求む(数で勝負する。量の中から質の良いものが生まれる)

4,便乗発展(出てきたアイデアを結合し、改善して、さらに発展させる)

 数名が集まって,なにかアイデアを出したいときに,上の4つのルールで進めるのです。いまなぜこのブレーンストーミングを思い出したかというと,カウンセリングで「受容」について書いたからです。

 上のルールに「批判厳禁」というのがあります。会議などで,意見が思いついても,これを言ったら笑われるかもしれない,批判されるかもしれないと思うと,発表できません。でも,どんな馬鹿げた意見であっても批判しない,笑わないということを決めておけば,どんどん意見が出てきます。要するにみんながそれぞれを「受容」すると,おもしろいアイデアが出てくるというのです。

 ばかげたアイデアからいいアイデアが産まれる可能性は大いにあるのですから。

 そして,ぼくはぼくが管理しているmixiの「セルフラーニング」このコミュがブレーンストーミングに近い感じになればいいな,と思っています。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1037793

 最初からブレーンストーミングを頭においていたのではないのですが,居酒屋気分で勝手に書き込もうよ,という姿勢はブレーンストーミングに近いものだな,と思っています。

 mixiのコミュは,アイデア会議ではないので,まったく批判なし,というとまたおもしろくないでしょう。しかし意見を戦わせるのが中心になると,批判されると思って,きままに書き込むことができなくなります。それよりもどんな意見であっても,それなりに価値はあると思うのですね。これまでもいろいろな方のいろいろな意見を読んでとても勉強になりました。

 居酒屋気分でビール片手に,自由な発想で馬鹿げた意見であっても,書き込む。ブレーンストーミング的なコミュであり続けたいなあと思います。

価値観による6つのタイプ
 エドゥアルト・シュプランガーという心理学者がいました。

 ぼくの記憶では,高校の倫理社会の教科書にのっていました。それで,おもしろいなあと思いましたね。心理学に進むきっかけのひとつです。

 彼は,人間を価値観によって6つのタイプに分けています。

 理論的人間、審美的人間、経済的人間、宗教的人間、権力的人間、社会的人間の6つです。

 ぼくなりに解説します。

 理論的人間というのは,簡単に言えば,科学者タイプです。学問,真実に価値をおきます。何が真実かを追究する。

 審美的人間は,芸術家タイプです。美しいものに価値をおきます。

 経済的人間は,お金儲けタイプです。お金がすべてだと思っている。

 宗教的人間は,宗教を熱心に信じている人です。宗教,信仰に価値をおく。

 権力的人間は,政治家タイプです。権力を握ることに価値をおいています。

 社会的人間は,まわりの人を愛することに価値をおきます。マイホームタイプです。自分の家族を愛し,それを大切にする。

 さて,みなさんはどれですか。もちろん,いくつもにまたがっているでしょう。これもあるけど,これもあるな,とう感じ。でも,これはいやだなとも。

 ネットで少し調べたら,それを調べるテストがありました。

シュプランガー 6つの価値観から見る性格
http://www.sinritest.com/web/sopsy/character/syupu2.htm

 その結果,ぼくは,理論的人間、審美的人間がかなり強かったです。自分でも「理論的人間」だと思っています。これは頭のよしあしには関係ないですよ。

 きのうから黒鉄ヒロシのまんが「坂本龍馬」を読んでいます。最初のところにこの6つの価値ではかると龍馬はどれだったか,を黒鉄さんが判断しています。バランスのけっこうとれた人という判断でした。まあ納得。

 きのう沖縄の新聞は,台湾産のマンゴーを宮古産のマンゴーだと偽装していたという記事が大きく載っていました。今朝の新聞にもその関連記事が大きく載っています。
 それを見て,妻にシュプランガーの6つの価値を軽く説明し「お金に価値をおく人は,人をだましてでもお金儲けするんだろうな」という意見をいいました。

 まあ,こんな感じで,人をどのタイプかなと思いながらみるとまたおもしろいですよ。

タブラ‐ラサ
 きょうは「タブラ‐ラサ」について書きます。

 ヤフーの「大辞泉」で検索しました。

タブラ‐ラサ【(ラテン)tabula rasa】
《何も書かれていない書板の意》ロックの認識論での用語。生まれながらの人間の心には白紙のように生得観念はないという主張のたとえ。

 ようするに,タブラ‐ラサとは,白紙のことです。ロックは ホワイトペイパー としか書いていないがそれでは軽すぎるので,ラテン語のタブラ‐ラサが用いられるようになったというのを何か読んだ記憶があります。

 哲学的に話すときは「タブラ‐ラサ」と言うと,かっこいいですからね。

 ロックは経験論という立場にあります。人間は生まれたときは,何も書かれていない白紙のような状態である。生まれて後の経験がその白紙に書かれることによって,成長するというように考えたのです。だから,環境,学習を重視しました。

 心理学の行動主義を始めたワトソンは,その最たるものです。彼は、「私に心身共に健康な1ダースの赤ちゃんを与えてもらえれば、環境条件を調整して条件付けを駆使することによって、医師、弁護士、芸術家、大実業家、更には、乞食や泥棒にさえもしてみせよう」と書いています。

 心理学は確かにその流れをくんでいます。人間,生まれたときには差がない,その後の環境で差がついてくるのだという考えが大きいです。

 男女の差もそのようなものだと学生時代に教わりました。つまり,人形遊び,ままごとをするのは女の子で,男の子は体を動かすのが好きである。しかし,これは親やまわりの大人がそのような行動を期待しているからである,と。

 そのことに関しては文化人類学者のマーガレット・ミードの本の影響は大きかったです。彼女は,ニューギニアの原住民のある部族は,一般に考えられている男と女の役割が逆転していると述べています。つまり,男女の差というのは,生まれてあとの環境によるものということです。
 でもそのことはミードが間違えた報告をしたとして否定されているようです。

 また,親の職業と似た職業に子どもがつくことが多いが,それは親の姿を見たからだという説明がよくなされます。確かに親が文学が好きならその話はよくするので子どもも関心を持つようになるでしょう。本棚にもそれに関するのが多いでしょうから。
 一番のいい例は,金田一京助、春彦、秀穂,三代の国語学者です。彼らが国語学に関心をもったのは,その環境によるという説明を心理学ではやります。納得いく説明ではあります。

 また,政治家も二世,三世が多くなっています。芸能界も,スポーツ界もそうです。これも環境で説明がつきます。

 つまり,人間はタブララサで生まれてきて,その後それに何が書き込まれるかによって性格,能力が変わってくるということです。

 しかし,それに対して,脳科学者,遺伝学者などから心理学へ批判があるのです。

ヒトは先ず「愛してる!」と叫んだ?


 つづきは明日書きます。

火星人と金星人のつきあい
 mixi のコメントに

 自分の息子が体調不良なのに,無理して珠算塾に行った。そこで,集中力が足りないと殴られた,という話が書き込まれました。子どもの変化にもっと気づいて欲しいという意見です。

 それに対して次のようなコメントを書き込みました。

 ご意見もっともです。その珠算塾の講師の行動を擁護するつもりまったくありません。特にそういうことで殴るのは問題だと思います。
 ただ,感じたことがあるので書き込みます。


岸見一郎著「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ワニのNEW新書)」

 を読みました。

 アドラーは,言葉を重視しています。

 

他の人から自分の気持ちを察してもらったり,思いやられることを期待してはいけないということであり,黙っている限りは自分のおもいは 人に伝わらないということを意味します。(p164)


 

そもそも相手を理解することは不可能である,とアドラーは考えています。(p169)



 このことに関してこの本にはおもしろいたとえ話が載っています。 ジョン・グレイの「ベストパートナーになるために」(三笠書房) にある話だそうです。


男性は火星人で女性は金星人であったという寓話があります。ある日、男性が望鏡鏡を覗いていたら美しい女性の姿が目にとまります。彼は思いきって声をかけました。思いがけずデートに応じた彼女とその後もデートを繰り返すようになります。この頃、二人は互いの考え方、感じ方に自分とは異なるものがあるのに気づきます。それはすぐには受け入れることのできないものですが、それでも二人は相手は異星人なのだから、こんなことがあって当然、と許し合うことができました。

 やがて惑星空間内でのデートにも飽き、そろそろ落ち着きたいと考えた男性は女性にプロポーズし、めでたく結婚して地球に新居を構えます。

子どもが生まれます。実はこの頃から二人のコミュニケーションはギクシャクし始めます。生まれた子どもは何人でしょうか。そう、地球人ですね。そして自分たちも地球人だと思い始めるようになります。するとそれまで相手の考え方、感じ方に違和感があっても、相手は自分とは違う異星人だからと許せていたのに、同じ地球人なのになぜ同じように考えないのだろう、感じないのだろう、許せない、ということになるのです。初めはわからなくて当然と思っていて、わからないことを前提に逆にわかろうとする努力をしていたはずなのに・・・・・・




 アドラーとかつて同僚だったフロイトはいろいろ人の心を解釈しました。自由連想や夢を分析して無意識の中を解釈しました。ぼくはそれに比べるとアドラーはいいと思います。人間は人間を理解することはできないと思った方がいいのです。

 理解できないと思っているからこそ,相手を理解するように努めるし,そして理解してもらおうと努めるわけです。

 気分が悪いときには,気分が悪いと言葉にすることが大切で,それを読みとってくださいと思ってはいけないと思います。

 ぼくはあえて相手の変化を見ないようにすることもよくあります。子どもが気分悪そうにしていてもこちらからは声をかけないのです。

 アドラー流に言えば,自分の気分が悪ければそれをどのように解決するかは,子どもの課題です。子どもの課題をこちらが肩代わりすることはない,という考えです。自分で切り開く力をつけて欲しいからです。

 友人が「○○さん,気分が悪いって」
 と来たときには,自分で来て言うように,伝えることもあります。○○さんの課題を友人が肩代わりするものではないと思うからです。

 では,子どもが何も言ってこなければ,何もする必要はないかと言えばそうはいっていられません。

 特にいじめの問題では,子どもは言葉に出して言えない状態にあります。子どもからの言葉にはならないサインを読みとることは大人にとって大切なことです。

 それを子どもの課題としてしまってはいけないでしょう。子どもだけでは解決できない課題もある,それは大人の課題でもあると思います。 

文化,情報の共有と言葉
 昨日書いた「火星人と金星人のつきあい」のことで,

 日本人は農耕民族,西欧人は狩猟民族で,それによって考え方が異なるために,言葉の重要性も異なるのではないかというコメントが載りました。

 それについてのぼくのコメントです。



 付け加えると,日本が島国だったこともあると思います。

 島国だったために,文化が全国的に似通っていることです。沖縄はだいぶ異なりますが。

 文化が似ているために,考え方も似てきます。

 ヨーロッパでは,地続きなので,いろんな文化をもった人とつき合わなければならない。だから,同じ土俵に立っていないことがあるのだそうです。

 だから,きちんと契約をしないと相手を信用できない。言葉がそれで重要視されてくるのですね。

 でも,日本人は考え方がだいたい似ているので,言わなくても分かるところがある。以心伝心です。

「そこまで言う必要はないよ」と,言葉に出してしまうとかえって野暮になることもあります。

 西欧人は一日に一回は妻や恋人に I love you. を言うそうです。
 ぼくは以前,日本男児がそんなこと言えるか,とどこかに書いた記憶があります。そんなのは言葉に出すものではないと思っている。

 文化,情報を共有していると,代名詞だけで話が通じてきます。

 「あの人が,あれはこうしなさいって,さ」
 で聞いた人が理解することもありうるのです。

 「お茶」「風呂」「めし」だけでも通ってしまう。

 しかしそれを共有していないと何のことかまったく分からなくなります。

 問題は,文化,情報を共有しているつもりが,していなかったときに起こります。

 子どもと話をしていると,きゅうに
「○○おじちゃんがね」
 と急に知らない固有名詞が出てくることがあります。

 その子は家族の中で会話するときは「○○おじちゃん」で通じるものですから,家族でない人にも通じると思ってしまうのです。
 子どもの自己中心性あらわれでもあります。

 相手の立場にたって,相手は自分とどのくらい情報を共有しているのかをはかりながら話をしなければいけないのですね。

 難しい。ぼくもできているかどうか。

 「お茶」「風呂」「めし」だけで十分だと思っている男,
 I love you.なんて日本男児が言うものではないと思っている男,
 それが,実際は妻はまったく異なったように感じているかもしれないですからね。

反面教師を演じる
 mixiセルフラーニングのコミュに書き込んだ文です。本来は前の部分を読まないと理解しにくいでしょうが,そのまま転載します。何とか理解できると思います。


 ○○さんは

>>引用するだけなら学ばなくてもできます。

 と書いていますが,学ばなくてもできることをまたします。

 
岸見一郎著「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ワニのNEW新書)」

 
 本気で腹が立てば,行動の目的は権力争い,アドラー自身の言葉を使うならば,「闘う」 ことが目的になります。(p51~52)

 別のページには,アドラーが「復讐」という言葉を使っていることも書いています。

 いまいろいろと問題になっている,報復戦争です。

 アドラーの表現に「勇気づけ」「勇気をくじく」というのがあります。

 勇気をくじかれると,相手の勇気をくじくように画策し,また相手はこちらの勇気をくじくように画策する,ということでしょう。


 さて,このトピのテーマは「モデリング」です。

 モデリングには,「反面教師」というのもありますね。

 ようするに,他人の悪い行動を見て,そうしないようにしよう,というものです。

 よくあるのは,長男と次男。長男がお母さんに叱られるのをみて,次男はこんなことをしてはいけないんだな,と学びます。だから,次男は要領がよいと言われます。

 スポーツチームで,叱られ役というのがいるそうです。叱られても平気な子,叱りやすい子がいます。コーチはみんなの前でその子を叱る。すると,別の子どもたちはあんなことをしないように注意しようと心に刻むそうです。

 ここで,叱ることの是非はおいておきましょう。とにかく,反面教師というのは実際にあります。

 いまヤフー辞書をひくと
 はんめん‐きょうし【反面教師】
《中国の毛沢東の言葉から》悪い見本として反省や戒めの材料となる物事。また、そのような人。

 とありました。毛沢東の言葉だったのは知りませんでした。



 さて,
 長い前置きになりました。
 ぼくは,このトピで図らずも「反面教師」を演じていたようです。

 悪かったのは,ぼくです。
 「アドラー心理学入門」を読んだばかりのぼくは,アドラーのことをよく持ち出す○○さんのコメントがアドラーと矛盾しているではないか,と思って書いたのがコメント14です。ちょっとからかってやろうという気持ちがあったことを白状します。

 たぶんそれが○○さんの勇気をくじくことになったと思います。

 それ後,○○さんからのコメント19がありました。

 ぼくが退塾した子に対して行った行動が間違えていたという指摘です。それはぼくの勇気をくじくことになりました。

 それに対してぼくは,それはぼくの課題だから入り込まないでくれ,とコメントしました。コメント21

 それに対する○○さんのコメント22は
「自分流の考えを述べる事、と課題は違います。 また、助言と支配は異なりますので・」
 でした。


 このような意見交換をやってもお互いが高まるわけではありません。ぼく自身,おもしろくありません。その火をつけたことに対し,謝罪したいと思います。

 すみませんでした。

 これは,○○さんに対してと,これを読んでくださったみなさんに対してです。


 ただ,○○さんも書かれていますが,「意見は食い違って当然です」。
 「闘い」「権力争い」ではなく,意見の異なった意見交換はどんどんやっていけたらと思っています。お互いが楽しみながらそして少しでも向上できればいいです。  

ほめたかどうかは,受け手が決める
 mixiのセルフラーニングのコミュに書き込んだコメントです。前後は推理してください。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=34654187&comm_id=1037793



 以下のことは,教師や親が陥りやすい大きな問題だと思います。トピを別にとも思ったのですが,流れのままに続けます。

 ○○さん

>>>見下されたと感じたのですね。

 はい,そう感じました。それよりも○○さんが自分を大きく見せようとしているように感じています。

 さて,

>>>私は見下したとは思っていません。
>>>問題提起をしたつもりはあります。

 に関してですが,「見下した」のか「問題提起」なのかを決めるのはだれでしょうか。○○さんは,「見下した」とは思っていなくても,それをぼくが「見下された」と思ったとすると,これは「見下した」ことになると思っています。

>>>記者会見で謝罪をする校長と同じで、良いですか???
 
 「問題解決型の思考で前向きに考えたい」ということで,○○さんはコメントしたそうですが,ぼくには「おどし」に感じました。そうなった場合,このコメントは「脅し」になると思います。

>>>引用するだけなら学ばなくてもできます。
>>>知ったかぶりをすると痛い目に遭うという事
>>>たかだか入門の本を読んだだけで多くを語るのは危険すぎます

 をぼくは,
>>>「引用するなら勉強してからにしなさい」
>>>「知ったかぶりをするんじゃない」
>>>「入門の本を読んだだけで語るんじゃない」
 という意味,つまり「支配」かつ「命令」と受け取りました。

 そうなった場合,これは 「支配」かつ「命令」になると思います。


 また,○○さんの別のコメントに
「自分流の考えを述べる事、と課題は違います。
また、助言と支配は異なりますので・・・。」

 とありますが,その違いを決めるのはだれでしょうか。

 Aさんは助言のつもりでBさんに言った。しかし,Bさんには支配されるように感じた。

 ぼくはそれは「支配」だと思います。

 もっと一般的な話にしましょう。

 「ほめる」と「叱る」

 アドラーは「ほめる」またそれ以上に「叱る」ことを否定的にとらえていますが,それは横においておいて,一般的な話で。

 AさんはBさんをほめたつもり,しかし,Bさんはほめられたとは思わない,かえってけなされたと感じることがあります。

 例えば,80点をとった子どもに「よく,がんばったね」とお母さんが言ったとします。お母さんはほめたつもりです。しかし,子どもは,もっとやれば90点はとれたはずだ,と思っていたので,皮肉を言われたと思います。

 こういうことってありますね。また,

 いやな先生にほめられたとき,その子はそれをほめられたということで素直にその先生の気持ちにそうような行動をするか,です。

 だから,ぼくは,ほめたのか,ほめたのではないかは,それを発した人ではなく,それを受けた人が決めることだと思います。

 ほめる人は,ほめようとする人の状況,性格などを十分に考え,判断しなければいけないと思うのです。

 叱ることについてもそうです。アドラーはそのことをかなり強調しています。引用したいのですが,長くなるので簡単に書きます。表現はぼくのものです。
 親は叱ってその行動をやめさせたいと思う。しかし,子どもはそれをかえって親との接触が多くなるということでわざと悪い行動を続ける。これは「叱る」ことにはなっていません。

○○さんの
>>>私が誰かを評価しましたか?
>>>肯定はしますが、叱ったりはしていませんよね?
>>>あくまでも「私はこう考える」つまり、アサーティブな意見です。

 について,ぼくは「あなたの退塾した子に対する処置は間違えています」と評価されたように感じています。叱られたように感じています。

 「○○したつもりなのに」では通らないということです。客観的なほめ言葉など存在しません。

 子どもの主観的な世界で,ぼくらの言葉がどのように受け取られたのか,それが重要なのです。

 こちらが発した言葉が相手に伝わり,相手もそのように感じるようにする。ぼくらは「つもり」ではなく,それがきちんと伝わったのかどうかということをいつも気にしなければいけないと思っています。

 世の中には「ほめ言葉集」のような本もありますが,実際にはそういう客観的なほめ言葉なんて存在しないのです。

 

○○さんの「こちらは居酒屋気分の雑談ですので、勇気づけも勇気くじきも、行うつもりはありません。」は,それでいいと思います。ただ,アドラーを高く評価している方のコメントと多くの方は思うでしょうね。

客観的世界と主観的世界・・再び
 きのうは,「子どもに愛が伝わっていますか」ということを書きました。

 本当は愛していても,子どもがそれに気づかなければ,それは無力だということです。

 もう少し詳しく書きます。
 私たちにとっては,客観的世界と主観的世界があるのです。

( これことについては前にもどこかで書いたことがあり,だぶりますが,ご了承を。できるだけ前回と違う表現で書きます。 )

 客観的世界というのは,私たちがどう思うかに関係なく,実際に存在する世界です。それに対して,主観的世界は私たちが思っている世界です。

 例えば,サンタクロース。

 客観的世界の中では,サンタクロースは存在しません。

 しかし,子どもたちはある年齢までは,サンタクロースは存在していると思っています。子どもの主観的世界の中では,サンタクロースが存在するとうことです。

 このように客観的世界と主観的世界が食い違う例はいくらでもあげることができます。

 昔,地球は平らだと人々は思っていました。しかし,実際はその当時から地球は丸かったのです。ここでも客観的世界と主観的世界は食い違っています。

 そして,ここで確認したいのは,私たちは主観的世界の中で生きている部分が大きいということです。
 サンタクロースがいると思う。だから,サンタクロースにプレゼントをお願いする。そして,サンタクロースがやってきて,プレゼントが届くのを楽しみに待つのです。

 地球が平らだ,大洋の端は滝のようになっている,と思っている人々は,決してそこに行こうとはしません。彼らの主観的世界では地球は平らだからです。

 コロンブスは,地球が球だと信じました。だから,西へ西へと向かって航海を続けることができたのです。客観的世界と主観的世界が一致したとき,ぼくらは真実を知ったことになります。

 さて,きのう書いた「子どもに愛が伝わっていますか」に戻ります。

 客観的世界の中では,親は子どもを愛している。しかし,子どもの主観的世界の中ではそれを感じられない。つまり,子どもの主観的世界の中では,親は子どもを愛していない。そういうとき,子どもは愛されていないということで行動することになります。

 「ぼくは親に愛されていないんだ」,ということで,非行に走る,ということもありうるわけです。

 だから,ぼくらは子どもの主観的世界ではどうなっているのかを気にしながら働きかけをすることが必要になるのです。

 客観的世界に主観的世界を近づけていくというのが,学習です。我々は,学習することにより,客観的世界がどのようなものであるかを知り,主観的世界を変えていくのです。
 

フィードバックと子育て
 mixiにも「主観的世界,客観的世界」を書いています。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=35245141&comment_count=6&comm_id=1037793

 コメントがあったので,コメントしました。


だから、僕は子に対して腫れ物にさわるように扱う(あえて酷な表現を選びました)ことに反対です。

上手に育てようとした挙句、デリケートに育てすぎて打たれ弱い子になってしまうケースを最も恐れる立場からの意見です。

もちろん、ケース・バイ・ケースで色々な子がいて色々な親が存在し、様々な考えがあっていいと思います。

Yojiさんに提供していただいたテーマから逸れた、主観・客観の話とずれ、さらに先生や講師としての立場より、親と子についての色の強い意見を書いてしまいました。
また、なんの客観性や裏付けもない僕自信の狭い意見で申し訳なく思います。

こんな言及しにくいテーマを横入れしてしまう形になりましたが、僕自信、自分が子を持ったらどう接し、育てていくかについて考え出す歳になりました。
塾講師をアルバイトでやる傍らそんなことも考えています。

もし、興味がわいたらこんな話にも少し触れてみて下さい。




こぉへさん

 コメント,ありがとうございます。

>>>こんな言及しにくいテーマ

 ぼくは,そんなつもりではなかったのですが,これもぼくの主観とまたみなさんが受け取って主観のずれです。

 どんどん横やりを入れてくださった方がうれしいです。
 ぼくは,ぼくが学んだこと,考えていることを書き込んで,それをたたき台にして,みなさんがそれぞれの意見を書き込んでくれたらと思っているところです。そういう意味で,こぉへさんのコメントはうれしいです。


 子どもにどのような影響を与えているのかを気にするあまり,はれ物にさわるようになるのは,確かにあり得ますね。

>>>上手に育てようとした挙句、デリケートに育てすぎて打たれ弱い子になってしまうケース

 も十分にあり得ることです。

>>>いろいろな親が存在し、様々な考えがあっていい

 これも納得です。

 そういうことに全く言及していませんでした。それをこぉへさんが補ってくれたことに感謝いたします。


 ぼくは,このトピで「フィードバック」の大切さを書こうとしています。

 もう30年も前のことです。運転免許のために教習場に通いました。最初の日だと思います。
 助手席に座った教官がぼくにたずねました。
 「いま,タイヤはどこを向いていると思うか?」
 ぼくはもちろん「分かりません」と答えました。
 「では,どうすれば分かるか?もちろん,車の外に出てはいけない」
 考え込んだぼくは「車を歩かせれば分かります」と答えました。
 「そうだ。ぼくでも車を動かさないとタイヤの向きは分からない」

 車の動きを十分に注意するということです。
 車が右に曲がりすぎているときは,左にハンドルを切る。逆に左に曲がりすぎていると右に切って,自分の思っているところに車を進ませるようにします。

 結果が返ってくるのを考えにいれて,自分の行動を調整するのです。それをフィードバックといいます。

 はれ物にさわるように,デリケートすぎる育て方をして,打たれ弱い子になっていないか,それをみて,育て方を考え直すのもフィードバックです。

 頭のいい子に育てたい,やさしい子に育てたい,たくましい子に育てたい・・・・,それはいろいろです。それでいいのです。

 でも,やさしい子に育てたいと思って子どもに働きかけをします。例えば,ねこを飼ってかわいがるようにするやさしい子に育つと本にあったので,それを実行したとします。ぼくがここでいいたいのは,それで終わってしまってはいけない,ということです。

 そのペットを飼ったために子どもがどのように変化するのかを十分に気をつけなければいけないということです。やさしい子に育つようにした親の「つもり」が,そうなっているのかをみるようにしなければいけません。そして,それがうまくいっていると判断したら,それを続け,もしうまくいっていないと判断したら,変更することが必要になります。

 「打たれ強い子」に育てたいと思って,きびしく育てようとします。その加減が難しいですね。きびしすぎると心にゆがみがでてくる可能性があります。きびしさが足りないと「打たれ弱い子」になります。それがうまくいっているのかは,子どもをみることです。

 長々と書いてしまいました。みなさんからの反対意見などは,このコミュニティがうまくいくためにフィードバックになります。どんどん横やりを入れて欲しいです。

 よろしく。
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