セルフ塾は閉めましたが、そのままの名前でブログを続けます。独学,独習。教わるより,学ぶを重視。 セルフラーニングの方法,英語,数学などの情報を発信するつもりです。

不登校について
mixiにたてたトピックをここに転載します。


 不登校について考えてみましょう。かなり深刻な問題です。このコミュニティに参加されている方の中にもそれで悩んだことのある方もいらっしゃるようです。

 さて,私の考えから。

 いまの日本の不登校に対する指導が,「学校は行かなくてもいいんだよ」というのが全面に出されているのではないでしょうか。

 私は,基本的に「学校は行くべきだ」ということを子どもには伝えることが必要だと思います。

 「学校は行かなくてもいい」という指導が,不登校を助長しているところがないか,と思うのです。

 ただし,私は「学校は何があっても行かなければならない」という立場ではありません。
 学校より,その子の心,健康が大切だというのはもちろんのことです。それをこわしてまで学校に行く必要はない,と思います。

 だから,かなりこじれた段階では,「学校に行かなくてもいいよ」という言葉も必要になるでしょう。

 しかし,ちょっとしたことで学校を行かなくなった場合に,子どもの心を大切にということで,「行かなくてもいいよ」という発言をして欲しくないのです。


 mixi セルフラーニングのトピック
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共感と同感(同情)
 mixi に書き込んだのですが,ここにも残しておきます。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=27201733&comment_count=20&comm_id=1037793

不登校について,もうひとつ書いておきたいことがあります。

 以前にも書いたことがあるのですが,

 「共感」と「同情(同感)」とは,ちがうということです。

 不登校の子どもは苦しんでいます。

 その子の気持ちをわかってあげる,共感するというのはとても大切なことです。

 そのために,その子が心を開いて話をするように,親身になって聴くという態度が必要です。そして,その子の気持ちを分かるように努力することが大切です。

 しかし,同情してはいけないのです。ここで同情というのは,その子と同じ気持ち,同じ心になる,ということです。

 学校に行きたくない,という気持ちは理解する,しかし,そうかということで,親,教師も行きたくないという気持ちになる,ということに全く同じ気持ちになってはいけないのです。

 そうではなくて,一歩だけ離れて,クールな目をもって,ではどうすればいいのかを考える必要があると思うのです。

 親や教師も同じ気持ちになっておろおろしていてはいけない。もっと遠くを見つめ,解決の方法をさがすことができなければいけない,と思うのです。

 この問題では,特に「共感」と「同情」の区別をすることが大事だと思います。

こーすけさんの質問
こーすけさんの質問は4つでした。昨日2つは回答したので,きょう残り2つ回答します。

 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  

3.生徒のでき具合によって、もしできなければ、カットしてもいいのでしょうか?
例えば、置き換えによる展開・因数分解は教科書発展内容になりますが、やはり必要でしょうか。
次の改訂の学習指導要領では、復活する内容ではありますので、平均点が取れる生徒にはやらせようと思います。

(回答)
 もちろん構いません。
 ぼくの塾では,学力によって毎日の課題を減らしています。ご存じのように能力の個人差はとても大きいです。同じ課題をこなすことはできません。

 できる子と同じ量の課題をさせても,時間内にはどうしてもできないのでやる気がなくなります。それより,課題量を減らして,これだけならできるということで前向きに学習に取り組んだ方がいいようです。

 課題の量を減らすと,もちろんできないページも出てきます。ぼくの本はけっこうな量あるので,それだけを終わらせるのはけっこう大変です。

 それで,基本的な学習が終わったら発展,応用の問題は飛ばして次の単元の基本的な問題に入るようにしています。

 だからこの本は柔軟に使っていいと思います。

 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  

4.上に関連して、今後の「わかる数学」の改訂はお考えでしょうか?
私も将来的には、Yojiさんのように、自学自習のテキストを作りたいと考えています。
もしテキストの改訂がありましたら、私もお手伝い、いや、修業させていただけたら、と夢見ています。

 (回答)
 もちろんできれば改訂をしたいと思っています。もうすでに直したいところはひとつや二つではありません。

 上の質問との関連で言えば,ページごとに「基本」「発展」「応用」のようなことを書いていれば,使う方が「基本」だけをやろう,というようになると思います。

 ただ,出版したら在庫の本はさばかなければなりません。また,出版社が再販してくれるかどうか。いずれにしてもいま印刷した分は売れてからになるでしょうね。そういう意味でもできるだけ早く売れて欲しいです。

 そのさいは,みなさんの意見もできるだけお聞きしたいと思っています。

 こーすけさんもよろしく。現場の意見がなにより欲しいです。

若い教え手,年輩の教え手
 教える先生,講師には,もちろん若い人と年輩の人がいます。またその中堅の人がいます。

 ぼくはもちろん年輩のほう。もう年寄りといってもいいのでしょうか。ぼくは子どもがいないのですが,ぼくの同期生はほとんど孫がいて,おじいさん,おばあさんです。

 ぼくは,「まだ若いくせに」とか「今頃の若い人は」というのは言わないようにしています。まだ若いころのことを思い出すことができるからでしょうか。そういわれるのが大嫌いでした。
 「なに,年を取っていればいいのか」と内心思っていました。

  しかし,年輩と若いの,確かにそれぞれ違います。年輩のよさ,若さのよさがあるように感じます。

 若いというのは,それだけで魅力ですね。みずみずしくてエネルギー,パワーがある。
 時代を動かしたのは若い人がけっこういます。激動期には若い人が活躍する。明治維新のころの人はみなとても若いです。
 吉田松陰は享年29歳だったそうです。

 野球投手としては直球で真正面から勝負する。力でねじふせる。

 子どもたちも若い教師にはそれだけで寄ってくる。

 一方,年輩になると,経験がある。いろいろな事例を知っています。
 もう力でぐいぐい押してくることはできません。投手としては技巧派になる。相手の心理を読んで,コースぎりぎりに変化球を決めていく。

 
 でも,教えるという仕事をしていると,年をとった方が得することが多いかな,とも思います。
 力はなくても,年をとっているとそれだけで経験豊富だ,教える力もついているだろうと思われます。
 一方,若いとお母さん方からは,それだけで「はずれ」と思われてしまいます。

生徒に知識が伝わっていますか
 子どもに愛が伝わっていますか,ということで,

 客観的に愛しているというだけではなく,その愛が子どもに伝わって,子どもが愛されていると感じることが大切だと,書いてきました。


 少し,視点を変えてみます。

 授業において,いい授業なのか,悪い授業なのかは,客観的なものはない,という話をします。愛と同じです。それが知識に変わっただけです。

 教師は,ある知識を生徒に伝えるために,いろいろ工夫します。下調べを十分にして,そしてイラストを使ったり,ユーモアのあるじゃべりかたをしたり,例をあげたり,
 とにかくいろいろな手を使って,「いい授業」をしたとします。

 しかし,それでいい授業になったかどうかは分かりません。

 肝心なことは,それが子どもに伝わったかどうかです。

 中学2年生で連立方程式を学びます。教師は,分かりやすい説明をしたつもりでいても,生徒達が連立方程式を解くことができなければ,その説明は悪かったということになります。

 同じ説明でも,Aさんは理解して解くことができても,Bさんはできなかったとしたら,Aさんにとってはいい説明で,Bさんにとっては悪いものだったといえます。

 だからぼくらは自分の授業に酔ってはいけないのです。

 一斉授業のときには,自分の授業に酔うことがありますね。ぼくもあります。

 ある説明をして,うまく話せたなあ,と感じることがあります。きょうの授業は100点満点だと自己評価します。

 でも,後で生徒が問題を解くが解けないというのをみて,なぜあの説明でできないんだ,と腹を立ててしまうことがあります。

 でも,その腹を立てる方向は生徒ではなく,自分でなければいけないのですね。生徒ができないということは,ぼくの説明が悪かったからだ,ということなのですから。

 いい授業というのは,教えようとする知識が生徒にきちんと伝わった授業なのです。
 

フィードバックの実験
フィードバックの実験
 フィードバックがどんなに強力なものなのかが分かる実験を紹介します。

 まず2つの幾何的図形を準備します。この実験が書かれていた本をさがしたのですが,見つからないのでぼくが適当に描いてみました。

 一人の人が図形の説明をして,その他の人がその説明を聴いて,その図を再現して描くというものです。

 準備するのは鉛筆と紙。それと図形です。消しゴムもあった方がいいです。

 説明をする人を「説明者」,その他の人を「図再現者」としましょう。
 説明者は1回につき1人,図再現者は何人でもかまいません。

 2回行います。「フィードバックなし」と「フィードバックあり」です。

 「フィードバックなし」では,図再現者は「質問してはいけない」ということにします。説明者が一方的に説明を行い,図再現者は,その説明を聴くだけで,図形を再現しなければいけません。

 「フィードバックあり」では,図再現者が質問をいくらでもしていいことにします。分からなくなったら,すぐに質問して詳しく説明してもらうことができます。何回質問してもかまいません。

 2回のちがいはそれだけです。「質問なし」と「質問あり」です。

 生徒に説明をさせる場合は,最初の「フィードバックなし」は一番説明がうまいと思われる生徒にさせましょう。

 そして2回目の「フィードバックあり」は,2番目か3番目に説明の上手な生徒にさせてみましょう。

 また,図形は同じ程度に複雑にすべきですが,同じ複雑さの2つの図形を描くのは難しいです。だから,フィードバックなしの方で単純だと思われる図形を使います。

 「フィードバックあり」の方が成績がよくなるはずです。それを説明する人がよかったとか,図形が単純だったということにしてはいけないからです。

 1回目が終わっても正解の図形は見せずに,2回目を行いましょう。1回目の図形を見せると,2回目の実験のヒントになります。1回目を行っただけでもヒントになりますが,まあそこはしようのないこととして。

 この2つの違いは明白です。実験をしたらすぐに分かるはずです。

 フィードバックなしでは,いくら上手に説明したと思っても,まず同じ図形は描けないはずです。

 一方,フィードバックありでは,ほとんどの人が同じ図形を描けます。

 フィードバックなしのとき,図再現者はいらいらします。うまく描くことができないからです。そのいらいらは説明者に伝わるかもしれません。1つのフィードバックです。それで説明を詳しくしようと思うのですが,どこをどうすればいいのか分かりません。

 フィードバックありでは,活発な質疑がおこり,図再現者も楽しそうです。
 「待って,待って,ひし形は縦と横,どこが長いの?」
 「今言ったこと,もう一回言って」
 「弧って何だったっけ?」などなど。

 この実験をすれば,フィードバックありの授業をしなければいけないということがよくよく分かるはずです。
 フィードバックありの授業とは,教師が行った授業を生徒がどのくらい理解しているのか,子どもたちの反応を気にする授業です。それについては次回に詳しく。

 なお,これは厳密な心理学の実験ではありません。厳密にするためには,フィードバックあり,なし,以外は同じ条件にしなければなりません。それはめんどうです。研究ではないので,上の手続きくらいで理解できるはずです。

学び手は常に正しい
 昨日は,

島宗理著「インストラクショナルデザイン・・教師のためのルールブック」から「何かを教えても教わった方がそれを学んだとは限らない」というページを抜粋しました。

 その同じ著書から「学び手は常に正しい」という部分を紹介します。昨日の部分につながるものです。


鉄則12 学び手は常に正しい

 教えようとしていることがうまく教えられないとき、教え手は《個人攻撃の罠》に陥りがちだ。

 個人攻撃の罠とは、教え手が教えようとしていることを学び手が学んでいないときに、それを学び手や教え手の能力や適性、やる気のせいにしてしまって、改善のためのアクションをとらないことだ。

個人攻撃の罠

 児童が宿題をやってこなくて  
   → 「こいつらやる気がなさすぎだ」

同じことを繰り返し説明しても分からない生徒に
   → 「この子には適性がない」

授業中、ほとんどの生徒が寝ているか私語をしているのを見て  
   → 「私には教師の適性がない」

インストラクションを改善していくための鉄則中の鉄則として、《学び手は常に正しい》というルールを覚えておこう。

鉄則中の鉄則 学び手は常に正しい

 宿題をやってこないことが「正しい」という意味ではもちろんない。宿題をやってこない背景にはそれなりの理由がある。その理由が分かってみれば、児童はその理由にかなうて「正しく」宿題をしてこなかったことが理解できるという意味だ。宿題をやってこない児童がいるということは、宿題に関するインストラクションのどこかに改善の余地があると考えよう。

個人攻撃の罠に陥らず、宿題をやってこない理由や原因を児童のやる気や性格、能力のせいにせず、インストラクションの改善点として解明できれば、宿題をやってくる行動を増やすことができるようになる。




 このことは,ぼくが教材を作るときにいつも気にしていたことです。プログラム学習を作るときの注意点としてよく書かれていたからです。

 つまり,教材を作って生徒に与えます。しかし,与えっぱなしにしません。ほとんどの生徒がきちんと正解に達していればいいのですが,間違えている生徒が多いときは教材が悪いとするのです。そして,ほとんどの生徒が正解に達するように教材を手直しします。

 生徒ができないときは,生徒の理解力のせいにしてもしようがありません。
 教え方にまだ工夫が足りないということで,もっと工夫できないか考えることが大切だということですね。




大人と子どもは,縦の関係? or 横の関係?
 ぼくが管理人をしているmixi「セルフラーニング」のコミュに立ち上げたトピックです。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=35571828&comm_id=1037793

 親と子ども,教師と生徒,それは縦の関係,つまり上下の関係だと思いますが。それとも,同じ人間なのだからということで,横の関係だと思いますか。

 戦前は,そういう質問すらできないほどはっきりしていたでしょう。もちろん縦の関係だと皆が考えていました。親や教師のいうことは絶対で,子どもや生徒は素直に従うべきだという考えです。封建的な考えです。(もちろん,一部の思想家の中には横の関係を説いている人もいたようです)

 戦後,民主主義が入ってきました。大人も子どもも皆平等であり,同じ人間として同じ権利を持っているとされました。子どもの人権も大切だと叫ばれました。そして,親と子ども,教師と生徒は横の関係にあるべきだという考えが出てきました。

 そしてお父さんが子どもの友達のような関係になってきたのです。教師も生徒を下のものと見ずに,子どもの主張を大人の主張と同じように聴くようになりました。


 さあ,みなさんは,どう考えますか? 大人と子どもは,縦の関係であるべきですか,それとも横の関係であるべきですか。

 ぼくは基本的には,縦の関係にあるべきだと思っています。もちろん,戦前の封建的な絶対的なものではなく,子どもの意見も聞くことは聞くし,尊重もする。しかし,最終的には大人の方に決定権はあるべきだという考えです。

 いま,「授業の工夫のコミュ」に書き込まれていたのを思い出しました。
 家庭教師をしている学生の書き込みですが,子どもがいうことをきかない,学習時間中に携帯電話を使ったりするというのです。

 家庭教師としては携帯電話を学習時間中に使ってはいけないと主張する。子どもはいろいろ理由をつけて使ってもいいと言い張る。
 そこでおりあいがつかなければどうすればいいのでしょうか。

 ぼくが家庭教師なら,とにかく使ってはいけない,と大人の権力を行使しますね。学習の障害になることを説明はしますが,それを納得してくれないのなら強制的にでも従わせるという気持ちが必要だと思うのです。

 強制することができるというのは,基本的に上下の関係にあるからできることです。

 「ヒトは先ず『愛してる!』と叫んだ?」という本の中で,中島秀人氏は「あるとき、団塊の世代の人にエネルギー保存の法則は殴っても教えるべきだといったら、反民主的だといわれましたが、エネルギー保存の法則は殴っても教えないといけませんよ。」と言っています。

 「殴っても」というのはどうかとは思うのですが,大人がこうすべきだと思うことは強制的にでもしなければいけないことがあると思うのです。
 ぼくは,読書は強制的に生徒にさせています。

 学級崩壊や家庭内の問題には,このことが少なからず関係しているのではないでしょうか。
 民主的に取り組もうと理想に燃えてクラス運営をするが,生徒が思うように動いてくれない。必死で説得はするのですが,上からの指導という気持ちはないので,強制はしない。それでクラスが崩壊してしまう。
 そういうことってないでしょうか。学級崩壊についてはよく知らないので勝手に想像して書いていますが。

 家庭でもお父さんは子どもと友達のように遊ぶ。しかし,権威がない。それで,何かあっても強制することができない。これも想像です。

横の関係では無理なのでは
 mixiの「セルフラーニング」で書き込んだコメントです。

大人と子どもは,縦の関係? or 横の関係?


 ○○さん

 コメントありがとうございます。

 「アドラー心理学入門」を読んでいて,大いに勉強になることはありましたが,数点ぼくの考えと異なるところがありました。

 そのひとつがこの「縦の関係」「よこの関係」です。
 アドラーは「よこの関係」が望ましいと説いているそうですね。
 それで,それについてもっと深めたいという気持ちもあってこのトピを立ち上げました。

 ただ,この場でひとつの結論に達することは難しいと思うし,達する必要もないと思っています。それぞれが言いたいことを言って,その中から少しでも自分が向上することができればと願っています。


 さて,前置きはそこまでにして

>>>私はどんな状況においても「よこの関係」が望ましいと考えます。
>>>生後まもない子であっても、あくまでも「個人」として尊重し、その上で「毅然とした態度」を貫きます。


 「個人」として尊重し,「毅然とした態度」を貫きます
 に関してはぼくも同感です。


 「横の関係」というときには,いろんな権利において平等だということになると思います。投票権も1票ずつ。ぼくのイメージはそのようなものです。

 さて,上でぼくが例にあげた,家庭教師で場で子どもが携帯電話を使う件。
 家庭教師としては,学習に支障があるのでということをいろいろ説明して納得させ,「学習時間中には携帯電話の電源を切る」というルールを決めたい。
 しかし,子どもは友人から緊急な連絡があったりするといけないなどの意見を述べ,携帯電話の電源を切ることに反対する。
 長時間話し合っても合意に達しない。家庭教師としては「毅然とした態度」でのぞもうとすると,子どもも「毅然とした態度」をとる。横の関係なので子どもも同じ力がある。
 投票をしようにも,1対1。

 それを教室でやられたらたまらないですね。例えば教師1人と生徒30人。それぞれが1票もっているといつでも生徒が勝ってしまいます。

 「横の関係」では解決できないように思うのですがどうなのでしょうか。


 ぼくは子どもを「個人」として尊重するというとき,子どもの意見を十分に聞き,理解しようと努めることを意味しています。
 携帯電話を使いたいという気持ちをできるだけ理解し,こちらとしてもできるだけの譲歩はする。しかし,譲れない一線があります。その一線を越えるときには,説明をし,理解してもらおうと努めるのですが,理解してもらえないときには,ここは譲れない,私の考えにしたがってもらいましょう,とする。
 「縦の関係」にあるので力はこちらが上。最終的には強制力ももっているという立場です。

子どもの貧困を考える
 伯父から雑誌「経済」10月号のコピーが届きました。
 特集:子どもの貧困を考える です。

 この中でいろいろ指摘されていますが,ぼくは3つの点に特に関心を持ちました。

 まず

 OECD(経済協力開発機構)の資料からは、日本は国際的に見ても貧困層の比率が高く、税制と社会保障制度の貧困を減少させる効果が低い国であること、特に子どもの貧困率に関しては、税と社会保障による所得再分配が貧困率を上昇させるという逆機能を持つOECDで唯一の国であることなどが紹介され、波紋を広げている。


 という箇所です。ぼくは初めて知りました。
 このことに関しては別のところでもふれられていますが,詳しくはありません。よく知られていることなのでしょう。

 それで,確かなことは分からないのですが,ぼくが推測してみます。
 「所得の再分配」というのは,中学3年の公民でも習います。所得の高い人には税金を多く出してもらい,社会保障などで所得の低い人に分配するという仕組みです。
 俗な言い方をすれば,お金持ちからお金をもらい,貧乏人に分け与えるということです。

 しかし,日本ではそれが逆機能を持っているというのです。とすると,貧乏人からは税金をたくさんとり,そして社会保障も行わないということになります。
 累進課税がとても緩やかになっているそうです。以前は最高税率が70%くらいだったのが,今は40%ほどに。一時期はさらに低かったそうです。つまり,以前はお金持ちからたくさん税金をとっていたが,今はあまりとらなくなっているのです。

 逆に多くなったのが,消費税です。消費税はどんな貧乏人からも出さなければいけません。税の負担が重くなっているのです。
 そして,社会保障がだめになっています。後期高齢者医療などはさいたるものですが,ほかの社会保障もどんどんだめになっているのです。
 それを考えると,所得の再分配が逆機能を持つというのも納得です。

 要するに国の政策が貧困を進めているのです。


 次に問題になるのが,貧困の連鎖です。
 上のようにして,貧困は制度的に作られてきました。一時期は国民総中流と言われましたが,いまでは格差がどんどん大きくなっています。

 東大生の親は高所得だということはよく聞きます。それと逆のこともあるのです。つまり,学歴の低い人の親は所得が低いということになります。親が貧困だと,子どもに高学歴をつけさせることができません。一般に学歴が低いと所得も低くなります。すると,子どもも貧困に陥ります。そしてさらに孫も。
 このように貧困は次々と世代間を連鎖するのです。


 そして,貧困によって,子どもたちが夢と希望を持つことができなくなっているというのです。
 確かにそうです。大学まで進んで医者になるという夢があったにしても,親が貧困であれば,医者になるという夢は実現しません。それで,子どもは夢も希望も持てなくなります。
 子どもに夢がなくなるというのは,なんて悲しいことでしょうか。

教師として譲れない線
 mixi セルフラーニングに書き込んだコメントです。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=35571828&comment_count=25&comm_id=1037793


 またまた,同じ箇所を「アドラー心理学入門」から,引用します。(p91~92)
ここで「私」は,もちろん著者の岸見一郎氏です。


 私は大学でギリシア語を教えています。毎年、教科書を選ぶのですが、ギリシア語については、私は専門家ですから、かりに学生が「先生、この教科書は練習問題が少ないですから、これを使いませんか?」と申し出ても、おそらく断るだろうと思います。学問的にも教育的にも学生にとって最善の教科書を選んでいるのですから専門家の私としては譲ることはできないのです。

 しかし、どんな仕方で講義をするかについては、学生と相談します。講義形式なのか、それとも、学生が発表するという演習形式にするのかは、学生との相談の上で決めてもいいと思います。教師と学生は「同じ」ではありませんが、人間としては「対等」なのです

 ※  ※  ※ 


 人間として「対等」な関係 ・・・ それについてはまったく同感です。ぼくも強調したいくらいです。

 もう一つの関係が書かれています。
 「教師と学生は『同じ』ではありません」
 「専門家の私としては譲ることはできない」
 「(学生の申し出を)おそらく断るだろうと思います」
  という言葉で表されている関係です。

 教師は,人間としては生徒と「対等」ですが,教える,教えられるという立場で言えば「同じ」ではないのです。
 教師はそれだけの知識,経験を持っています。持っているからこそ,それを持っていない生徒に教えることができるのです。
 知識を持っている教師と持っていない生徒は,同じではありません。そういう意味で,教師は生徒の上に立ちます。
 知識を持っているから人間的に偉いという意味では決してありません。

 そして,どの教科書を用いるかについては,生徒よりもよく知っています。だから教科書を選ぶことに関しては「譲ること」ができないのです。
 だから,申し出を「断る」こともできるのです。

 「譲ることができない」ということは,生徒との間で妥協点を見いだそうと話し合うことはありません。もし,話し合うような態度を見せるのであれば,偽善です。最初から「譲ることはできない」のですから。
 もちろん,生徒が納得するようにできるだけ話をすることは必要です。
 「ぼくはこの本をこうこういう理由で教科書に選んだ。だから,それを使うのです。理解して欲しい」と。

 でも,あくまでも教科書選びの決定権は教師が持っています。生徒にはその決定権はありません。それが「譲れない」ということです。

 決定権を持っている教師は,持っていない生徒の上に立ちます。だから上下関係にあるのです。もちろん,人間的にではありません。

 人間としての「対等な」関係と,教師,生徒の「同じでない」関係,それをきちんと理解して,使い分けることが大切ではないでしょうか。

 ぼくはここに引用した部分はそう解釈しました。 


成果主義 vs. 努力主義

 ぼくが管理しているmixi「セルフラーニング」のコミュに立ち上げたトピックです。



成果主義 vs. 努力主義




 意見の書き込みのしやすいトピだと思います。気軽にどうぞ。

 成果主義の対義語は何か適当なのが思いつかなかったので,「努力主義」としましょう。いいのがあったら教えてください。企業では成果主義の対義語は年功序列でしょうが,ここでは少し違う意味です。

 みなさんは,
 成果主義,努力主義,どちらですか。

 100%成果主義という場合は,どんなに努力したって,成果があがらなければ意味はないよ,というものでしょうね。

 一方,100%努力主義の場合は,成果は上がらなくても努力を認めるべきだ。子どもが努力すればいいんだ,というものかな。

 まあ,その中間というのが多いのではないでしょうか。

 ぼくは,60%努力,40%成果,といったところでしょうか。(ここで意見交換をするなかでその数字がどのように変わるかも楽しみです。)

 やはり,子どもの努力していることを評価したいですね。成果は二の次で,がんばっているという日頃の行動を認めてあげたい。

 完全な成果主義だと,それぞれの子の努力が見えなくなる。
 頭がよくて楽々と1番になる子がいます。努力に努力を重ねてやっと100番になる子がいます。ぼくは100番の子をほめます。

 では,成果を無視していいのか,といえばそうは言えません。

 努力はしているが成果があがらないという子は,どこかがおかしいのです。勉強法が間違えているかも知れません。テストに対するガッツがないのかも知れません。

 その原因をみつけ,成果が上がる工夫をすることも大切です。

 また,成果が少しでも出るとやる気につながります。

 長い間ヒットの出ない野球選手。よく解説者が「ポテンヒットでいいからここで1本欲しいですね」と言います。
 安打は選手にとって成果です。どんなにいい当たりでも捕られてしまっては成果になりません。

成果の閾値

 mixiに書き込んだコメントです。


 感覚には「閾値(いきち)」というのがあります。

 例えば,コップの水にほんのちょっとだけ砂糖を入れて飲んでもらいます。

 「何これ,ただの水じゃない」という反応。

 さらに少し砂糖を加えます。「やはり水じゃない?」

 そして,少し加えます。そのうちに
「あっ,甘いね。砂糖が入っているの?」とやっと気づくところがあります。

 小さな声で呼んでも相手は振り向かない。少し大きな声でもだめ。そしてある程度の大きさになるとやっと気づいてくれる。

 そういうことありますね。

 実際には刺激はあるのですが気づかない。ある程度の大きさの刺激でないとそれに気づかないのです。その気づく値を閾値といいます。

 さて
 ぼくは,努力と成果にもそのような関係があるように感じています。

 努力はしている。しかし,それがある点に達しないと成果に結びつかないことがあるように思うのです。
 10の努力でやっと1の成果が出てくる。7,8,9と努力しているのだけれども,なかなかそれが成果としてあらわれてこないのです。

 とくに学力の低い生徒に感じます。
 例えば,中学1年の方程式
 2x=4 は解けるようになった。
 x-4=0 もできた
 x+4=0 も
 2x-4=0 も

 というように,ひとつひとつのやり方はなんとかできるようになった。

 しかし,テスト本番。どのパターンなのかを見分けきれず,すべて解けなかった。

 そういうことってあるのです。パターンの見分け方を教えるべきですね。後でそう思います。ただ,ひとつ一つを教えるのにも時間がかかるので,そこまでいかない。

 努力はしたのに成果に結びつかないことがあるのです。
 そういう場合は,こちらでフォローしてあげなければいけないですね。努力してよくがんばったよ,と。

 蒔かれた種は芽を出し,大きくなって花までは咲いたのだが,実はできなかった,というところでしょうか。

ケアレスミスの多い子の指導
 メールで質問が寄せられました。

中1の子ですが、数学は一通り解けるんですが、ケアレスミスがとても多いんです。
これは何回も練習すれば直るんでしょうか?
夏から計算問題はかなりやったのに、性格なのかつまらない間違いばかりで・・・
その子はなかなか点数上がらないんです^^;
今は先生の数学取り組んでますが・・・。



ケアレスミスの多い子,いますね。
 特効薬をぼくは知りません。すみません。

 暗算はやめてノートでちゃんと筆算しなさい,と言っています。
 前に水道方式のことを書きましたが,水道方式は筆算主義です。暗算でやるより,筆算で正確な答えを出すのを重視します。

 ぼくは,「鉛筆で考えろ」とよく言います。「鉛筆の先,ノートに書かれた文字,図までが脳なんだよ」とも。
 「アインシュタインは『あなたの研究室はどこですか?』という問いに対して,自分の万年筆を持ち上げて見せたという。」(齋藤孝「考える力」より)
だから,生徒が間違えたときは,ノートでやっているかを確認,どんな計算をどのようにしているかを確認,間違えたところをチェックします。大切なところで手抜きをしていることが実に多いです。それを指摘します。
 そのような中でケアレスミスが少なくなっていくと思っています。

 なお,ケアレスミスだと本人も教える側も思っているが,本当はきちんと身に付いていないこともよくあるように感じます。きちんと力がつくとケアレスミスも少なくなるものです。

それぞれの子にあった教育を

 昨日の琉球新報朝刊,声の蘭で採用された投稿です。


 なによりも”かわっていた”のは、この学校の、授業のやりかただった。(中略)
なにしろ、一時間目が始まるときに、その日、一日やる時間割の、全部の科目の問題を、女の先生が、黒板にいっぱいに書いちゃって、
「さあ、とれでも好きなのから、始めてください」
といったんだ。(中略)

 だから、作文の好きな子が、作文を書いていると、うしろでは、物理の好きな子が、アルコール・ランプに火をつけて、フラスコをフクフクやったり、なにかを爆発させてる、(中略)

 従って、自習の形式が多く、いよいよ、わからなくなってくると、先生のところに聞きに行くか、自分の席に先生に来ていただいて、納得のいくまで、教えてもらう。

 黒柳徹子著「窓ぎわのトットちゃん」のトモエ学園の授業の様子です。

 このような授業なら,ぼくも楽しく勉強したでしょうね。

 黒板の前の先生をみんないっせいにみつめ,話を聞く。そのような授業を受けるよりは,それぞれが自分のペースで学習に取り組む方がずっとおもろいに決まっています。

 分からないところは,一対一できちんと理解するまで教えてもらえるというのもいいですね。一対多数だと,もうこんなの十分理解できたよ,というところも先生は説明を加えるし,ここはもっと説明して欲しいな,と思うところで,先生はさっと説明を終わることがあります。一対一だと,ちょっと待って,これはこういうことですか,と質問し,教えてもらえます。

 そして,先生は子どもの個性や能力をみつめながら,それぞれに課題を与えていきます。かけ算でつまずいているのなら,かけ算の練習をさせます。また,算数が得意な子には,難しい応用問題に挑戦させることもできます。

 このような授業だと,先生の説明が分からず,ぼけっとすることもなくなるでしょう。

 ただ,このような授業をするには少人数の学級にすることが必要です。先生が子ども一人ひとりをよく見て,その子にあった課題を与えることが求められるからです。そして,いっせいに同じ説明をするのではなく,その子に応じた教え方をしなければなりません。勝手に生徒が自習しているようであって,かえって手のかかる教育ではあります。でも,本当の教育にはお金も人手もかかるものです。

 それでも,これまでの子どもたちをひとまとめにする教育から,それぞれの子にあった教育に大きく転換することを考えてもいいのではないでしょうか。

「見守る」と「放任」
 mixi「セルフラーニング」のコミュに立ち上げたトピックです。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=36721684&comm_id=1037793

 「見守る」と「放任」の違いについて考えてみましょう。

 「見守る」というのはいい言葉です。ぼくもよく使います。できるだけ手出しはしないで,子どもたちが間違いをおかしながらも自分で進んでいくのを見守るのですね。自主性を尊重するということでしょう。
 
 それに対して「放任」というのは悪い意味で用いられます。要するに何にもしてあげないということです。勝手にやりなさい,ということです。


 では,この「見守る」と「放任」の違いは何でしょうか。どちらも子どもがやる。それに手を出さないということです。どこで線を引くことができるのでしょうか。

 親の声で,子どもを見守っていきたい,子どもの自主性に任せてあげたい,というのがよく出てきます。
 その中には,ぼくが見るとそれって「放任」なんじゃないの,と思うことも少なくありません。

「子どもは読書が好きではありません。読書が好きになるまで見守ってあげたいです」
「勉強をやりたがりません。どのようにするつもりなのか見守ってあげたい」

 立派に聞こえます。この場合,「見守る」なのでしょうか。「放任」なのでしょうか。

 ぼくは,子どもが大きな失敗,間違いをおかさないように環境を整え,そしてその子のやるように自由にさせる,それは「見守る」ことだと思います。
 その中で小さな失敗や間違いはたくさんしても手出しをしない,しかし,このままでは大きな間違いに進むと思ったときにはいつでも手助けをしてあげる体勢を整えておく,これが「見守る」ことだと思います。

 みなさんは,「見守る」と「放任」の線をどこで引いていますか?
 

「無為」と「見守る」



 加島 祥造著「ほっとする老子のことば―いのちを...」
 はだいぶ前に読みました。老子が好きで老子の本はよく読みます。

 その本をめくっていたら,次のページで目がとまりました。


無 為

(老子道徳経第四十八章)

無為とはね、
何もしないということじゃなくて、
知識を体内で消化した人が
何に対しても応じられるベストな状態でいることだ。
余計な手出しはせずに
自分の内なるリズムに任せて
黙ってみている・・・・



 なぜ,ここかというと,mixiで「見守ると放任」について意見交換をしているからです。
http://selfyoji.blog28.fc2.com/blog-entry-681.html

 「無為自然」というのがあります。そのまま読むと,
「何もなさずに,自然に」ということでしょうか。

 しかし,加島 祥造さんに限らず,ほかの訳でも,そこは「何もしない」ということにはなっていません。そこが難しい。

 ただ,「見守る」というのは,「無為」なんでしょうね。「放任」ではない。

 よけいな手出しはしない。
何にでも応じられる状態にはいる,
しかし,黙って見ている

 そういうことなのでしょう。

男女で大きな差、心的回転問題
 きょうも「科学の目 科学のこころ」から




 さまざまな認知能力の中で、男女で大きな差が出るものがーつある。それは、心的回転問題である。

 これは、小さな立方体が10個ほど、折れ曲がって並んだ三次元立体になったものを、いろいろな方向に回転させたときに、どのような形にみえるかという問題である。これをテストするには、一つの提示図形をみせ、その立体やそうでない立体を含めた複数の立体をさまざまに回転させたものを示し、そのなかから、もとの提示図形を回転させたものはどれかを選ばせる。

このテストは、国も文化も異なるいろいろな地域で行なわれているが、いつでもどこでも、必ず、男性の方が女性よりもかなり得点がよい。その理由は、まだよくわかっていないが、・・・(p176)



 別に女性を差別するつもりはないのですが,男と女ではかなり違うところがあります。

 男は言葉が苦手で,女は図形が苦手です。だから,英語,国語は女性がよく,数学,理科は男性がいいです。もちろん,一般的に。

 教えていて「あれっ!」と思うことがよくあります。

 まじめで成績がいい子だと思っている女の子に図形を教えていると,なぜこんなに理解してくれないんだと思うのです。
 それをそれほど成績のよくない男の子が楽々と理解する。

 教えるものとして,そのことは理解していた方がいいと思います。
 ぼくは教えるときにその子の力にあった指導のしかたをします。力のない子にはていねいに教えますが,力のある子には簡単なアドバイスですます,というように。

 だから,できると思っている女の子が習いにやってきて,簡単なアドバイスだけにすると,理解できない,ということになってしまいます。

 一般に(あくまで「一般に」ですが),女の人は図形に弱いということで臨めば,その子の力をみながらていねいに教えることになります。


 男女で能力がちがうと思うのに,ビデオの予約録画の操作,があります。ほとんどの女性が苦手です。
 塾の電話はぼくの近くにあるので,生徒の話す声が聞こえます。

 「きょうはちょっと手間取っていて,早く帰られそうにない。だから,○○をビデオに撮っていて。」
 お母さんと話している様子。
 「だから,このボタンを押して,次に画面に・・・・・」

 このようにお母さんがビデオ録画をできないで子どもが説明していることがよくあります。

 ぼくの妻はぼくより能力が劣るとは思いませんが,ビデオ操作などになると,ぼくにお願いします。

 ビデオの予約録画の操作ができるかどうかを男女別に比べると絶対に有意差が出ると思います。

 なお,念のために書きますが,ぼくは男女平等主義者です。決して差別のつもりはありません。違いは違いで認めるが,基本的な権利としては平等だという立場です。

大の月,小の月

 ぼくの周りの小学生,中学生は,小の月,大の月が分かりません。31日まである月が大の月,30日(28,29日)の月が小の月です。

 いま,S子さんに尋ねたら,「分かるよ」とのこと。お母さんに教えてもらったそうです。S子さんのような子は少ないです。ほとんどの子は知らないです。

 ぼくが小学生のころは学校の先生にも教えてもらったように思うのですが,どうなのでしょうか。

 ぼくはもう56歳ですから,いまの若い子と知識は違うのは当然だとは思います。でも,この大の月,小の月の知識は日常生活の中で必要だと思うのです。だから,当然知っておくべきことだと思うのですが,どうなのでしょうか。
 それとも,いまは携帯電話などですぐにカレンダーが取り出せるので,それほど必要なことではないのでしょうか。

 もしかしたら,今の若者の中には知らない人もいるかもしれないので,念のために書いておきますが,ぼくの知っている大の月,小の月の覚え方は2通り。 

 1つは,「西向く士(にしむくさむらい),小の月」。
 2(に)4(し)6(む)9(く)11(さむらい)ですね。
 11は漢字で十一,つなげると士で,さむらいの字に似ています。

 もう一つは片手をこぶしにして,指の付け根の関節にできる山と谷を利用します。言葉で説明するのは難しいです。図を挿入するほどのことではないので,知りたい人は年輩の人に尋ねてください。一応,言葉で説明。

 人差し指の関節にできる山が1,人差し指と中指の間にできる谷が2,次の中指の関節にできる山が3となります。次々に行って,小指の山が7,そしてここでUターンするのですが,小指の山をもう一度数えて8にします。理解できましたか?
 同じことですが,手を広げて,指先と指と指の間でやる人もいます。

 うまいものですね。よく考えたものです。

「情熱大陸」「よみたん自然学校代表 小倉宏樹」の動画
  サドベリー・バレー校について,mixiで語り合っています。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=37442382&comment_count=0&comm_id=1037793

 そこにンチャさんからコメントがあり,そこに「情熱大陸」「よみたん自然学校代表 小倉宏樹」の動画のURLが掲載されていました。
ここにもそれを貼っておきます。

「情熱大陸」「よみたん自然学校代表 小倉宏樹」


危険がいっぱい
 mixiの「サドベリー・バレー校について語りましょう」に書き込んだコメントです。

 クリスさんのコメントを読んで,この本の「危険がいっぱい」という節を思い出しました。

 「幼小時に失敗や危険」といっても,このサドベリーの場合は,半端じゃありません。

 キャンパスにある大きなブナの木のてっぺんまで最初に登ったのは、十二歳になる男の子でした。知らせを聞いて現場に駆けつけたわたしたちは、一瞬、心を凍りつかせたのです。大木の背丈はニ十三メートル。その梢の方から、男の子の呼ぶ声がします。生い茂る木の葉で、姿はよく見えません。誇らしげな声だけが響いてきます。地上のわたしたちの心に、その子が墜落するイメージがよぎりました。

 このブナの木のー件は、キャンパス内における危険管理をめぐって、わたしたちの間で長い間、交わされた論争の始まりでした。考えれば考えるほど、心配のタネがあとからあとから出てくるのです。わたしたちが気づかなくても、子どもたちの方でちゃんと見つけてくれるのです。

(中略)

 サドベリー・バレー校では、子どもたちは皆、いつでも、どこでも、行きたいところに自由に行くことができます。わたしたちの学校は、開かれたキャンパスなのです。わたしたちにとって、不安のタネがつきないわけです。

(中略)

 ある日、八歳になる二人組が、一・六キロ先にあるピザ屋のノブスコット・コーナーに向かって元気に道路を歩いていくではありませんか。八歳の子が、車の往来の激しい道路を歩いている! 事故に遭ったらどうしよう・・・・。わたしたちは恐怖のあまり、身をすくませてしまいました。

(中略)

 そのうち、わたしたちは気づきました。見方によっては、どんなものでも「危険」な存在になり得るのです。木も岩も、ポーチも道路も、川の流れも。

(中略)

いったん危険だと思い込むと、「立ち入り禁止」にしたくなるのが人情ですが、わたしたちはその度に、この学校の基本原則を思い起こそうと努めました。サドベリー・バレー校の教育の中心にあるのは、子どもたちは現実世界の問題と取り組むことによって判断力を身につける、という考え方なのです。

(中略)
 
 日々、直面する危険とは、子どもたちにとって自ら立ち向かう挑戦でしかないことが、次第次第にハッキリしてきたのです。

(中略)

そこで、わたしたちとしては、成り行きに任せることにしました。少々の危険は覚悟することにしたのです。遊んでいる最中、怪我をした子も、傷口を消毒してバンドエイドを貼ってもらうと、再び負傷の現場に駆けていきます。でも、たいていの場合、傷の手当てもせず、そのまま遊びに熱中しています。



 

(心配のタネを)わたしたちが気づかなくても、子どもたちの方でちゃんと見つけてくれるのです。


 というのがおもしろいですね。


車の往来の激しい道路を歩いている

!
 を読んで思い出したことがあります。保育園の散歩です。ぼくは一〇数年前,保育園をしていました。

 みんな手をつないで,整然と散歩させるのが嫌いで,目的地を決めて,そこまで自分で行きなさいにしました。目的地が約2kmほど離れた児童公園だということはよくありました。目的地は子どもたちが多数決で決めました。

 ぼくの住んでいるところは「村」ではありますが,人口三万人で車の往来もけっこうあります。

 保母をポイントに立たせてはいるのですが,危険がいっぱいです。でも,子どもたちは楽しそうでした。ずっと走っていく子がいます。ゆっくりゆっくり花を摘みながら行く子もいました。

 危険は自分で察知できるように,ということでやったのですが,いま思うとちょっと怖いことをしていたな,と思います。でも,何事もなくということでかごに閉じこめていてはいけないと思いますね。

ダンが学んでいることを奪い去る権利は、だれにもないんですよ


 サドベリーの典型的な例をコピーします。少し長いのですが。サドベリーの考えがよく分かると思います。サドベリーの生徒の親ジョンが学校に相談にきた場面です。


ジョン「だって、息子のダンときたら、ここに来て毎日、釣りばかりでしょう?」
わたし「その、どこがいけないのですか。」
ジョン「一日いっぱい、それも連日ですよ。秋から冬、冬から春。とにかく、釣りばかりじゃないですか・・・」

 わたしは黙ってジョンの顔を見つめ、ぼやきの続きを待ちます。ここから、いよいよ本題に入るわけです。

 ジョン「わたしが心配なのは、要するにダンが何にも勉強してないことなんです。このまま行ったら、何ひとつモノを知らずに大人になってしまうんじゃないか、と」

 ここで、わたしの短い演説の出番です。ジョンも、どうせそう言われると分かっていて相談に来ているのです。心配を打ち消す、わたしの言葉を待っているのです。わたしは、こう説得します。

「なーに、心配いりませんよ。ダンは何も勉強していないんじゃなくて、その逆です。ダンはわたしの知るかぎり、ほかのだれよりも魚に詳しい。すくなくとも同年齢の子どもには絶対、負けないだけの知識を持っている。魚の種類からそのすみか、行動の特性、生態、そして魚たちの好き嫌いと、魚のことなら何でも知っている。だから将来、立派な漁師になるかもしれませんよ。釣りのエキスパートになって、新しい『釣魚大全』を書くことになるかもしれないじゃないですか・・・・・」

 わたしの「雄弁」も、こうなるとちょっと悪のり。さすがのジョンも、いやな顔をしています。感情をごまかせない性質なのです。息子が釣りの権威になるかも知れないって? そんなこと、信じられるわけがないじゃない・・・・・。

ムッと来ているジョンに向かって、わたしはさらに言葉を継ぎます。わたしの話も、これからが本論なのです。

「わたしの見るところ、ダンはほかにもいろいろ、大事なことを学んでいます。まず第一に、どうすればひとつの物事をしっかり掴み、投げ出さずにすむか。第二に、欲求の度合いがどうあれ、あるいはその導く先が何処であろうと、自分がほんとうに興味を持つことを存分に追い求めることができる自由の大切さを学んだこと。そして最後に、自分がどうすればハッピーでいられるか、ダンは知っている・・・・・」。

 実際、ダンはサドベリー・バレー校で最も幸せな子どもだったのです。いつもニコニコ笑っている子でした。顔ばかりでなく、ハートがスマイルしているのです。年上の子も年下の子も、男の子も女の子も、みんなダンのことが大好きでした。

 さて、わたしの演説も、そろそろ終わりに近づいています。わたしはジョンに向かって、はっきりこう告げます。

「ダンが学んでいることを奪い去る権利は、だれにもないんですよ」

 そして、こう締めくくります。
 「いつの日か、あるいはいつの年にか、釣りに対する関心がなくなれば、こんどは釣りに注いだと同じ努力を次ぎの関心事に向けるはず。だから、もう心配しないで下さい」

 この言葉を聞きおえると、ジョンはおもむろに立ち上がり、温かな「サンキュー」のー言を言い残して、帰っていくのです。そして、一年後にまた、同じ言葉が聞きたくてやって来る。ただし、ジョンの奥さんのドーンは、一緒に付いてきたことがありません。彼女はサドベリー・バレー校に満足していたのです。なぜなら、ダンという、喜びを発散しながら育つ、元気な男の子を持てたのですから。

 こんなパターンの繰り返しのあと、それまで毎年、相談に来ていたジョンが顔を見せなくなりました。息子のダンが釣りを卒業したのです。

 十五歳になってダンは、コンピューターに夢中になりました。一年経つと、地元のコンピューター会社のサービス・エキスパー卜としてアルバイトをするまでになったのです。

 十七歳ではなんと、友だちと二人でコンピューターの販売・サービスを行う会社を起こしてしまいました。十八歳でサドベリー・バレー校を巣立った彼は、コンピューターをもっと勉強するため大学に進みました。大学在学中も、コンビューターのエキスパー卜として働きながら学費を稼いだのです。

(以下略)


 みなさんはこれを読んでどう思われますか。ぼくの感想,考えは後ほど書きます。

何を学ぶか大人が決めてもいい
 きのう掲載した
ダンが学んでいることを奪い去る権利は、だれにもないんですよ
 の感想です。


 釣りだけをしている学校って,たぶん批判されるでしょうね。日本ではなかなか理解されそうにありません。でも,うらやましいところもあります。

 ぼくもこういうのは嫌いではありません。
 ただ,それで本当にいいのだろうかと思います。

 釣りにあきれば,別のことに興味がわき,それに向かって進むでしょう,ということは,興味のあることだけを学べばいい,という考えです。

 問題は,それでいいか,です。

 ぼくの中にもまだ迷いがあります。それでいいという気持ちと,いやだめだという気持ち。

 いまはそれではだめだという気持ちが強いです。

 ぼくは小学低学年から中学生まで教えています。一時期は高校生も教えていました。
 だから,その知識が一歩一歩積み重なってできあがっていくことが見えています。そうするなかでものごとを理解することができるのです。

 これまで何度も,できるというだけではなく,理解することが大切だと述べてきました。

 そのためには,興味のあることだけ,というだけでは不十分になると思うのです。

 最近読んだ,野口悠紀雄著「超超整理法」には,ヘリコプター勉強法というのが紹介されています。ふもとから一歩一歩登のではなく,ヘリコプターで頂上まで行ってもいいのではないか,というのです。知りたいことの結論だけを得てもいいというのです。

 ぼくは,基礎的なことでなく応用的なものならそれでもいいと思います。できればいいという発想です。

 例えば,最近PDFファイルというのを作り,ホームページに掲載することができました。そのやり方はインターネットで知りました。原理もなにも分かりません。しかし,できるようになった。
 それはそれでいいと思うのです。

 しかし,足し算,ひき算の意味が分かる,かけ算とわり算の違いを理解する,というのはやはりだれでもきちんと身につけて欲しいのです。
 三平方の定理にしろ,二次方程式にしろ,知っていて欲しい。
 二次方程式は社会に出て使わないことが多いでしょうが,論理の進め方は知っておかなければいけないと思うのです。

 一度学んだことは,どこかに残っていて,必要なときに取り出すことができます。しかし,まったく知らないことは取り出しようもありません。必要だということも気付かないものです。

 ぼくは塾で読書をさせています。読む本はこちらで決めます。ぼくが読ませたい本を読ませるのです。そうする中で,この本おもしろいね,ということがよくあります。

 星新一を好きになった生徒は少なくありません。その後,図書館で星新一の本をすべて読んだという生徒も一人や二人ではありません。

 そういえば,このサドベリーについても,このコミュで勧められて読んだのです。たぶん本屋でぼくが見ても買わなかったでしょう。他人に勧められて読んだ本がおもしろかったというのはけっこうあるものなのです。

 そして勉強にしても,これはやったほうがいい,と大人が決めて,それを子どもたちに勉強してもらうというのもまたよしなのではないでしょうか。

機械の一部になるための教育


 サドベリー校について考えを進めます。p8~11を抜粋します。序文で,ここにこの学校の教育の根本思想があると思います。
 ぼくの考えは後で書きます。

 (産業革命以前)
 六歳の子は、立派な羊飼いになりたかった。そのためにはどうしたらいいか、学ぼうとした。それが自分の属するコミュニティーの、一人前の大人になることだったからです。

(中略)

  当時は大人の視野のなかで、子どもたちは常に、人と見なされていたのです。

 これに対して<教授>は、一握りの特権層のため、人びとがそれを適当と思う特別の科目のために維持されたものです。
 この点についてアリストテレスは、はっきりこう言っています。わたしたちがいう「文化」とは余暇の産物である、と。
余暇を持つ人びとはーーつまり特権層のことですが・・・、わたしたちのいう「文化的追求」を楽しめるだけの時間を持つ人びとだったわけです。

(中略)

 産業革命は、ある(可能性)を生み出しました。もちろん、それはー夜にして生まれたものではありません。しかしそれは、<万人>が物質的により恵まれ、よりいいものを食べ、より快適に、より健康になれる現実的な可能性をもたらしたのです。それは新しい時代の希望でした。

しかし、問題がひとつありました。産業革命期の機械は、原始的なものでした。

(中略)

産業革命の出現はしかし、社会に深刻な問題を投げかけました。機械のー部として働きたいと思う人は、ほんとうのところ、誰もいなかったのです。誰もがみんな、花開く産業経済の恩恵に預かることができるよう、どうやったら数百万の人びとに自らすすんで機械のー部になってもらえるのか?

  解決策は、<教授>の領域に横たわっていました。
<教育>が、子どもたちのコントロールのため、動員されねばならなかったのです。一握りの特権層の子どもではなく、平民の子どもたちを大量に教育し、コントロールしなければならなかった。

産業革命以前の時期に、子どもが成長するのに必要とされたスキルとはまったく無緑の、行動様式や初歩的技能を教え込むために、<教育>が動員されたのです。

そうした新しい技能の中心には、まったくもって不自然なものが据えられました。自動人間としての機能になりきることができるスキルがそれです。土台、無理な注文なのに、それをやろうとしたのです。

これをやりきるには、ふたつのことをしなければなりません。

ひとつは、子どもたちの自由な精神を破壊することです。
一箇所にじっと座っていたい、並んでいたい、言われた通りのことをいつもしていたいと、思い込ませなければなりません。駆けっこをするなど、もう許されません。もはや自由はないのです。したいことをしてはならない。好奇心の導くままに学ぶなんて、許されない。ただただ、厳しい規律を受け容れていればいい。誰もが同じことを、いつも必ずしている。適応しなければ、罰せられるのです。

 ふたつ目は、子どもたちにある特殊なスキルを教え込むことです。その特殊なスキルは、「三つのR(基礎学力、読み・書き・算数)」と呼ばれるようになりました。
 子どもたちには、読むことを教え込まねばなりません。指示を読めるようにならなければならないからです。

 書くことも教え込まねばなりません。文書づくりができるようにならないと、いけないからです。

 算数も教え込まねばなりません。重さとか長さとかに慣れさせるためです。そうすれば、産業経済が求める標準的な帳簿付けができるようになる。

つまり「三つのR」とは、三つの産業スキルであるわけです。そしてそれは、<教授カリキュラム> の核心を形成するものになりました。

 それは産業革命以前の人間の生存、あるいは人生とは無緑のものです。その昔、誰が数学を必要としたのでしょう? 読み書きを、誰が必要としたか?

 歴史を振り返ると、ほとんどの人が読み書きできませんでした。王や将軍さえもそうでした。一握りの専門家がいて、他の人びとのために、読み書きをしてあげていたのです。

(後略)



教育は自由を得るためのもの
 サドベリーの考え方として,産業革命以後,

 機械のー部になってもらうために,
 子どもたちの自由な精神を破壊する
 産業スキルを身につける



 そのために,教育(教授)が行われたというようなことが書かれています。


 教育とは,自由をうばうものということですね。


 ぼくはそれには反対です。

 ぼくは,逆に考えます。ぼくの好きな言葉は,エンゲルスの「自由は必然の認識」です。これはmixiのプロフィールにも書きました。

 簡単に言えば,知ることによって自由になるということです。サドベリーとは逆に教育によって自由を得るのです。

 狩猟採集時代には,何度も飢餓がおそいました。しかし,稲を育てることができるようになり,飢餓は少なくなりました。食べるということに関して一歩自由になったのです。それは,稲のことを知るということによって得た自由です。

 サドベリーの著者は,産業革命以前はいいような書き方をしています。産業革命の前に市民革命があります。市民革命と産業革命はリンクしています。
 市民革命の前は,農奴制度の時代。身分にしばりつけられていたのです。羊飼いは羊飼いになるしかなかった。一方,貴族は貴族,王様は王様です。王権神授説なるものがあって,王という身分は神様から授けられたものだと信じ込まされていた。

 それに対して出てきたのが,啓蒙思想です。ルソー,ロックらの思想によって,市民革命が起こります。市民はこれらの思想を知ることによって自由を求める運動ができるようになったのです。

 このような知識は中学の教科書程度の知識です。

 支配者階級は,被支配者階級が無教養である方が支配しやすいのです。何も知らなければ,支配されていても文句も出てこない。人権思想なるものを知るから被支配者階級がその支配されていることをきらってとっぱらおうとするのです。国民はバカであったほうがいいと支配者層は考えます。

 さらに一歩踏み込ませてもらえば,現代の日本でもそうです。何がこのような格差社会をつくったのか国民が知らない方が支配者にとっては都合がいいのです。

 みんながみんな高等教育を受ける必要はない。肉体労働を行う人たちも必要だから早めに選別してしまった方がいい。頭のいい人は大学まで行きましょう。悪い人は勉強には向かないから勉強はやめて自分の特技をいかしましょう,ということにする。
 少しずれてしまったでしょうか。

 なお,エンゲルスの「自由は必然の認識」については,以下のページに書きました。
http://selfyoji.blog28.fc2.com/blog-entry-507.html

「プッシュの教育」と「プルの学習」
 まず,野口悠紀雄著「超超整理法」p202からの引用です。




 情報収集について、「プッシュ」と「プル」を区別することができる。

 テレビや新聞は、情報を「プッシュ」している(押し出している)。われわれは、ソファーに座ってそれを受け入れているだけだ。教科書や小説を最初から順に読む場合にも、「プッシュ」された(押し出された)情報を受動的に受け取っている。

 それに対して、情報を「プル」したい(引出したい)場合もある。

 たとえば、ある会社の歴史を詳しく調べたい場合だ。こうした必要が生じた場合、われわれは書店に行って関連書籍を購入したり、図書館に行って資料を調べたりする。 新聞や雑誌も情報をプッシュしているのだが、過去の記事が蓄積され、それらを検索できるようになると、そこから情報をプルすることができる。このための仕組みは、昔から存在した。新聞の縮刷版がそれである。

 情報の電子化が進展して、情報をプルできる可能性が飛躍的に向上した。検索はこれを行うための強力な道具だ。検索エンジンが発明されたために、インターネットのプル機能はきわめて強力になった。われわれは、いま、二十年前には想像もできなかったほどの「プル能力」を獲得している。



 これと似たような感じで,知識を得るために,「プッシュの教育」と「プルの学習」を区別することができます。

 学校教育は,プッシュの教育です。文科省が学習指導要領を決め,そしてそれに沿って学校では教育を行います。先生はあらかじめ決められた通りに授業を行い,それを受動的に生徒は学ぶわけです。

 それに対してプルの学習があります。自分の関心にしたがって図書館で本をさがしたり,またはインターネットでいろいろ調べたりします。

 さて,サドベリー校の特色はこの「プッシュの教育」を完全に否定していることです。何を学ぶかは,与える側が決めるのではなく,受ける側が決めるということです。

 だから,学びたくなったことだけを学べばいいということです。だからもし文字を学ぶことに関心がなければ文字を学ばなくてもいい,という考え方です。

 産業革命前は,「プルの学習」だったが,産業革命後は,「プッシュの教育」が中心になった。だから子どもは不自由で不幸になった,という考えです。企業にとって都合のいい内容を大人が決めて,それをプッシュしているのがいまの教育ということですね。

 それに対して,ぼくは「プッシュの教育」も必要なんではないかな,と思うということで書いたわけです。

みなさんは「プッシュの教育」は必要だと思いますか。それとも必要ないと思いますか。


読みもプルの学習で
 サドベリー校が徹底して「プッシュの教育」を否定し,「プルの学習」を徹底している例をもう一つあげます。

 p63~65 です。

5 リーディング(読み)

 リーディング(読み)は、わたしたちの学校を厳しい試練に晒(さら)しました。わたしたちはリーディングについても、あくまで子ども本人のイニシアチブに任せているのです。わたしたちの方から「読みなさい」と勧めることはありません。「さあ、読み方を習いましょうね」とは、だれも言わないのです。

 「今、読み方、習っておいた方が、いいと思わない?」と勧めることもない。いかにも楽しそうな様子で、「ねぇ、読むって、なんかワクワクすることじゃない?」と誘い込むこともありません。

わたしたちの原則はただひとつ。リーディングについても、生徒が最初のー歩を踏み出すのを待つ、ということです。
 
 何事も思い通りになれば、信念を生きるのも簡単なことです。が、現実はなかなか、そうはならないもの。わたしの家族の例を見てください。一番上の子は、五歳にしてリーディング(読み)に興味を覚えました。自分自身の力で、六歳で読めるようになったのです。なんの問題もありません。すべては期待通り、うまく行ったのです。

 さて、二歳と六カ月年下の娘の番です。学校のほかの子どもと同様、娘が読むのを教えてくれと頼んでくるまで、あるいはまた自分で読むようになるまで、わたしたちは待ったのです。待って、待って、待ったのです。ところが彼女は、六歳になっても読まないのです。まあ、それも良しとしなければならないでしょう。世間並みなのですから。

 が、彼女は七歳になっても読み始めません。こうなると、親としてはやはり心配です。とくに、おじいちゃん、おばあちゃん、叔父さん、叔母さんたちが不安の表情を浮かべます。

 ついに八歳にして、読まず。こうなると、もはやー家、仲間うちのスキャンダルです。わたしたち夫婦は、まるで非行パパと非行ママ。「それでよく、学校やってられるわね」というわけです。娘が八歳になっても読めないのに対策もとらないで、よく学校をやってますなんていってられるわね、そんなのまともな学校じゃないよ、と非難の言葉を浴びせかけてくるのです。

 でも、サドベリー・バレー校では、だれもそんなこと気にしちゃいません。たしかに、八歳になる友だちの大半は読めるようになっている。でも、まだ読めない子も何人かいるのです。そんなことなど、娘は気にもかけていません。元気いっぱい幸せに、毎日を過ごしているのです。

 娘が「読みたい。読もう」と心に決めたのは九歳のときでした。どんな理由でそう決断したのか、わたしには分かりませんし、娘本人も覚えていません。間もなく、九歳と六カ月で、彼女は完壁に読めるようになりました。何でも読めるのです。もはや彼女は、だれの「心配の種」でもなくなったのです。もちろん、もともと「問題児」でもなんでもなかったのですが。


 

 なお,

かれこれニ十年近く、サドベリー・バレー校では、いわゆる「読書障害(ディスレクシァ)」なるケースが一件も出ていません。なぜ、そうなのか、理由は分かりません。

  

 だ,そうです。

 これがうまくいけばいいですね。すばらしいと思います。でも,ぼくもおじいちゃん,おばあさんの仲間だと思います。八歳になっても読まないのでは心配です。

 読書障害はないようですが,幼児のときにサドベリーに入り,青年期に卒業する子すべてが読みができるようになるのでしょうか。そしてどの程度できるのでしょうか。ぼくは心配です。

 読みがこのようなものですから,ほかのこともすべて「プッシュ教育」を否定しているのでしょう。
 かけ算,わり算ができなくてもいい,図形の面積を求めきれなくてもいい,ということでしょう。

 子どもをどれだけ信じることができるか,ということでしょうね。ぼくはそこまで信じることはできません。



サドベリーと臨界期
 もう一つ,「世界一素敵な学校」の中で気になるところを書きます。

世界一素敵な学校―サドベリー・バレー物語




それでもわたしは、一生懸命教えようとしました。参考書もいっぱい読んで・・・・。でも、事態は一 向によくなりません。やがて、わたしは気づきました。同僚もまた、程度の差こそあれ同じ問題に直面し、苦闘していたのです。

わたしの胸に、認めたくもない恐ろしい考えが兆しはじめました。いくらわたしが学生の前ではし ゃいだり、脅したり、すかしたところで、最後は学生たちの気構え次第。学びたくないものは、結局、学ばないことに気づいたのです。

そしてわたしは、恐るべき真実に辿り着きました。

 とどのつまり、わたしたちは、人々がどう学ぶか、ほんとうは何も知らないのです。人々が、ほん とうに興味を持って学んでいるかどうかさえも知らないのです。

ときどきわたしは、今の学校って、童話にある「裸の王様」そっくりだと思います。この世でこれ以上、ぴったりな譬えは他にないのではないでしょうか。何も着ていないのに、自分では立派な衣装を身につけていると勘違いしているのです。「学校」という名の王様は、我こそは知識の調達者なり、供給者なりと錯覚し、来る年も来る年も威張っているのです。

自分の思いどおりにいかないときは、お金にものを言わせます。お金という石膏で傷口を塞ぎ、取り繕ってしまいます。でも、それでは結局、うまくいきません。子どもたちは自分が学ぶものを学ぶのです。学びたいとき、学びたい方法で学ぶのです。わたしたちがいくら教えようと努力しても、そ んなことなどお構いなしです。

この真実を、わたしはサドベリー・バレー校で、いつも目の当たりにしています。が、なぜ、そう なのか、秘密の解読には十分成功していません。

この学校では、知らないことは知らないのです。わたしたち教師の役目は、子どもたちー人ひとりが自分の道を選び、さまざまな方向に歩んでいくその側に、じっと立って見守ることなのです。子どもたちに断られたら、身を引けばいいのです。 子どもたちの若く美しい精神のなかに、なんと素晴らしい多様性が振っていることでしょう。

 偉大なるジャン・ピアジェよ、これはもうあなたに悲嘆に暮れてもらうしかありません。学習の諸段階ですって?  理解へと進む普遍的なステップですって?  知識の獲得におけるー般的なパターンです って?  まさにナンセンスです。

 サドベリー・バレー校の子どもたちは皆、絶えず学んでいるのです。彼・女らの最大の師、それは 彼・女らの「生」そのものなのです。学校の教師が学士号や修士号、博士号を持っていようと、そん なことは小さな問題に過ぎません。



 前半部分はとても共感を覚えます。その通りだと思います。前半部分は,サドベリー・バレーの素晴らしい理念を知ってもらうために書きました。

 ぼくが???と思うのは,ジャン・ピアジェのところです。実はぼくはピアジェを十分に理解していません。それで,少々矮小化して取り上げます。

 学習の「臨界期」についてです。

 一番はっきりしているのは,絶対音階です。幼児期に音楽を習った子は,絶対音階が備わるそうです。絶対音階は例えばピアノの鍵盤をひとつたたく。するとそれを聞いて「ド」の音とか分かる能力です。

 絶対音階は大人になってどんなに学習しようとしても無理だと言われています。できないことはないという人もいるかもしれませんが,難しいのは確実です。

 言葉の発音もそうですね。日本人はr,l の聞き分けが難しい。それを幼児期にやれば苦もなくできる。

 齋藤孝氏は,小学4,5年は読書の黄金期のようなことを書いていたと思います。その時期に読書をさせると読書をする子になる,というようなことです。

 このように,いろいろ学ぶにはそれに適した年齢がある,ということを臨界期といいます。

 鳥のインプリンティングはまさにそうです。卵から孵化したときに見た動くものを親だと思ってついて行くというものですね。


 さて,サドベリー・バレーでは,子どもたちの学びたいときが最適な時期だというようなことを書いています。ぼくはそれでいいかなと思います。

 ぼくはやはり臨界期というのはある,だからできればその時期に学ぶべきことを教えた方がいいと思うのです。どうでしょうか。

 ただ,ぼくは大人が英語を学びたいが遅いでしょうか,と来たときは,

 遅いことはありません。学ぼうと思ったときが一番学ぶにはいい時期なんです,と答えていますが・・・。

惜哉(おしいかな)戦場の数少なければ人信ぜず
真田幸村―知れば知るほど面白い・人物歴史丸ごとガイド (知れば知るほど面白い・人物歴史丸ごとガイド)


 を読んでいます。

 幸村の父昌幸が最期を迎えるときに,幸村に徳川家康に勝つ方法をさずけるのです。大阪冬の陣が,もうすく行われるころです。

 しかし,その前に次のようなことを言います。

然れども我は老功(巧)なれば人に信ぜらる。
信ぜらる時は、謀事用ひらる也。
汝は才智は我にまけざれど、惜哉(おしいかな)戦場の数少なければ人信ぜず。
謀事も亦用ひられじ。


 古文はとても苦手なのですが,ぼくなりに訳してみます。

 

だけども,私は老巧であるから,人は私を信じるであろう。
私を信じるのであれば,このはかりごとはうまくいくだろう。
おまえ(幸村)は,才能は私に負けないが,おしいことに,戦場での経験が少ない。だから,人はあなたを信じないであろう。
人が信じないのならこのはかりごとは成功しないだろう。



 昌幸は,徳川の大軍を小数の軍でうち破ったという経験が二回あります。だから,昌幸の名声は広く知れ渡っているのです。

 前に
 若い教え手,年輩の教え を書きました。

 年をとったらそれだけでいいこともあるんだよ,ということを書きました。

 「老巧」というのは,年齢そのものというより,経験を積むということでしょうね。しかし,経験を積むには年齢が必要です。だから「老」が入っているのではないかな,というのはぼくの勝手な解釈。

「謀事」は,はったりだと思っていいのではないでしょうか。

 徳川軍にはったりをかまして,勝ち戦にする。それには徳川軍があの男ならやりかねないと思わせなければならないのですね。

 同じことをやるにしても,だれがやるのかで効果が違ってくるのです。幸村の方が,昌幸よりうまくやるかもしれません。しかし,おしいことかな,幸村は若いのです。それだけでうまくいかないということがあるのですね。

 なお,この話は作り話だろうと著者は書いています。その方がおもしろいからですね。
 

成績は,下りのエスカレーターを上るようなもの
 きのうときょうは,保護者面談です。その中でよく言う譬え(たとえ)があります。自分で考え出したのか,何か本で読んだのかは忘れてしまいました。

  「成績は,下りのエスカレーターを上るようなもの」ということです。

 下りのエスカレーターなので,立ち止まっていると下に下に行きます。
 同じ位置をキープするだけでも,エスカレーターと同じ速度で上に歩き続けなければいけません。
 さらに上に行きたいのなら,さらに速く足を動かさなければいけません。

 成績も似たようなものです。同じ位置をキープするためにも勉強にはげまなければいけないのです。ちょっと怠けると下にいってしまうのです。
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