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セルフ塾は閉めましたが、そのままの名前でブログを続けます。独学,独習。教わるより,学ぶを重視。 セルフラーニングの方法,英語,数学などの情報を発信するつもりです。

偶然というのは,必然を知らないこと
 決定論者であるぼくは,偶然というのは,必然を知らないことだと思っています。

 例えば,ある場所で旧友に出会ったとき「やあ,偶然ですね。こんなところで出会うとは」などと言います。

 でも,こういうことを想定してみましょう。

 Aさんの奥さんが料理をしていました。料理のときに,砂糖が足りないことに気付き,Aさんに「スーパーに行って砂糖を買ってきて」と頼みました。日頃はスーパーに行くことはないのですが,奥さんの言いつけです。素直に「は~い」と言って出かけました。

 さて,Bさん。奥さんは近所の奥さん仲間と外食。子どももいるのでBさんが食事を作ることになり,スーパーに出かけます。

 Aさんの状況もBさんの状況も知ることのできる第三者がいたとしましょう。その人にすれば,AさんとBさんがスーパーで出会うというのは,なんら偶然ではないのです。

 Aさんにすれば,Bさんがスーパーに来ることを知らなかったために,「やあ,偶然ですね」と思う。逆もまた同じです。

 しかし,それは,Bさんが来るという必然性を知らなかっただけなのです。知っていれば「偶然」とは言いません。

 科学の進歩というのは知らなかったことを知るようになることですね。つまり,必然の領域を増やすことなのです。

 ぼくももちろんすべてを知っているわけではありません。だから,ぼくのまわりは偶然だらけです。

 いまふと思い出したのですが,宅配便では,追跡システムというのがあります。

 本を注文する。すると,注文番号が知らされます。そして,その宅配便の追跡システムにアクセスしてその番号を入れると,本がどこまで来ているのか,分かるのです。今までいつ来るのかなと思っていたのが,そろそろ投函されるな,ということが分かるようになります。まだまだ粗いのですがねl

 これも徐々に必然性の領域を増やしているということでしょう。

自分一人で進められる教材
 昨日(8月15日),次のようなメールを広島市にお住まいの方からいただきました。)

わかる解けるできる中学数学1年を中学1年の娘が使っています。自分一人で進められるといっています。他の教材も取り組ませてみたいので、教材の注文をおねがいします。小学校5年の弟もいますので、そちらも合わせて注文いたします。(以下略)


( Yoji の返信)
教材のご注文,ありがとうございます。
 なによりも,娘さんが「自分一人で進められるといっています」というところがうれしいです。それを目的に作ってきたものですから。(以下略)

「価値観」,「感動」、「夢」と必然
 さて,CHAPYYYさんの質問は,
 「価値観」,「感動」、「夢」でしたね。

 こういうのを自由意志,決定論との関連で考えるのは,初めてです。そのような機会を作ってくれた質問に感謝します。なお,ぼくの独断と偏見がだいぶ入った回答です。

 「価値観」
 前にシュプランガーの価値観について書きました。真理,審美,経済,権力,宗教,愛 でした。

 真理を求める人。以前NHKで見たのですが,好奇心の遺伝子が見つかったのだそうです。その遺伝子をもっている人は新しいものにすぐにとびつくとのこと。いま,「NHK 好奇心 遺伝子」で検索すると次のページがでてきました。

http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-special/library/library_jintai_3.html

 そこに書いてあったこと。

No.1179 驚異の小宇宙・人体3 遺伝子・DNA  第5集 秘められたパワーを発揮せよ~精神の設計図~
初回放送:1999.08.10 放送時間:54分 総合テレビ
ある特定のタイプの遺伝子を持っていると、好奇心を抱いたり、不安になる傾向が強くなるという。これらの遺伝子は、「脳内神経伝達物質」の働きと深く関わっていることが分かってきた。今、次々と明らかになる「心の遺伝子」の世界を探る。

 つまり,好奇心の強い,弱いというのは,遺伝子レベルでかなり決められているようなのです。真実を知りたいという価値観を持つ人はその段階でだいぶ決定されていると言えるでしょう。もちろん,環境の影響も無視できないでしょうが。
 なお,ぼくの記憶では,好奇心が強すぎるために,仕事を転々と変える人が出ていました。少しやるとつまらなくなり,別の新しいのに飛びつくのでしょうね。それもまた大変。

 美に価値をもつ人。 人間の脳には「美」を好むように組み込まれているようです。赤ちゃんも美しい人が好きです。赤ちゃんが好きかきらいかどのように知ることができるかって? 美しい人を長い間みつめているのです。美しい人とブスの人を赤ちゃんは判断し,美しい人を好むのです。その傾向にたぶん差があるのでしょうね。そこの違いはぼくにはまだ分かりません。

 お金に価値をもつ人。 バーを押したら食べ物が出てくる。サルはそれをすぐに学習します。さてさて,バーを押したらお金が出るようにします。もちろん,本物のお金でなくてもいいです。ただ,それはいくらか貯めると,食べ物など,好きなものと交換できるということも学習させるのです。サルは学習できます。すると,どうでしょう。必要以上にお金を貯めるようになるのです。お金を貯めることに価値をもつサルを作り上げることができるのですね。たぶん,人間もこのような学習の中でお金に価値をもつ人ができあがったのでしょう。

 権力に価値をもつ人。  ニホンザルには,ボスざるがいます。ボスざるは権力を握っています。ボスざるは多くの雌ざるを従え,それらとセックスをし,自分の子どもをたくさん作ることができます。権力を握った方が自分の遺伝子を残すことができるのです。だから,権力には価値がある。

 人間の場合は,セックス,遺伝子ではないでしょうが,権力があるとお金も得られますから,経済人と似たようなものではないでしょうか。

 宗教は家庭環境などが大きいのではないでしょうか。お母さんが敬虔なクリスチャンだと,子どももいっしょに教会に行くでしょう。そしてイエスさまの話をたくさん聞く。すると,敬虔な信者になっていくのではないでしょうか。

 愛は,確実に脳の中に備わっています。ぼくが思うに,これはだれでもがかなり強く持っている。しかし,他の価値が強いとそれが相対的に弱くなってしまうのではないでしょうか。

 以上,簡単ではありますが,「価値観と決定論について」とさせていただきました。(結婚披露宴のあいさつ風)

 「感動」、「夢」について
 いろいろな環境に適応するために,人間はその進化の中で「意識」というのを生み出した,というようなことを書きました。正確に言えば,「意識」が生まれた動物は,よりよく環境に適応し,生き残ることができたということでしょう。

 さてつい最近,ぼくが感動した話を書きます。「これが正しい!英語学習法」の中にありました。かなり簡単にします。

 姉は病気だった。輸血が必要。弟から輸血をすることができる。
 ドクターが弟にいいました。
 「お姉ちゃんにあなたの血をあげることできる? そうすればお姉ちゃんの病気は治るのだけど」
 弟はしばらくためらったのち「うん,いいよ。それでお姉ちゃんが助かるなら」
 そして手術を迎えました。弟の顔は真っ青になっています。そして言いました。「ぼく,もうすぐ死ぬんだね」
 幼い弟は誤解していたのです。自分の血をすべて姉にあげると思っていたのです。

 どうですか。感動的な話です。もし,感動しなかったのならぼくのまとめ方が下手だったのです。ぼくは涙が流れそうになるくらい感動しました。

 自分の死と引き替えに,姉の生を残そうとした,犠牲的行動,それに人は感動するのです。

 人間は,感動することによって,それをモデルにするようになるのではないでしょうか。そのような話に感動した人は自分を犠牲にすることをいとわなくなるでしょう。すると,それが多くの遺伝子を残すことにつながっていきます。

 だから,感動も必然なのです。

 同じように,夢も必然です。人間は,夢を持つことによって,前向きに積極的に生きることができます。すると,遺伝子は立派に残っていきます。夢を持っている人は魅力的です。生き生きとしています。そういう人には異性も寄ってきます。CHAPYYYさん,あなたも夢を持っている人が好きでしょう。
 すると,遺伝子も残せる。

 このように,感動も夢も必然です。しかし,それが必然だからといって感動が薄まるわけではありません。夢がつまらなくなるものではありません。

 必然性の中で,大いに感動し,そして夢を持っていきていくこともできるのです。
 

利己的遺伝子と自由意志
 CHAPYYYさんから質問がありました。

人それぞれがもつ価値観,「感動」だったり、「夢」だったり、そういうのにも脳がそう動くことになった原因というものがあると思いますか??



 それで,今回は予定を変えて,それについて回答いたします。

 あると思います。確信をもって。

 説明の前に,書いておきたいのですが,

 実際に生きていくときには,この哲学的世界は無視するということです。自由意志がないことは確かです。しかし,それがなければなくてもいいじゃないか,と居直るのです。「生かされている」ということを知っていても,「それはそれでありがたいことではないか」と考えるのです。

 孫悟空がキントーウンに乗ってさかんに飛び回っていても,結局は仏様の手のひらの中でしかなかった,という話を知っていますか。
 でも,その手のひらのなかで精一杯生きようよ,と言いたいです。その中で楽しめればいいじゃないか。思い詰めて,生きるのがいやになってもつまらないです。テーゲーでいいではないか,と思うのです。

 生き物は遺伝子の乗り物でしかないと言われています。利己的遺伝子という考えです。遺伝子が生き残るために,生き物という乗り物を利用している。
 人間もそうです。自分の遺伝子を残すために,一所懸命に働き,食べて飲んで,そしてセックスをして子どもを産み,育てる。自分を犠牲にしてでも子どもの命を守る,とうのもその方が自分の遺伝子が生き残る確率が高いからです。かまきりの雄は自分の子どもができたら雌に食べられるそうです。その方が自分の遺伝子は生き残る。

 ぼくには子どもがいません。しかし,ぼくの甥,姪にはぼくと同じ遺伝子が4分の1ずつ入っています。それを残すためにかわいがるようになっているのです。

 もちろん,ぼくがそのように計算をしてかわいがっているのではないですよ(これは,甥,姪が読む可能性もけっこうあるので)。しかし,そう考えた方が納得がいくことが多いです。

 ちょっと横道にそれましたが,実際には遺伝子によって操作されているのかも知れないけど,自分の子ども,孫,兄弟,甥,姪をかわいがることはそれはそれでいいことではないかと思ってもいいと思うのです。

 CHAPYYYさんに好きな人ができ(もういるのかな?),つきあっているうちにセックスがしたくなって,する。そして子どもができる。そうなるように脳には組み込まれているのです。長い進化の歴史の中で,その方が遺伝子をきちんと残していけるから。

 どんな人を好きになるのかの研究もぼちぼちと始まっています。

 もちろん,人間複雑なので,その道を素直に歩いていくとは限りません。自分はこの仕事をずっとやっていきたいから,恋愛なんてやっていられない,なんと思うかもしれません。

 セックスなんてけがらわしい,いやだ,と思う人もいるでしょうね。

 人間は進化する中で,いろいろな環境に適応するために,意識を生み出しています。なぜ意識があれば適応するのか,いま研究中です。ぼくも農家学者達も。ただ,意識があった方が環境に適応するようになったことは確かでしょう。そして,その意識は一人歩きをするようになる。極端な話,意識があるために自殺をすることも考えてしまいます。そして,恋愛,セックスを否定するようにもなるのですね。

 ひとまず,アップします。つづきます。

自由意志と決定論
 ぼくには自慢できることがあります。まあ,多くの人はなぜこんなこと自慢できるの?と言うでしょうが。

 高校生3年のとき,決定論に自力でたどり着いたのです。

 決定論の説明は後でします。

 ぼくは物理が大好きでした。学校で学ぶだけでなく,いろいろ本も読みました。原因があって結果がきちんと決まる,そういうすっきりしたのが好きでした。なぜそうなるのか,それは原因をきちんとつかまえることができれば,決まるのですね。それが,必然性といいます。

 二つの運動する物体が衝突したとき,その後それぞれの物体はどの方向にいくらの速度で動く,という物理の問題を楽しみながら解いたように思います。

 さて,今の多くの若者と違ってぼくが若かったころは,霊など信じませんでした。魂の存在も。そして,意識は脳の働きによるものだという唯物論をぼくはそのころから知っていました。どこでどう知ったのか,思い出せません。当然のこととして理解していました。

 ある日,高校生のぼくは,そのふたつが合体したのです。モノの動きは必然的である,そして脳はモノでできている。ということは,脳の働きも必然ということではないか,と。

 すると,いまぼくが考えていることは,必然であって,自分の自由意志だと思っていることも単に物体の運動の結果,つまり必然ではないか。すべては決定されていることではないのか。

 それを考えて,むなしく思い,自殺をするとしても,それもまた必然ではないのか。

 そういうことを高校生のぼくは考えたのです。それが思いついたぼくは少々興奮気味だったように思います。何かにメモした記憶があります。それがどこに行ったかは分かりません。

 もちろん,そのことはぼくが最初に思いついたのではありません。これは「決定論」ということで,昔からあり,そして未だに哲学的議論の続いているものです。ただ,だれかに教わったわけでもなく,何かを読んだわけでもなく,それが思いついたのは,よくやったな,と自分では思うのです。

 「決定論」という言葉は知りませんでした。その後,そのことを頭に置きながら書店をまわってみつけたのが,

不確定性原理―運命への挑戦 (ブルーバックス) (単行本) 都筑 卓司 (著)

 いまは新装版が出ているようです。ぼくが読んだのは前のものです。



 初版は1970年に出ています。その年ぼくは高校3年生です。出たばかりだったのですね。

 それを読んで,ぼくと同じように考える人がいることを知りました。不確定性原理については,よく理解できませんでした。いまでもよく分かりません。ただ,粒子力学は,ニュートン力学のようなものではないことだけは分かりました。

 でも,だからといって決定論が否定されたわけではないと今でも思っています。そして,人間に自由意志などないということも。(つづき)

瀬長島
 おととい月曜日(11日),妻と二人で瀬長島に行きました。実は本当の目的は,世界一のプラネタリウム・メガスターII「降りそそぐ500万の星」を見に,でした。


 新聞に大きく宣伝されていました。「オーロラが見られるってよ。行こうよ」と,妻が乗り気。

 前売り券はなく当日券だけとのこと。とにかく会場へ。会場の豊見城までは,読谷から1時間30分ほど。
 すると,もうすでに売れ切れとのこと。妻は怒っていましたね。せっかくきたのに,と。

 まあ,しかたないので瀬長島へ。ただ,最初から待ち時間にでも瀬長島へ行こうという予定ではありました。

 車でぐるっと回って,そして夕日をバックに写真。そして動画。

 あいにく夕日は雲に隠れてしまいました。ここからの夕日はとてもきれいだそうです。

 動画途中で空をうつしています。月が見えるのです。よく見たら見えるはずです。アップにするつもりだったのに,動画をうつしているときは月見えませんでした。

瀬長島の地図


 自由と必然,人間行動について
 エンゲルスの「自由は必然の認識」ということについて書きました。

 その必然性を認識することが自由になるということは,人間の行動についても言えます。

 人間の行動は,必然的なものです。

 ある人が,ある状況の下で,やる気をもって学習に取り組む,ということは,必然のことです。

 だから,その必然性を知り,そのような状況を作り出すことによって,その人がやる気をもって学習するようにさせることができます。

 その人がやる気をもって学習をするようにしたいと思っているときに,そのようにさせることができる,それが自由です。思うようにできたということですから。

 それに対して,そんなのは必然ではない,と反論する人がいるでしょうね。

 Aさんに,「よくやったね」と言ったら,次もやる気を出して学習に取り組んだ。

 しかし,Bさんに「よくやったね」と言っても,「何を言っているんだ」と答えて,かえって勉強しなくなった。

 また,数日後同じAさんに,「よくやったね」と言っても,無視されて勉強をする様子もなかった。

 このように同じ「よくやったね」という言葉でも,人が違えば,また時や場所が違えば,それぞれに違う行動をするのだから,必然性なんてないんだ,人間の行動なんて,まったくの偶然なのだ,と。

 でも,ぼくはそうは思いません。

 ある遺伝子を受け継ぎ,ある環境で育ったAさんに,ある状況の下で「よくやったね」と言った。すると,やる気を出して学習に取り組む。それは必然なのです。

 Bさんの場合,遺伝子も生育環境も異なります。そのようにして作り上げられたBさんにある状況で 「よくやったね」と言ったら,「何を言っているんだ」と答える,それも必然です。

 先ほどは,「同じAさん」と書きましたが,数日たったAさんは同じAさんではありません。この数日の間にAさんに与えた条件を加味すると,「よくやったね」を無視するというのも,必然なのです。

 しかし,どのような遺伝子,どのような生育環境,そしてどのような状況で,何を言ったらやる気をもって学習するようになるか,もちろんぼくも知りません。いや,だれも知らないはずです。

 だから,ぼくは,すべての生徒がやる気を出して学習するという状況を作り出していません。だから,まだまだ自由ではないのです。

 しかし,この自由というのは,相対的なものです。ぼくはこれまで人間行動について学んできました。だから,それを学んでいない人よりは自由だと思っています。人間行動を学んだおかげで,すべての子とはいえませんが,多くの子どもをやる気にさせることができたと思うからです。

 「こんなことも分からないのか」「また,同じ間違いをする,さっきやったばかりじゃないか」「頭悪いな」などと言いながら勉強を教えていたら,まずやる気を出して学習する子にはならないですね。

 その子の性格もみながら「ほら,できるじゃないか」「これも間違えなくなったね」「頭よくなってきたよ」などと言えば,やる気も出てきます。

 遺伝子まではまだまだ読みとれませんが,どのような言葉かけをすればいいのか,その研究は進んでいます。それを知ることによって,さらなる自由に近づいてくるのです。

 人間行動は複雑すぎます。まだまだ知らないことが多すぎます。しかし,心理学,教育学の発達で人間行動についてだいぶ分かるようになったことも事実です。それを学習し,その必然性を知ることによって,さらなる自由を勝ち得ることができると思うのです。

「模合」(もあい)
 給油所でもらった無料情報誌「YASA! ヤサ!」に,おもしろい話があったよ,と妻が話しました。

 おもしろいコラムだったので,ここに紹介します。

 なお,沖縄には「島ナイチャー」という言葉があります。「島」は沖縄のこと。「ナイチャー」は,内地(本土)の人のことで,「島ナイチャー」で,沖縄に住み着いた本土の人,という意味になります。

 このコラムを書いたのは,島ナイチャーの尾村信一郎さん。
東京都出身,琉球移住後18カ月,ABCレンタカー代表取締役一般旅行取扱主任者だそうです。

 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  

 其の四 「模合」(もあい)

 沖縄に住んで驚いた風習の1つが「模合」です。えっ! モアイ・・・イースター島のモアイ像?

 大会社の社長さんも食事の誘いに「今日はモアイがあるから・・」と断られます。
従業員の女の子も「今日は同級生のモアイがあるから、残業はできません・・」
「ワタシは3つモアイに入ってます!」
「今月はモアイの金がはいるから大画面テレビを買おう」

 よくレストランや居酒屋の看板にも「模合・予約承ります」
取引先の旅行会社の担当者も「今日はホテルの支配人クラスのモアイがあるから」と、わざわざ飛行機で東京より駆けつける。

 WHY? モアイって。会員組織? ねすみ講? どうしよう !

 恥ずかしいけど、ウチナーンチュに聞いてみた。
「模合」は普段はなかなか「たまらない」まとまったお金をつくるために月1回とか、定期的に集まって掛け金を出し合い、順番にまとまったお金を受け取るシステムだそうです。

 東京にも「無尽」など、同様のシステムは全国的にありますが、琉球の模合はむろ、親睦を深める会合の要素が多いようです。

「同級生」・「親戚」「近所のおぱー」のモアイはもちろんのこと「社長会」「ナンバー2会」「同業他社の会」「独身友の会」など、掛け金も3000円位から50~100万円までバラエティーに富んでいす。

「飲みにけいしょん」の沖縄にぴったりです。もちろん掛金を払わなかったりすれば、この島では、まともには生きていません。どんなに忙しくても、お金がなくても、飲まなくても掛け金だけは払いに来ます。メンバーの人選も大変です。モアイの親の「信用」「人間性」も問われます。

モチロン、このシステムでー番儲かっているのは「居酒屋・レストラン」であること間違いありません。

 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  

 そうです。沖縄では模合が盛んです。

 「模合」をヤフー辞書で引いても出ませんでした。

 「頼母子講(たのもしこう)」で検索すると出ました。
 
金銭の融通を目的とする民間互助組織。一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行。頼母子。無尽講。

 それです。それを沖縄では「模合」というのです。

 ぼくも模合に入っています。2つ。

 1つは「旅もあい」
 民商の仲間で旅に行きたいね,ということになりました。それで積み立てをしよう,そのために模合をしようと。

 毎月第三日曜日。メンバーのひとりがやっているレストランに集まります。そして,積立金を集めます。ぼくが会計。そして,飲み食いをして楽しむ,というもの。

 もう一つは,村会議員後援会の模合。毎月八日にその議員さんの家で行います。会費は三〇〇〇円。だから親睦模合です。後援会のメンバーは毎月集まるうちに親しくなって次の選挙では団結して戦えます。また,お金の一部は積み立てて次回の選挙資金にすることになっています。

 その他,小学,中学,高校の同期生の模合もあり,誘われたこともあります。しかし,ぼくが出た学校は首里,いま住んでいる読谷からバイクで一時間です。また,金曜日に行われたりするので,塾をやっているぼくには参加できません。

 まあ,このようにいろんな形態で模合が盛んに行われているのです。ルールもそれぞれの模合でいろいろです。沖縄の模合を研究してもおもしろいのができそうです。

エンゲルス「自由は必然の認識」
「日本語力と英語力」の中で齋藤孝氏は次のように言っています。

(孝)
 私たちの上の世代というのは、「自由」を声高に叫びながら、その実、自由に対する認識自体は甘かったと思うのですね。自由に関して私ははっきりした考えをもっています。自由とはつまり使える技が多いということ。なぜなら、この世を生きていく上において、技があれば自由に活動ができます。いろいろな仕事ができます。逆に、技のない人に自由はないんですよ。(p33 )

 「私たちの上の世代」とは,ぼくらのことでしょうか。
 まあ,それはいいとして,ぼくは似たようなことを以前から思っています。

 ぼくの好きな言葉はエンゲルスの「自由は必然の認識」です。

 エンゲルスは,マルクスといっしょに科学的社会主義をうちたてた人物です。

エンゲルス

 彼ら(マルクスとエンゲルス)は,社会を科学的にみようとしました。そして,社会の動き,歴史は必然であると考えました。そして,その必然性を知ることによって,自分でその社会を変えることができると考えたのです。だから,必然を認識することが自由になるということになります。

 長くなりますが,エンゲルス著「反デューリング論」{大月書店刊「マルクス=エンゲルス8巻選集,第6巻 p120 )から引用します。ぼくの持っている本は廃刊になっているようなので,今手に入る「 反デューリング論」のURLを以下に貼ります。



 へーゲルは、自由と必然性の関係をはじめて正しく述べた人である。

彼にとっては、自由とは必然性の洞察である。

「必然性が盲目なのは、それが理解されないかぎりにおいてのみである。」

自由は、夢想のうちで自然法則から独立する点にあるのではなく、これらの法則を認識すること、そしてそれによって、これらの法則を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。


これは、外的自然の法則にも、また人間そのものの肉体的および精神的存在を規制する法則にも、そのどちらにもあてはまることである。

・・・この二部類の法則は、せいぜいわれわれの概念のなかでだけたがいに分離できるのであって、現実には分離できないものである。

したがって、意志の自由とは、事柄についての知識をもって決定をおこなう能力をさすものにほかならない。

だから、ある特定の問題点についてのある人の判断がより自由であればあるほど、この判断の内容はそれだけ大きな必然性をもって規定されているわけである。

他方、無知にもとづく不確実さは、異なった、相矛盾する多くの可能な決定のうちから、外見上気ままに選択するように見えても、まさにそのことによって、みずからの不自由を、すなわち、それが支配するはずの当の対象にみずから支配されていることを、証明するのである。

だから、自由とは、自然的必然性の認識にもとづいて、われわれ自身ならびに外的自然を支配することである。

したがって、自由は、必然的に歴史的発展の産物である。

動物界から分離したばかりの最初の人間は、すべての本質的な点で動物そのものと同じように不自由であった。

しかし、あらゆる文化上の進歩は、どれも自由への歩みであった。


星新一著「ボッコちゃん」 行間を読む
 行間を読む

 文,特に小説類を読むときは,「行間を読む」ことが大切だ,とよく言われています。

 以前は,何のことかよく分かりませんでした。きちんと説明してもらえなかったのではないかと思います。

 しかし,教える立場に立つようになって,分かってきました。

 ぼくもこれまでの読書経験によって,自然に行間を読むことができるようになっていたのです。

 子どもたちに読書をさせると,行間を読んでいないことが分かるのです。ぼくが読むとっていることを子どもたちは読み切れていない。


 子どもたちも大好きな星新一の「ボッコちゃん」を紹介しましょう。これはいいですよ。つぎはぎです。(中略)を入れると読みにくいと思うので,入れません。またつなぎのために少々変更も加えています。
 「おーい でてこーい」におさめられています。


 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  

 そのロボットは,うまくできていた。女のロボットだった。完全な美人ができあがった。しかし,頭はからっぽに近かった。
 マスターは,それができあがるとバーにおいた。
 美人で若くて,つんとしていて,答えがそっけない。お客は聞き伝えでこの店に集まった。ボッコちゃんを相手に話をし,酒を飲み,ボッコちゃんにも飲ませた。マスターは時どきしゃがんで,足の方のプラスチック管から酒を回収し,お客に飲ませた。
 お客のなかに,ひとりの青年がいた。ボッコちゃんに熱をあげ,通いつめた。そのため,勘定がたまって家の金を持ち出そうとして,父親にこっぴどく怒られてしまったのだ。
 「もう二度と行くな。この金で払ってこい」
 彼は支払いに来た。
 「きみぐらい冷たい人はいないね」
 「あたしぐらい冷たい人はいないの」
 「殺してやろうか。」
 「殺してちょうだい。」
 彼はポケットから薬の包みを出して,グラスに入れ,ボッコちゃんの前に押しやった。
 ボッコちゃんは飲んだ。
 マスターは青年がドアから出ると,残ったお客に声をかけた。
 「これから,わたしがおごりますから,みなさん大いに飲んで下さい」
 おごりますといっても,プラスチックの管から出した酒を飲ませるお客が,もう来そうもないからだった。
 お客も店の子も,乾杯しあった。マスターもカウンターのなかで,グラスを上げてほした。
 その夜,バーは遅くまで灯りがついていた。しかし,だれひとりも帰りもしないのに,人声だけは絶えていた。



 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  


 3色ボールペン式で読ませます。
 ぼくは,
 「彼はポケットから薬の包みを出して,グラスに入れ,ボッコちゃんの前に押しやった。」
 と 
 「おごりますといっても,プラスチックの管から出した酒を飲ませるお客が,もう来そうもないからだった。」
 に赤線を引いていないと,×にします。
 すると,×になった生徒は,間違い直しにやってきます。ぼくは訪ねます。
 「登場人物は,ボッコちゃん,青年,マスター,お客だね」
 「うん」
 「では,最後にお客やマスターはどうなったの?」
 100%の子が「んんんん?」ですね。
 「店に泊まって寝ている」
 「タクシーで帰っていった」
 「お店で飲んでいる」
 などなど,適当な答え。

 ボッコちゃんが飲んだお酒はどうなるの?
 青年は何をした?
 そして,マスターはどうした?

 などと質問して,答えさせるうちに,

 「あっ,死んだんだ」と気付くのです。目を大きくして,驚きを表す子が多いです。

 「死んだ」ということは,書いてありません。しかし,それは読みとることができるはずです。材料はすべてそろえて示してある。あとはちょっとした想像で考えてください。すると,お客は死んでなければいけないではないですか。

 ということです。

 つまり「行間を読む」とは,書いてあることから,書いてないことを推し量ることです。
 でも,それは読者の勝手に読んでいいものではありません。作者は読者がこのように読むことを期待して書いているのです。そして,それが読みとれない場合は,筆者の書き方が悪いか,読者の読み方が悪いかです。

 小説文の場合は,書いてないことを推し量らせようとします。だから有る意味で分かりにくいです。そこを書いてしまってはおもしろくない。小説の場合には,この「おもしろさ」というのが大切なのです。

 しかし,説明文,(論文など)は,おもしろさよりも,書き手のいいたいことが読み手に伝わるかどうかが大切。だから,重要なことは繰り返し繰り返しでてきます。おもしろくなくていいから,分かってくれよ,というところでしょうね。


沖縄民商ビーチパーティー


 きょうは沖縄民商のビーチパーティーに出かけました。

 場所は北谷のサンセットビーチ。

 テントの中でバーベキューを食べたり,おしゃべりをしたりして楽しみました。

 読谷支部のK原さんも参加していました。彼は脳梗塞で倒れたと話には聞いていたのですが,見舞いにも行けませんでした。でも,きょうとても元気そうだったので安心。

サンセットビーチの地図

小学部の読書で
 小学生の部にも「読書」があります。

 漢字の練習,算数(プログラム学習),国語(民衆社の「国語だいすき」),辞書で言葉の意味調べ。
 それがすんだ子は「読書」をします。
 少年文庫にある本を買ってもらって,それに3色ボールペンで線を引きながら読んでいきます。15ページ読むことになっています。

 K咲さんは小学校5年生。優秀な生徒なので,毎日のように言葉の意味調べまで終わり,読書にとりかかります。

 いま読んでいる本は「アラジンとふしぎなランプ・・・アラビアンナイト(上)」



 「とてもおもしろい」そうです。
 「おもしろくて,いつのまにか15ページすぎてしまっている」

 1日15ページは読むことになっていますが,読むのに夢中になってしまうのですね。

 この本ももうすぐ終わりです。
 「次,何にしようか? N希さんが今読んでいる『長靴下のペッペ』もおもしろいらしいから,それにしようか?」

 「ん~ん。この本の(下)が読みたい。これおもしろいから」

 いいですね。本を読むおもしろさが分かってきたようです。このようにして読書好きな子が育ってくれたらと願っています。

 新しい本は,ぼくもいっしょに読んでいます。「アラジンとふしぎなランプ・・・アラビアンナイト(上)」確かにおもしろいです。知らない話もあり,ついのめりこんでしまっています。

 そして,この本について少し感想をいいあったりし,共有するようにしています。

斎藤 兆史著「英語達人塾 極めるための独習法指南」
斎藤 兆史著「英語達人塾 極めるための独習法指南」を読みました。
 といっても半分ちょっとのところでストップです。
 

 悪い本だからではありません。とてもいい本です。

 ただ,この本は上級者向けに書かれたものです。改めて見ると「極めるための」になっています。上級者が極めるために読む本です。

 ぼくは,中学生に英語を教えているし,中学生向けの英文法の学習書も書きました。中学英語だけをやっているうちに高校レベル以上の英語を忘れてしまいました。それで,またやり直しです。

 それで,その初級者向けの同じ著者による

これが正しい! 英語学習法 (ちくまプリマー新書 51) [新書]

 を注文しました。

 いずれにしても,安易な学習法ではなく,文法,多読など,こつこつと勉強するやり方を提唱する斎藤 兆史氏に共感しています。

 いくつか引用します。

 

英語の発音をよくするためのもっとも効果的な独習法は英文の音読である。(p16)



 ぼくは音読はいままであまり重視してきませんでした。重視しなければと思っているところです。

 どんなに時代が変わろうが,基礎的なことを何度も何度も繰り返して体のなかに練り込むという学習の基本は変わらない。その学習法の語学版が素読であり,暗唱なのである。(p34)



 素読,暗唱に関しても軽視していました。最近,般若心経を覚えました。また,百人一首を覚えています。いま30首覚えました。
 読んで覚えるってとても大切なことだと改めて感じています。
 本棚に眠っていた,岩田一男著「英語・一日一言」を引っ張り出してきました。百人一首をすべて覚えたらこれに挑戦してみよう。


高度な英語力を身につけょうと思ったら、最低でも伝統的な学校英文法をきちんと勉強しておく必要がある。(p42)



 ぼくも,これまで英文法を重視してきました。いま文法をおろそかにする人が多くなり,学校教育も文法軽視になってきているので,斎藤 兆史氏にがんばって英文法を重視する流れになって欲しい。


最近の英語教育では、学習者が文法を身につける前から文章の大意を理解する読み方を推奨する傾向にあるが、これは本末転倒もはなはだしい。文法を正確に読み解く訓練をしているうちに、しだいに文法が気にならなくなって文意がさっと頭に入るようになる。これが正しい学習の順序である。
(p49)



 多読についてはmixiでも意見交換を行いました。多読は必要ですが,やはり文法を身につける必要があると思います。

英語達人たちは、修業時代のどこかで例外なく大量の英書を読んでいる。逆に言えば、英書の多読は英語の達人になるための必須条件だと言ってもいい。達人レベルを目指さないまでも、英書の多読なくして高度な英語力の養成はあり得ない。(p88)


 同感です。一時期アガサクリスティをたくさん読みました。よかったです。「英語・一日一言」のあとは,また挑戦してみたいです。


「窓ぎわのトットちゃん」に見るセルフラーニング
 黒柳徹子著「窓ぎわのトットちゃん」読みましたか。



 1981年に初版が出ています。そのころベストセラーになり,ぼくは妹に勧められて読んだ記憶があります。
 もう30年近くになりますね。とてもおもしろい本です。一読をお薦めします。

 さて,トットちゃんが退学になり,トモエ学園に通い始めます。そして,そこでの授業の様子を描いたところを引用します。

 ぼくのめざしているセルフラーニングがよく描かれていると思います。

 でも、なによりも”かわっていた”のは、この学校の、授業のやりかただった。

 ふつうの学校は、一時間目が国語なら、国語をやって、二時間目が算数なら、算数、という風 に、時間割の通りの順番なのだけと、この点、この学校は、まるっきり違っていた。

なにしろ、一時間目が始まるときに、その日、一日やる時間割の、全部の科目の問題を、女の先生が、黒板にいっぱいに書いちゃって、

「さあ、とれでも好きなのから、始めてください」

といったんだ。だから生徒は、国語であろうと、算数であろうと、自分の好きなのから始めていっこうに、かまわないのだった。だから、作文の好きな子が、作文を書いていると、うしろでは、物理の好きな子が、アルコール・ランプに火をつけて、フラスコをフクフクやったり、なにかを爆発させてる、なんていう光景は、どの教室でも見られることだった。この授業のやりかた は、上級になるに従って、その子供の興味を持っているもの、興味の持ちかた、物の考えかた、 そして、個性、といったものが、先生に、はっきりわかってくるから、先生にとって、生徒を知る上で、何よりの勉強法たった。

また、生徒にとっても、好きな学科からやっていい、というのは、うれしいことだったし、嫌いな学科にしても、学校が終わる時間までに、やればいいのだから、なんとか、やりくり出来た。従って、自習の形式が多く、いよいよ、わからなくなってくると、先生のところに聞きに行くか、自分の席に先生に来ていただいて、納得のいくまで、教えてもらう。そして、例題をもらって、 また自習に入る。これは本当の勉強だった。だから、先生の話や説明を、ボンヤリ聞く、といった事は、ないにひとしかった。

(窓ぎわのトットちゃん,p40~41)


水義範氏が今の若者を叱る
 「清水義範ができるまで」を読んでいます。



 その中で,清水義範氏が今の若者を叱りたいと述べているところがあります。

 ぼくは,清水義範氏の大ファンで彼の本はほとんど読んでいます。その彼がぼくと同じことを思っていると思うと,とてもうれしい。そして,今の若者に考えて欲しいのです。

 だが、そんなふうに思う私にも、今の若者への苦言がないわけではない。叱りつけたいこともある。

そのひとつが、今の若者があまりにも論理的思考力をおろそかにし、霊や前世や占いやバカ心理テストを信じすぎている点だ。IT革命の担い手であるべきハイテク世代が、一方で迷信や占星術や風水の信奉者なのである。頼むから、もう少し論理的思考をしてくれよ、と思う。そういう思考からつい逃げてしまう、頭の体力のなさが情けない。きみたちが幼い頃にショックを受けた、ノストラダムスの予言はほら、ものの見事に外れていたんだから。

 そうでないと、おじさん世代にバカにきれるだけではすまないかもしれないよ、と言いたい。ひょっとすると十年後くらいには、次の若者世代が案外しっかりしていて、ああ、あのノストラダムス世代ってバカだから、なんて言われるのかもしれないよ。おじきん世代に文句言われるのには慣れているかもしれないけど、下の世代にバ力にされるのはつらいものだよ。

 もう少し、科学的思考力の方向に努力しなさいよ、と私は言いたい。


 まったく同感。もっと科学的思考のできる若者になって欲しい。

ウチナーンチュの狭量さ
 書いた文は1日おいて見直しなさい,というのを読んだことがあります。これまで何か発表する文の場合は,それを実践してきました。

 でも,web上のブログや日記は,さっさと書いてさっさとアップしないと続かないところがあります。

 ただ,前の日記「ウチナーンチュの生き方は老子的生き方?」はは安易だったなあ,と今思っています。

http://selfyoji.blog28.fc2.com/blog-entry-490.html

 前の日に,酒の場でヤマトゥンチュをさかなにして楽しんだ。それがおもしろかった。そしてそれを書きました。気をつけたつもりですが,やはりヤマトゥンチュの悪口になっています。反省しています。

 それは,前の記事のコメントにも書きました。

 さて,いま清水義範著「清水義範ができるまで」を読んでいます。その一節に

 「もうひとついい感じなのは,郷土本コーナーが充実している書店には,自分たちの郷土に自信を持ち,愛着を感じている様子があるところだ。もちろん,あんまり地元意識が強すぎるというのも,それはある面で狭量であり,平明に社会を見られないという弊害もあるのだけれど,地元への愛がさらさらない,というのよりはよいことである。」

 とあります。

 ぼくは「狭量であり,平明に社会を見られな」かったなあ。

 前の記事に出てきたH氏は,よく

 「沖縄の人は,沖縄が世界一いいと思っている。そして,読谷の人は読谷が沖縄で一番だと思っている。さらに座喜味の人は座喜味が一番だと」
 と言って,その狭量さを笑っています。

 沖縄の人にはそういう面があります。他を知らないくせに自分のところが一番いいと思っている面が。

 だから,ウチナーンチュは,沖縄で大学を出,沖縄で働きたいと思っている人が多い。ぼくは生徒や卒業生によく言います。

 とにかく一度は本土に出なさい,と。

 そのウチナーンチュの狭量さを批判してきたぼくが,やはり狭量だったのですね。猛省です。

 前の記事は削除しようかとも思ったのですが,コメントもあるし,またそういう狭量さがぼくにもあるということを残しておくためにも残しておきます。

一斉授業は,先生が泳ぐのを見ているようなもの
 前に紹介した「日本語力と英語力」の中におもしろいたとえがありました。

(齋藤孝)
 授業では、文章を読ませること自体も少なく、先生が説明している時間が長いでしょう。まるで先生一人がプールで泳ぎながら、「ほら、バタフライだぞ」「次、背泳ぎのお手本を見せるから、よく見ておけ」と言うのを、生徒たちがじっとプールサイドで観察している印象です。ときどき生徒をー人呼んで、「おまえ、ちょっとやってみろ」とね。英語だったら、単語や文型を覚えるなり、音読をするなり、スポーツで言えば、実際に泳ぐとか球を打つといった作業を生徒にどんどんこせるべきです。(p72 ~73 )


 ぼくは,セルフラーニングがすぐれているということのひとつに,学ぶ人が受け身ではなく能動的に学習に取り組むことだ,と言ってきました。
 そのたとえとして,車を運転している人と,助手席に座っている人では,道順の覚え方に差がある,と話していました。

 しかし,齋藤孝氏の水泳の例の方がよく分かりますね。これは使えそう。

 要するに,一斉授業というのは,先生が泳いでそれを生徒が見て分かった気になっています。
 先生が数学の解き方を黒板に書いて教える。生徒は先生が解くのを見て,自分でも解ける気になる。

 しかし,先生が泳ぐのを見ても実際に水に入って泳ごうとしないかぎり泳げるものではありません。

 これと同じで,自分でいろいろ解いてみないと数学の問題は解けるものではありません。

 もちろん,解き方の例を示すのは大切です。しかし,何を主とするかでしょう。

 セルフラーニングの場合は,自分で解くことが中心になります。例は,教材に書かれているのをみて,じっくりと読み,理解する。

 この,水泳の教え方の例のようにセルフラーニングで学んだ方が,ずっと頭に入り,残るものなのです。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4121501284?ie=UTF8&tag=selfyoji-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4121501284

幽霊なんていません

こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当ほうじょうです。今日のテーマは、「幽霊っていると思う?」です。この季節になってくるとテレビで盛り上がるのが心霊番組。幽霊を見たーとかいるわけない!といったような話題があがりますねー。ほうじょうの兄弟が昔、トンネルの中で白い格好の女の人が道のど真ん中に立っていた...
FC2 トラックバックテーマ:「幽霊っていると思う?」



 というのがあったので,ぼくの意見を書きます。今のスピリチュアル・ブームをとても懸念しているので。

 「幽霊はいないと思う」ではなく,「いません」 断定です。

 人間の精神,意識というのは,脳という物質が生み出したものです。それはまだ完全ではないがだんだん詳しく解明されてきています。

 脳の本はたくさんでています。いま「意識」はどのようにしてうまれるのかという研究がとても進んできています。

 霊 などの入り込む余地などまったくありません。

 霊 は,人間が無知なころに,説明ができないものだから作り上げたものです。おとぎ話,神話のようなものです。

 以下は,ノーベル賞受賞者利根川進さんの本の抜粋です。 


http://selfyoji.blog28.fc2.com/blog-entry-29.html

 思い出したので,追加更新します。

 脳をいじったら,人工的に体外離脱が起こったそうです。

http://selfyoji.blog28.fc2.com/blog-entry-421.html

親が子どもの勉強をみる
 mixiで次のような質問がありました。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=31927612&comm_id=1230369
「子供にいかに勉強させるか?良い方法があったら教えてください。」


(それに対してぼくが書き込んだものです。少し変えています)

 「親が子供にいかに勉強させるか?」ということに関して,ぼくの考えを書きます。

 まず,ぼくは「親は最悪の教師」と思っています。
 その理由については
http://selfyoji.blog28.fc2.com/blog-entry-139.html をお読み下さい。

 ここでは,ただ,親が子供に勉強をさせるということは,とても大変なことだということをおさえてください。そうでないと,まず失敗します。
 ただ,それを乗り越えると,親ほど子供を愛している人はいないので,逆に「最良の教師」になれると思います。

 親が子供に勉強をさせるときにいちばん大切なことは

 「毎日の勉強開始時間を守る」ということでしょう。

 親が勉強をみるときには,親の都合で勉強時間が変わったり,なくなったりします。すると子供はきょうは,やるのかな,きょうはやらないのかな,と思って,やらないことに期待をかけて抵抗をすることがあります。

 毎日,きちんと勉強をするということが習慣になれば,あとは楽です。よっぽどのことがない限り,「きょうの勉強はなしね」ということにしない。だから,親の自己コントロールが求められます。

 「勉強なしね」は月に1,2日かな。もちろん,最初に土曜日,日曜日は休みにしようね,ということを取り決めしておけば,それは休みにしてもいいと思います。

 ここでいいたいのは,決めたことは親の都合で安易に変更しないということです。

 それから,勉強は時間ではなく,分量できめた方がいい,ということです。
 毎日,これだけの分量の勉強をしたら勉強を終わってもいい,ということにします。すると早く終わらせて好きなテレビを観よう,とやる気になります。

 親がどの程度勉強をみるかは,ケースバイケースでしょう。ただ,少なくともやったのかどうかをチェックしたほうがいいです。決められた分量が終わったら,親にみせるようにする。親はそれを見て,「きょうもよくがんばったね」と言って,勉強を終わるようにする,という感じです。

 それから,親は感情的になりやすいです。子供に言ってはいけない言葉を勉強して,絶対に言わないとがんばりましょう。「こんなこともできないのか」「さっき教えたばかりでしょう」などですね。



 

証明を利用する
 これは,数学のかなりの難問に関することです。

 大問の中に小問(1)が( )の証明問題,そして,小問(2)がある,という場合です。
 こういう場合は,小問(1)の結果を小問(2)で利用しなさい,ということです。
 
 ぼくが思うに,テストの出題者は,小問(2)を出したいが,これだけだと正解に達する人はほとんどいないな,と考えるのでしょう。だから,ヒントを与える。それが小問(1)です。

 その出題者の親切を知らないで,小問(2)を独立に一所懸命考えてもまず正解に達しません。その親切に気づかない受験者が多いので,このタイプの問題が出たときは,そのことを受験生に教えておく必要があります。

 例をあげます。きのうと同じ


 にある問題です。

(1)定理「△ABCにおいて,辺BCの中心をMとすれば
 AB²+AC²=2(AM²+BM²)」となる。(ただし AB>AC)」
このことを証明せよ。

 (証明)
AよりBCに垂線AHをひき,図のように
BM=CM=x,MH=y,AH=kとするとき,
 △ABHにおいて
  AB²=(  )・・・・・①
 △ACHにおいて
  AC²=(  )・・・・・②
 ①,②より,

 △ AB²+AC²=( )=2(AM²+BM²)

証明を完成せよ。{ ( )にx,y,hについての式を簡単にして記入する}

数学の証明



(2) 三角形ABCの辺BCのCをこえて延長上に点DをBC=CDとなるようにとり,辺CBのBをこえての延長上に点EをCB=BEとなるようにとる。AB=6,BC=7,CA=8のとき,AD²+AE²の値を求めよ。


( ヒカリさんは,このシリーズのファンとのことですが,もうネタ切れです。明日書くことが思いつかない。また,何かあったら書きますね )

一般的な問題を特殊な問題に
 これは,数学の難問を簡単に解く方法です。

 一般的な問題を特殊な問題に変えてしまって,解くのです。

 例えば,次の問題。


 にあるものです。

問題:右の図で BP:PC=1:2 , 
  AQ:QC=1:1 であるとき,
 三角形の面積比は
 △ABC:△QPC=(   ) となる。
   (國學院久我山)

三角形の比


 この問題では,どんな三角形か与えられていません。ようするにどんな三角形でもいいわけです。また,辺の長さも上の比を満たせばいいのです。

 だから,次のような三角形でも答えは同じになるはずです。
三角比2


 △ABCの面積は,3×2/2=3
△QPCの面積は,2×1/2=1

 よって,答えは 3:1

 このように,一般的に与えられた問題は,特殊なものも含むということです。だから,自分で勝手に(もちろん,問題文の値などは満たすように)問題を作り替えても答えは正解に達するのです。

嵐山展望台から羽地内海を臨む
 嵐山展望台(名護市)に行きました。そこから羽地内海を見ることができます。きれいな海です。きのうは曇っていたので,海の色がいまいち。
http://domestic.travel.yahoo.co.jp/bin/tifdetail?no=jtbb5001680




 喫茶 せせらぎでカレーを食べました。
http://gourmet.yahoo.co.jp/0006610394/

せせらぎでカレー


農協(JA)ファーマーズ、はいさい・やんばる市場 にも寄りました。
http://nagonago.exblog.jp/4040119


名護やんばる市


塾料,銀行振り込みは?
 ウチナーンチュのテーゲーのいい点を書いたばかりですが,その悪い面を書くことになりました。

 Ejさんから質問がありました。

援助金(塾の月謝)を銀行からの振込みにすることはお考えになられたことはありませんか?



 会計をあずかる妻に尋ねました。
 「ウチナーンチュがルーズだからよ。」という答え。

 コープおきなわが長い間,銀行引き落としをしなかったそうです。要望はかなりあったのですが。それは,ウチナーンチュがルーズで,引き落とそうとしても銀行にお金がないことがよくあって大変だといううわさを聞いていたからだそうです。ありえますね。明日は明日の風が吹く,と考えているウチナーンチュは預貯金も少ない。

 まあ,そういうことです。コープは強い要望で,いまでは銀行引き落としをしているそうですが,セルフ塾では,なんとか現金でおさめてもらってやっているので,特に引き落としにするつもりはないと言っています。たまにですが大きなお金を子どもに持たせたくないので,と要望はあるのですが。

 「明日は明日の風が吹く」では,合理的にできない面もあるのです。

ウチナーンチュの生き方は老子的生き方?
 昨夜,友人Hくんが語った話を3つ,どれもウチナーンチュ(沖縄の人,チュは「人」)の性格があらわれた話です。
 ウチナーンチュの自慢話で,ヤマトゥンチュ(大和の人=本土の人)が気を悪くするかもしれません。最後の方も読んでくださいね。

 新聞の投稿にあった話だそうです。
 ヤマトゥンチュであるAさんは沖縄に住んでいます。出勤の途中で,横断歩道を渡っていると,車が停車線からはみ出て停車していました。それを注意して,停車線までバックさせました。そして,会社に到着。
 そして,同僚のウチナーンチュにこういうことがあったよ,と語ると,どの同僚
 「(停車線からはみ出ていたために,)あなたは歩くことができなかったの?」


(ウチナーンチュは,通ることができればいいじゃないか,と考えるのですね。わざわざ人を注意しようとしない。ヤマトゥンチュは,決められたことはしっかり守りなさい,というところでしょう )

 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  

 今度の主婦であるBさん。ヤマトゥンチュです。
 赤ちゃんを抱いて外出。夏の太陽が輝く暑い日です。人混みの中を歩いていると,おばあさんが寄ってきて言いました。まったく知らない人です。「こんな暑いのに,(赤ちゃんに)帽子かぶせたほうがいいよ」
 また,しばらく歩いていると別のおばさんが「帽子かぶせなさいよ」
 そしてまたまた別のおばあさん「帽子は?」
 なんとその日,3回も知らない人から声をかけられたとのことです。赤ちゃんのことを心配して。ヤマト(大和=本土)ではそういうことがないので,感激していたとのこと。

( ウチナーンチュは,おせっかいですね。特におばあさんは )

 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  

 友人Hくんの娘E子さんがおもちゃ屋でバイトをしていたときのことです。E子さんはお客の苦情係に回されました。さてさて,クレームをつけてくるのは,ヤマトゥンチュが圧倒的。E子さんは,選び選びヤマトゥンチュは欠陥のあるおもちゃを買っていくのか,と思うくらいだそうです。
 さて,そのおもちゃ屋の店長はヤマトゥンチュ。E子さんがあるお客の苦情の処理を終わり,お客が帰ったあとで,E子さんのところに来て,店長が言ったそうです。
「あれ,ナイチャーだった?」(ナイチャーは「内地の人」でヤマトゥンチュと同意語。英語で er を名詞の語尾につけると「人」を意味しますね。沖縄方言もまったく同じです)

 ( ヤマトゥンチュである店長ももうクレーマーはヤマトゥンチュが多いと知っているのですね。ウチナーンチュは,商品が壊れていても,替えに行くのもめんどうだな,まあいいか,と思うのでしょう。ぼくがそうです )

 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  

 同じく,Hくんから聞いたE子さんの話。
 欠陥商品を買ったウチナーンチュは,おそるおそるその商品を出して,「これ壊れていたんですけど」
 そして,新しい商品と取り替えてあげると,「わあー,新しいのをもらえるのですか」と言って大喜びで帰っていくそうです。
 一方,ヤマトゥンチュは,怖い顔をして「これ,壊れていたよ。どうしてくれるのさ」。そして,新しい商品と取り替えてあげても,「それだけ,私は貴重な時間を費やしてタクシーでやってきたのよ。その保障はしてくれないの」といった感じ。

( ヤマトゥンチュは,権利意識がしっかりしているのです )

 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  

 これを読んだヤマトゥンチュのみなさん,すみません。ぼくらウチナーンチュは,このように「ヤマトゥンチュはね?」のような話をさかなに酒を飲み交わすことがよくあります。

 さて,ウチナーンチュがいいように,書いてきました。そしてぼくは,それでいいと思っています。
 ただ,このウチナーンチュの性格は別の面から言えば悪いところです。「テーゲー(いい加減)」なので成果が上がらないのですね。沖縄の学力が低いのも経済が劣るのも,この「テーゲー」が大きな原因ではないかと思っています。きちんきちんと勉強をしない,仕事をしないのですから。
 若いころはぼくもこのテーゲーが大嫌いでした。もっとしっかりしろと。

 だから,慣れるまではヤマトゥンチュはウチナーンチュとつき合うのは大変でしょうね。このいい加減さにいらいらすると思います。

 さて,ぼくはきょうここまで書きながら考えたのですが,ウチナーンチュの生き方は老子的生き方ではないのかな。
 老子の生き方って難しいですね。「無為自然」とかいう生き方です。
 ぼくは老子が好きでよく読んでいますが,まだまだよく分かりません。ただ,

あくせくして生きてどうする,小さな幸せがあればいいではないか

 そういうものではないでしょうか。
 ウチナーンチュの生き方は成果は上がらないかもしれない,しかし,それで幸せならいいじゃないか,というゆったりした感じがします。 

英語の早期教育,そして国語教育
 http://selfyoji.blog28.fc2.com/blog-entry-488.html

 で,「日本語力と英語力」の英文法を軽視するな,ということについて抜き書きしました。


 ここで,「日本語力と英語力」の「英語の早期教育,そして国語教育」について書かれているところを抜粋します。

(兆史)
 小学校では、母語である日本語をしっかり教えるべきです。この時期に、英語を必修にしてその授業時間数を増やしていけば、そのしわよせはどこにくるのか。国語の授業も影響を受けるでしょう。そうなると日本語もおかしくなります。さらには英語必修により犠牲になった科目の学力低下まで心配されます。また、英語を教えるのは、英語教育の訓練を受けていない小学校の先生や、「英語教育に興味をもっている」だけの母語話者ですよ。そういった指導者に初めて英会話を習うことで、子どもたちの語感が狂わされたり、いい加減な英語を話す癖がついてしまうと、その後に英語の学習をもっと積み重ねたいという場合,どれほど苦労しなければならないか・・・・それこそ取り返しがつきません。(p53~54)


( 小学校では,英語より日本語を重点に教えるということに賛成です。セルフ塾小学部では,漢字,算数,国語,読書が基本です。それだけの課題を終えた生徒は英語の学習もします。日本語をきっちり学ぶということが何より大切です。)

(孝)
 聞いた話ですが、日本語の力を100持っている人が英語を頑張ればその六割くらいまでは身につけられる。ところが日本語の力が30しかない人が頑張っても、六割はいかない。つまり同じ努力をしても、もともとの母国語力が低ければ、英語の習得率もうんと低くなるのです。

(兆史)
 小学校のうちから日本語の論理能力をどんどん鍛えることが必要ですね。ただでさえ授業時間数が減っているところに、総合的な学習で異文化理解と称し「英会話こっこ」をやるくらいなら、もっとしっかり日本語をやるべきです。そして日本語の力が少しずつ鍛えられた中学校くらいになったとき、英語を基礎からやればいいのです。( p103 )


 ( 日本語力が30しかないと,うんぬんというのは初めて聞きますが,納得です。日本語ができない生徒に英語を教えるのは難しい。 )


(兆史)
いちばんやってはいけないのは、おそらくいまいちばん主流だと思いますが、親が英語で話しかけること。幼児向けの英語教育の雑誌など、「朝はこういう英語で話しかける」と紹介してありますが、絶対にやってはいけません。素人が真似すると、子どもの語感を狂わせ、悪い癖をつけてしまいます。( p156 )



 ( これはあまり同意しないですね。ぼくは生徒に簡単な英語で話しかけたりします。下手な発音です。ぼくは日本人は日本人英語でかまわないと思っています。下手な発音でもいいから話す,それがいいと思います。だから,素人の英語でもかまわないのではないでしょうか。 )

(孝)
「頭のよくない英語をしゃべれる人」と、「英語がしゃべれない頭のいい人」のどららを雇うかと言えば、外資系ほど頭のいいほうを雇うと思いますね。仕事ができなければ意味がないんですから。英語ができないことで、何に対して不安を持っているんでしょうか。( p188 )



 (同感です。英語をぺらぺらしゃべっても中身がなければだめ。とつとつとであれ,きちんと自分の主張なりが語れる人になりたい。なって欲しい )


(兆史)
学校教育で与えることのできる英語力というのは、ほんの基礎の基礎です。音楽では、線譜が読めたからといって、みながバイオリンの名手になれるとは考えていませんよね。ころが、英語に関しては、文法を習ったけど話せないことに対し、とても批判的です。

 英語が話せることへの漠然とした憧れでものを言うのは非常に危険だし、そんな大衆の幻想に踊らされて右往左往している文科省、英語業界。もっと冷静になろうよといいたいですね。どのしベルでわれわれは英語を問題にしているのか、きちんと議論する必要があると思います。

(孝)
 英語、英語というほどには、実際にはそれほど必要ではなかったりします。自分にとって英語の必要性がどのくらいか、認識することも大事です。私は、エンゲル係数の概念を応用して、「エイゴ係数」というものを考えてみました。自分の全生活における英語の必要度を係数にして表す。私の場合、英語の文章を読むこともあるし、たまに書くこともあるけれど、自分の係数を計算して出してみたら、五パーセント以下でした。九五パーセントは日本語で仕事をしています。( p190~191 )


 ( 同感です )






「日本語力と英語力」


 「日本語力と英語力」 

 とてもよかった。ぼくが言いたいことを的確に述べています。多くの人に読んでもらいたい。ぜひ。

 この本は 本書は、齋藤 孝氏と斎藤 兆史氏の対談本です。
 重要なところ,おもしろいところを抜粋したみたらかなりの量になりました。何回かに分けて紹介します。

 まず,英会話と英文法について。


(兆史)
ごく簡単に要約すれば、国語教育を充実させよ,英会話ごっこにも似た低劣な早期英語教育を止めさせよ、型の訓練を中心とした骨太教育を実現させよ、ということになろうか。(p5)

( そういうことです。まったく同感。 )

(兆史)
たとえば、For here or to go?という表現を見てみよう。これは主にアメリカのハンバーガー屋の店員が、客が品物を店内で食するか持ち帰るかを確認するために用いるものである。逆に言えば、その状況以外で用いられることはなく、例文としてきわめて発展性に乏しい。第一、前置詞+名詞と to不定詞をorでつなぐ変則的な構文を初学者に理解させるのはほとんど不可能だから、勢いそのまま覚えなさいと指導することになるが、生徒は、「英語圏のハンバーガー屋では、品物を持ち帰るかどうかをFor here or to go?という表現で尋ねてくる」ということ以外、何を学んだことになるのだろうか。こんな表現は、海外旅行者用の会話本にでも載せておけばいいのである。

店員の最後の台詞に現れる Here you are. についても同様のことが言える。これまた、たしかに四十年前の Here is a pen. に比べて実際の会話でよく耳にするが、対面状況で物を差し出す動作を補うだけの表現だから、これを知らなければ対応に困るような状況は皆無だと言っていい。少なくとも、中学1年次に学ぶべき英語ではない。このように系統的に説明のしづらい「実用的」な表現を教えたがるのが、いまの英語教育の悪いところだ。日本語話者の英語習得の順序を読み違えていると言わざるを得ない。( p8~9 )



 ( うれしくてたまらない。ぼくがこれまで言ってきたことです。まったく同感。「発展性がない」というのがキーワードでしょう。会話中心ではそれをそのまま覚えるだけ。ほかの表現に発展することがない。文法をきちんと学ぶと,単語を換えることで無数の表現に発展できます )

(兆史)
 まして英語シャワーといっても、せいぜいー日にー、二時間、多くて数時間程度でしょう。生まれたときから、英語で話し、英語で考えるという具合に、母語である英語に四六時中触れながら成長する英語話者の人たちとは、まるで状況が違います。ただ英語漬けになればいいというものではなく、日本語話者が英語を学ぶ場合には、日本語話者にふこわしいそれなりの戦略、枠組みがあるはずです。

(孝)
それが、たとえば徹底した型の訓練や、基礎の反復練習ですね。
(p43)



( これもぼくがこれまで言ってきたこと。新聞投稿もしたことがあると思います。さがして掲載したいです。とにかく同感。 )


(孝)
 それはたとえて言えば、長嶋茂雄が送球したあとに掌をヒラヒラさせるのを素人が見て、その”掌ヒラヒラ”を真似して野球をするみたいなものですね。長嶋はそれで野球がうまいわけじゃない。たまたま投げたあとにそうなるだけであって。

(兆史)
 ところが、”掌ヒラヒラ”ごと教えるのがいまの英語教育なんですよ。

(孝)
 基本の形というものは応用範囲が広い。ですから、特殊なケースではなくて、「この文型を覚えておくと、こういう場合にほとんど使えます」というやり方を優先すべきでしょう。(p45)



( 長嶋の掌ヒラヒラに例えるのはおもしろい。)

 けれど日本語と英語とはまったく違った語族に属しますし、日本人が英語を自在に使いこなすまでには相当の修練が求められます。その過程で学習する文法や読解がー見機械的な印象を与えることや、多くの人がその段階で英語学習をやめてしまうために、従来の英語教育が意思伝達機能を軽視してきたかのように思われがちなのでしょう。(p46~47)

 ( これも同感。日本人にとって英語をマスターするのが難しいということです。車の運転ができるために1ヶ月ほど教習所に行くようなわけにはいかないのです。そこのところを誤解しているから,今の英語教育が悪いということで,文法軽視になってしまう )


(兆史)
 コミュニケーション中心主義の英語教育のもと、文法は軽視される傾向にありますが、英語と日本語はまったく異質の言語です。日本人にいちばんあう英語習得法として、まず言葉の骨組みを知る文法の学習は、日本人の英語の学び方に合ったものです。

(孝)
 ネイティブではない人間が外国語を学ぶとき、文法は大きな武器になります。その文法が軽視されるのは問題ですね。文法というのは型でしょう。相撲の四股みたいなもので、型を知っていると応用が利くし、効率よく学習できます。それに型や骨組みがわからないで、雰囲気だけで英語を訳すことはできないですよ。話すにしても、文法がめちゃくちゃでは、論理的な会話はできません。(p85)



( 日本人にとって,英語の文法を学ぶことは大きな武器になる,同感です。 )


日付つき印鑑購入
印鑑
 新しい印鑑が昨日届きました。

 生徒がやったページに印鑑を押すのです。以前使っていたのが,紛失。整理が悪いからです。いちもあちこちに置いているので,よくなくします。でもこれまでは1,2日もすると出てくるのですが,今回は2週間ほどたっても出てこないので新しいのを注文しました。

 前に使っていたものに比べて,押された印が極端に小さいので,子どもたちは「小さい!!」と言っています。本体の大きさはほぼ同じですが。


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英語の苦手だと思う人こそ,長文読解で点をかせげ
 「英語の苦手だと思う人こそ,長文読解で点を稼げ」

 ぼくはそう言っています。

 長文読解(長文とは言えないかも知れませんが,中学生にとってはなが~い)は,英語の文がずらずらと並ぶので,もう最初からギブアップ状態の生徒がほとんど。

 でも,長文読解は,英語ができなくても点をかせげるのです。

 きのうの授業を再現します。教材は沖縄県県立高校入試問題平成18年度の英語。
 セルフ塾は基本的にセルフラーニングですが,自分で解いたあと,一斉授業で解説をするときがあります。入試対策,定期テスト対策のときの教材はセルフラーニング用ではないので,自分の力では進めないからです。
 
 この方法は,英検の問題でも使える全国で使えると思っています。
{ }内は生徒の言葉や反応。

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 (長文読解は,英語ができなくても点をかせげることを強調してあと)

 本文は読まないで,すぐに設問を読みます。

問題1 次の各問いに対する答えとして最も適切なものをア-エの中から1つ選び,その記号を書き なさい。

1. What was Yumiko interested in?

 さあ,この質問と似た文はないか,本文からさがしなさい。interested があるんじゃないかな。
(しばらく待ちます)

 { あった }

 あったか。どこにある。

 { 上から4行目(最初の段落の1番最後) }

 おお,そうだね。ほかの人もそこを指で押さえてごらん。( 全員が押さえるか,確認。そうしないと,自分は関係ありません,という感じの子がいます。きのうも1人いたので,叱りつけました }

 では,その文を読んでごらん。

 Yumiko became interested in guide dogs and studied them.

 この文と似たのが選択肢にないかみてごらん。

(選択肢)
1, She was interested in
 ア,people who can't see.
 イ,shopping on Kokusai Street.
 ウ,helping people.
 エ,guide dogs.

 はい,答えは何だと思う?

 { エ }

 そうだ。これで正解。ほら,いまは英語をまったく訳さなかったでしょう。でも,正解にたどりつくことができな。似た単語をさがせばいいんだ。
(その前後を訳して,説明し,やはり正解が「エ」だということを確認)

 次のいくよ。
 
2. Why do people have to wait until they can have guide dogs?

 こんどは少し長くなった。この文と似た文はないか,さがしてごらん。
( 待ちます )

{ あった }

 見つかったか。どこ。(その子のそばにいき確認)
 ほかの人も見つけなさい。(数人ができてから)

 So they have to wait one or two years until they can have their guide dogs.

 という文があるね。では,この文の前後を見て,設問と似たのがないか見つけなさい。
 まあここで so という単語が「それで」という意味だと知っていたら,この文の前に理由があることが分かる。だから前の方をみてごらん。

But there are not enough guide dogs now. というのがあるね。

(選択肢)
→ Because
 ア, there are not enough guide dogs in Japan.
 イ, they need a lot of money to have guide dogs.
 ウ, there are not many training centers.
 エ,they must have four weeks' training.

 さあ,答えは?

{ ア }

 そう,「ア」が正解だ。これも英語に訳せなくても点がもらえた。
(簡単に訳して説明をくわえる)

 次の設問
3. How long does it take for dogs to become guide dogs?

 さあ,似た文がないか,さがしなさい。

 It usually takes two years to *raise guide dogs.  という文があるね。 選択肢をみると

 → It takes
ア,about a year.
イ,two years.
ウ,four years.
エ,ten years.

 だから,正解は 「イ」


4. Who trains guide dogs?

 あっ,これはね。本文を読まなくても分かるよ。常識を知っていればね。訳さないといけないけど。設問は「だれが盲導犬を訓練しますか?」だ。

 では,設問を訳してみるよ。

ア,About 8,000 people do. (およそ8000人の人々がする)
イ,Yumiko does. (ユミコがする)
エ,Trainers at a training center do.  (訓練センターの訓練士が)
オ,Many volunteers do. (多くのボランティアが)

 さあ,答えは何?

{ エ }

 そう。ほら,本文をまったく読まなくても正解できる。
 ぼくは,英検,たしか3級だったと思うけど,本文をまったく読まないですべて正解したことがある。天体の文だったかな。天体のことについて知っていたら,何が答えかすぐに分かった。

 いまは,常識を使って訳して解いたけど,さっきのように似た文をさがして解くこともできるはずだ。

(以上。なお,沖縄県の入試問題ではその後に内容のまとめのようなものや本文と一致するのを答えさせるのが出題されます。これはもう少し英語力がないと解けません)


(以下は,本文です)
One day, Yumiko went shopping with her mother. When she was walking on *Kokusai Street, she saw a man walking with a dog. The man couldn't see with his own eyes, but he walked without a white stick. The dog helped him walk. The dog was a guide dog. Yumiko became interested in guide dogs and studied them.

In Japan, there are about 8,000 people who want to have guide dogs. But there are not enough guide dogs now. So they have to wait one or two years until they can have their guide dogs.

It usually takes two years to *raise guide dogs. The first year, baby dogs are kept by families as family members. The families are called *puppy walkers. They are all volunteers, so they don't get any money for raising baby dogs.

When the dogs become one year old, they are sent to a training center. The dogs are *trained there by trainers for about one year. But not all of the dogs can become guide dogs. After the training,the dogs meet their *owners, and the owners have four weeks'training to learn how to live with their guide dogs.

When the dogs become about 10 years old, they usually stop their job as guide dogs. They are kept by another family and spend their lives as pets,The job of guide dogs is to help people who can't see, but they are also good friends or partners to them.

注:KokusaI Street 国際通り raise 育てる puppy walkers 子犬を育てる人たち trained train制l線する)の過去分詞 owners 飼い主,使用者



問題1 次の各間いに対する答えとして最も適切なものをア-エの中から1つ選び,その記号を書き なさい。

1. What was Yumiko interested in?
1, She was interested in
 ア,people who can't see.
 イ,shopping on Kokusai Street.
 ウ,helping people.
 エ,guide dogs.


2. Why do people have to wait until they can have guide dogs?
 → Because
 ア, there are not enough guide dogs in Japan.
 イ, they need a lot of money to have guide dogs.
 ウ, there are not many training centers.
 エ,they must have four weeks' training.


3. How long does it take for dogs to become guide dogs?
 → It takes
ア,about a year.
イ,two years.
ウ,four years.
エ,ten years.


4. Who trains guide dogs?
ア,About 8,000 people do.
イ,Yumiko does.
エ,Trainers at a training center do.
オ, Many volunteers do.



価値観による6つのタイプ
 エドゥアルト・シュプランガーという心理学者がいました。

 ぼくの記憶では,高校の倫理社会の教科書にのっていました。それで,おもしろいなあと思いましたね。心理学に進むきっかけのひとつです。

 彼は,人間を価値観によって6つのタイプに分けています。

 理論的人間、審美的人間、経済的人間、宗教的人間、権力的人間、社会的人間の6つです。

 ぼくなりに解説します。

 理論的人間というのは,簡単に言えば,科学者タイプです。学問,真実に価値をおきます。何が真実かを追究する。

 審美的人間は,芸術家タイプです。美しいものに価値をおきます。

 経済的人間は,お金儲けタイプです。お金がすべてだと思っている。

 宗教的人間は,宗教を熱心に信じている人です。宗教,信仰に価値をおく。

 権力的人間は,政治家タイプです。権力を握ることに価値をおいています。

 社会的人間は,まわりの人を愛することに価値をおきます。マイホームタイプです。自分の家族を愛し,それを大切にする。

 さて,みなさんはどれですか。もちろん,いくつもにまたがっているでしょう。これもあるけど,これもあるな,とう感じ。でも,これはいやだなとも。

 ネットで少し調べたら,それを調べるテストがありました。

シュプランガー 6つの価値観から見る性格
http://www.sinritest.com/web/sopsy/character/syupu2.htm

 その結果,ぼくは,理論的人間、審美的人間がかなり強かったです。自分でも「理論的人間」だと思っています。これは頭のよしあしには関係ないですよ。

 きのうから黒鉄ヒロシのまんが「坂本龍馬」を読んでいます。最初のところにこの6つの価値ではかると龍馬はどれだったか,を黒鉄さんが判断しています。バランスのけっこうとれた人という判断でした。まあ納得。

 きのう沖縄の新聞は,台湾産のマンゴーを宮古産のマンゴーだと偽装していたという記事が大きく載っていました。今朝の新聞にもその関連記事が大きく載っています。
 それを見て,妻にシュプランガーの6つの価値を軽く説明し「お金に価値をおく人は,人をだましてでもお金儲けするんだろうな」という意見をいいました。

 まあ,こんな感じで,人をどのタイプかなと思いながらみるとまたおもしろいですよ。
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