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セルフ塾は閉めましたが、そのままの名前でブログを続けます。独学,独習。教わるより,学ぶを重視。 セルフラーニングの方法,英語,数学などの情報を発信するつもりです。

ウチナーンチュの狭量さ
 書いた文は1日おいて見直しなさい,というのを読んだことがあります。これまで何か発表する文の場合は,それを実践してきました。

 でも,web上のブログや日記は,さっさと書いてさっさとアップしないと続かないところがあります。

 ただ,前の日記「ウチナーンチュの生き方は老子的生き方?」はは安易だったなあ,と今思っています。

http://selfyoji.blog28.fc2.com/blog-entry-490.html

 前の日に,酒の場でヤマトゥンチュをさかなにして楽しんだ。それがおもしろかった。そしてそれを書きました。気をつけたつもりですが,やはりヤマトゥンチュの悪口になっています。反省しています。

 それは,前の記事のコメントにも書きました。

 さて,いま清水義範著「清水義範ができるまで」を読んでいます。その一節に

 「もうひとついい感じなのは,郷土本コーナーが充実している書店には,自分たちの郷土に自信を持ち,愛着を感じている様子があるところだ。もちろん,あんまり地元意識が強すぎるというのも,それはある面で狭量であり,平明に社会を見られないという弊害もあるのだけれど,地元への愛がさらさらない,というのよりはよいことである。」

 とあります。

 ぼくは「狭量であり,平明に社会を見られな」かったなあ。

 前の記事に出てきたH氏は,よく

 「沖縄の人は,沖縄が世界一いいと思っている。そして,読谷の人は読谷が沖縄で一番だと思っている。さらに座喜味の人は座喜味が一番だと」
 と言って,その狭量さを笑っています。

 沖縄の人にはそういう面があります。他を知らないくせに自分のところが一番いいと思っている面が。

 だから,ウチナーンチュは,沖縄で大学を出,沖縄で働きたいと思っている人が多い。ぼくは生徒や卒業生によく言います。

 とにかく一度は本土に出なさい,と。

 そのウチナーンチュの狭量さを批判してきたぼくが,やはり狭量だったのですね。猛省です。

 前の記事は削除しようかとも思ったのですが,コメントもあるし,またそういう狭量さがぼくにもあるということを残しておくためにも残しておきます。
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一斉授業は,先生が泳ぐのを見ているようなもの
 前に紹介した「日本語力と英語力」の中におもしろいたとえがありました。

(齋藤孝)
 授業では、文章を読ませること自体も少なく、先生が説明している時間が長いでしょう。まるで先生一人がプールで泳ぎながら、「ほら、バタフライだぞ」「次、背泳ぎのお手本を見せるから、よく見ておけ」と言うのを、生徒たちがじっとプールサイドで観察している印象です。ときどき生徒をー人呼んで、「おまえ、ちょっとやってみろ」とね。英語だったら、単語や文型を覚えるなり、音読をするなり、スポーツで言えば、実際に泳ぐとか球を打つといった作業を生徒にどんどんこせるべきです。(p72 ~73 )


 ぼくは,セルフラーニングがすぐれているということのひとつに,学ぶ人が受け身ではなく能動的に学習に取り組むことだ,と言ってきました。
 そのたとえとして,車を運転している人と,助手席に座っている人では,道順の覚え方に差がある,と話していました。

 しかし,齋藤孝氏の水泳の例の方がよく分かりますね。これは使えそう。

 要するに,一斉授業というのは,先生が泳いでそれを生徒が見て分かった気になっています。
 先生が数学の解き方を黒板に書いて教える。生徒は先生が解くのを見て,自分でも解ける気になる。

 しかし,先生が泳ぐのを見ても実際に水に入って泳ごうとしないかぎり泳げるものではありません。

 これと同じで,自分でいろいろ解いてみないと数学の問題は解けるものではありません。

 もちろん,解き方の例を示すのは大切です。しかし,何を主とするかでしょう。

 セルフラーニングの場合は,自分で解くことが中心になります。例は,教材に書かれているのをみて,じっくりと読み,理解する。

 この,水泳の教え方の例のようにセルフラーニングで学んだ方が,ずっと頭に入り,残るものなのです。

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