清水義範が好きで,文庫本はすべて読もうとがんばっています。それで,迷うことなくこの本も買いました。
銅像を見る旅をしながらその土地のことを考えるというもの。
作家っていいですよね。このような楽しい旅をしながら,それが本になって収入になる。ぼくらの旅はひたすら消費でお金がなくなるだけ。
それだけ才能があるからです。でも,うらやましい。
さて,このような本を読んでいるとその地を旅したくなります。
また,行ったことのある場所だとおもしろさも増します。
仙台は行ったばかりのところでもあるので,おもしろかった。
清水氏もそうだそうだが,ぼくも司馬遼太郎の「龍馬が行く」を読んでからの龍馬ファンです。だから,龍馬の銅像を追う節もおもしろかった。龍馬が脱藩するときに通った道にある銅像も見たいものだが,パック旅行では行かないでしょうね。
学生時代は金沢にいたので「前田利家と金沢」もよかった。前田利家の像はぼくも知らないなあ。学生時代はあまり関心がなかった。
ヘボン式ローマ字のヘボンが実はヘップバーンを日本人がヘボンと読んだというのは初めて知った。
上野の銅像除幕式で西郷隆盛の未亡人が「あの人はこんな人ではなかった」と言ったのは,有名なことらしいですね。ぼくは知らなかった。
また,それが,似ていないという意味ではなく,
「あの人は行儀のいい人だったから,人前に立つのにこんな着流しの姿で出てくるような人ではない」と言いたかったのだそうです。
p63~65 です。
5 リーディング(読み)
リーディング(読み)は、わたしたちの学校を厳しい試練に晒(さら)しました。わたしたちはリーディングについても、あくまで子ども本人のイニシアチブに任せているのです。わたしたちの方から「読みなさい」と勧めることはありません。「さあ、読み方を習いましょうね」とは、だれも言わないのです。
「今、読み方、習っておいた方が、いいと思わない?」と勧めることもない。いかにも楽しそうな様子で、「ねぇ、読むって、なんかワクワクすることじゃない?」と誘い込むこともありません。
わたしたちの原則はただひとつ。リーディングについても、生徒が最初のー歩を踏み出すのを待つ、ということです。
何事も思い通りになれば、信念を生きるのも簡単なことです。が、現実はなかなか、そうはならないもの。わたしの家族の例を見てください。一番上の子は、五歳にしてリーディング(読み)に興味を覚えました。自分自身の力で、六歳で読めるようになったのです。なんの問題もありません。すべては期待通り、うまく行ったのです。
さて、二歳と六カ月年下の娘の番です。学校のほかの子どもと同様、娘が読むのを教えてくれと頼んでくるまで、あるいはまた自分で読むようになるまで、わたしたちは待ったのです。待って、待って、待ったのです。ところが彼女は、六歳になっても読まないのです。まあ、それも良しとしなければならないでしょう。世間並みなのですから。
が、彼女は七歳になっても読み始めません。こうなると、親としてはやはり心配です。とくに、おじいちゃん、おばあちゃん、叔父さん、叔母さんたちが不安の表情を浮かべます。
ついに八歳にして、読まず。こうなると、もはやー家、仲間うちのスキャンダルです。わたしたち夫婦は、まるで非行パパと非行ママ。「それでよく、学校やってられるわね」というわけです。娘が八歳になっても読めないのに対策もとらないで、よく学校をやってますなんていってられるわね、そんなのまともな学校じゃないよ、と非難の言葉を浴びせかけてくるのです。
でも、サドベリー・バレー校では、だれもそんなこと気にしちゃいません。たしかに、八歳になる友だちの大半は読めるようになっている。でも、まだ読めない子も何人かいるのです。そんなことなど、娘は気にもかけていません。元気いっぱい幸せに、毎日を過ごしているのです。
娘が「読みたい。読もう」と心に決めたのは九歳のときでした。どんな理由でそう決断したのか、わたしには分かりませんし、娘本人も覚えていません。間もなく、九歳と六カ月で、彼女は完壁に読めるようになりました。何でも読めるのです。もはや彼女は、だれの「心配の種」でもなくなったのです。もちろん、もともと「問題児」でもなんでもなかったのですが。
なお,
かれこれニ十年近く、サドベリー・バレー校では、いわゆる「読書障害(ディスレクシァ)」なるケースが一件も出ていません。なぜ、そうなのか、理由は分かりません。
だ,そうです。
これがうまくいけばいいですね。すばらしいと思います。でも,ぼくもおじいちゃん,おばあさんの仲間だと思います。八歳になっても読まないのでは心配です。
読書障害はないようですが,幼児のときにサドベリーに入り,青年期に卒業する子すべてが読みができるようになるのでしょうか。そしてどの程度できるのでしょうか。ぼくは心配です。
読みがこのようなものですから,ほかのこともすべて「プッシュ教育」を否定しているのでしょう。
かけ算,わり算ができなくてもいい,図形の面積を求めきれなくてもいい,ということでしょう。
子どもをどれだけ信じることができるか,ということでしょうね。ぼくはそこまで信じることはできません。