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セルフ塾は閉めましたが、そのままの名前でブログを続けます。独学,独習。教わるより,学ぶを重視。 セルフラーニングの方法,英語,数学などの情報を発信するつもりです。

「模合」(もあい)
 給油所でもらった無料情報誌「YASA! ヤサ!」に,おもしろい話があったよ,と妻が話しました。

 おもしろいコラムだったので,ここに紹介します。

 なお,沖縄には「島ナイチャー」という言葉があります。「島」は沖縄のこと。「ナイチャー」は,内地(本土)の人のことで,「島ナイチャー」で,沖縄に住み着いた本土の人,という意味になります。

 このコラムを書いたのは,島ナイチャーの尾村信一郎さん。
東京都出身,琉球移住後18カ月,ABCレンタカー代表取締役一般旅行取扱主任者だそうです。

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 其の四 「模合」(もあい)

 沖縄に住んで驚いた風習の1つが「模合」です。えっ! モアイ・・・イースター島のモアイ像?

 大会社の社長さんも食事の誘いに「今日はモアイがあるから・・」と断られます。
従業員の女の子も「今日は同級生のモアイがあるから、残業はできません・・」
「ワタシは3つモアイに入ってます!」
「今月はモアイの金がはいるから大画面テレビを買おう」

 よくレストランや居酒屋の看板にも「模合・予約承ります」
取引先の旅行会社の担当者も「今日はホテルの支配人クラスのモアイがあるから」と、わざわざ飛行機で東京より駆けつける。

 WHY? モアイって。会員組織? ねすみ講? どうしよう !

 恥ずかしいけど、ウチナーンチュに聞いてみた。
「模合」は普段はなかなか「たまらない」まとまったお金をつくるために月1回とか、定期的に集まって掛け金を出し合い、順番にまとまったお金を受け取るシステムだそうです。

 東京にも「無尽」など、同様のシステムは全国的にありますが、琉球の模合はむろ、親睦を深める会合の要素が多いようです。

「同級生」・「親戚」「近所のおぱー」のモアイはもちろんのこと「社長会」「ナンバー2会」「同業他社の会」「独身友の会」など、掛け金も3000円位から50~100万円までバラエティーに富んでいす。

「飲みにけいしょん」の沖縄にぴったりです。もちろん掛金を払わなかったりすれば、この島では、まともには生きていません。どんなに忙しくても、お金がなくても、飲まなくても掛け金だけは払いに来ます。メンバーの人選も大変です。モアイの親の「信用」「人間性」も問われます。

モチロン、このシステムでー番儲かっているのは「居酒屋・レストラン」であること間違いありません。

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 そうです。沖縄では模合が盛んです。

 「模合」をヤフー辞書で引いても出ませんでした。

 「頼母子講(たのもしこう)」で検索すると出ました。
 
金銭の融通を目的とする民間互助組織。一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行。頼母子。無尽講。

 それです。それを沖縄では「模合」というのです。

 ぼくも模合に入っています。2つ。

 1つは「旅もあい」
 民商の仲間で旅に行きたいね,ということになりました。それで積み立てをしよう,そのために模合をしようと。

 毎月第三日曜日。メンバーのひとりがやっているレストランに集まります。そして,積立金を集めます。ぼくが会計。そして,飲み食いをして楽しむ,というもの。

 もう一つは,村会議員後援会の模合。毎月八日にその議員さんの家で行います。会費は三〇〇〇円。だから親睦模合です。後援会のメンバーは毎月集まるうちに親しくなって次の選挙では団結して戦えます。また,お金の一部は積み立てて次回の選挙資金にすることになっています。

 その他,小学,中学,高校の同期生の模合もあり,誘われたこともあります。しかし,ぼくが出た学校は首里,いま住んでいる読谷からバイクで一時間です。また,金曜日に行われたりするので,塾をやっているぼくには参加できません。

 まあ,このようにいろんな形態で模合が盛んに行われているのです。ルールもそれぞれの模合でいろいろです。沖縄の模合を研究してもおもしろいのができそうです。
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エンゲルス「自由は必然の認識」
「日本語力と英語力」の中で齋藤孝氏は次のように言っています。

(孝)
 私たちの上の世代というのは、「自由」を声高に叫びながら、その実、自由に対する認識自体は甘かったと思うのですね。自由に関して私ははっきりした考えをもっています。自由とはつまり使える技が多いということ。なぜなら、この世を生きていく上において、技があれば自由に活動ができます。いろいろな仕事ができます。逆に、技のない人に自由はないんですよ。(p33 )

 「私たちの上の世代」とは,ぼくらのことでしょうか。
 まあ,それはいいとして,ぼくは似たようなことを以前から思っています。

 ぼくの好きな言葉はエンゲルスの「自由は必然の認識」です。

 エンゲルスは,マルクスといっしょに科学的社会主義をうちたてた人物です。

エンゲルス

 彼ら(マルクスとエンゲルス)は,社会を科学的にみようとしました。そして,社会の動き,歴史は必然であると考えました。そして,その必然性を知ることによって,自分でその社会を変えることができると考えたのです。だから,必然を認識することが自由になるということになります。

 長くなりますが,エンゲルス著「反デューリング論」{大月書店刊「マルクス=エンゲルス8巻選集,第6巻 p120 )から引用します。ぼくの持っている本は廃刊になっているようなので,今手に入る「 反デューリング論」のURLを以下に貼ります。



 へーゲルは、自由と必然性の関係をはじめて正しく述べた人である。

彼にとっては、自由とは必然性の洞察である。

「必然性が盲目なのは、それが理解されないかぎりにおいてのみである。」

自由は、夢想のうちで自然法則から独立する点にあるのではなく、これらの法則を認識すること、そしてそれによって、これらの法則を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。


これは、外的自然の法則にも、また人間そのものの肉体的および精神的存在を規制する法則にも、そのどちらにもあてはまることである。

・・・この二部類の法則は、せいぜいわれわれの概念のなかでだけたがいに分離できるのであって、現実には分離できないものである。

したがって、意志の自由とは、事柄についての知識をもって決定をおこなう能力をさすものにほかならない。

だから、ある特定の問題点についてのある人の判断がより自由であればあるほど、この判断の内容はそれだけ大きな必然性をもって規定されているわけである。

他方、無知にもとづく不確実さは、異なった、相矛盾する多くの可能な決定のうちから、外見上気ままに選択するように見えても、まさにそのことによって、みずからの不自由を、すなわち、それが支配するはずの当の対象にみずから支配されていることを、証明するのである。

だから、自由とは、自然的必然性の認識にもとづいて、われわれ自身ならびに外的自然を支配することである。

したがって、自由は、必然的に歴史的発展の産物である。

動物界から分離したばかりの最初の人間は、すべての本質的な点で動物そのものと同じように不自由であった。

しかし、あらゆる文化上の進歩は、どれも自由への歩みであった。

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