世界一素敵な学校―サドベリー・バレー物語
それでもわたしは、一生懸命教えようとしました。参考書もいっぱい読んで・・・・。でも、事態は一 向によくなりません。やがて、わたしは気づきました。同僚もまた、程度の差こそあれ同じ問題に直面し、苦闘していたのです。
わたしの胸に、認めたくもない恐ろしい考えが兆しはじめました。いくらわたしが学生の前ではし ゃいだり、脅したり、すかしたところで、最後は学生たちの気構え次第。学びたくないものは、結局、学ばないことに気づいたのです。
そしてわたしは、恐るべき真実に辿り着きました。
とどのつまり、わたしたちは、人々がどう学ぶか、ほんとうは何も知らないのです。人々が、ほん とうに興味を持って学んでいるかどうかさえも知らないのです。
ときどきわたしは、今の学校って、童話にある「裸の王様」そっくりだと思います。この世でこれ以上、ぴったりな譬えは他にないのではないでしょうか。何も着ていないのに、自分では立派な衣装を身につけていると勘違いしているのです。「学校」という名の王様は、我こそは知識の調達者なり、供給者なりと錯覚し、来る年も来る年も威張っているのです。
自分の思いどおりにいかないときは、お金にものを言わせます。お金という石膏で傷口を塞ぎ、取り繕ってしまいます。でも、それでは結局、うまくいきません。子どもたちは自分が学ぶものを学ぶのです。学びたいとき、学びたい方法で学ぶのです。わたしたちがいくら教えようと努力しても、そ んなことなどお構いなしです。
この真実を、わたしはサドベリー・バレー校で、いつも目の当たりにしています。が、なぜ、そう なのか、秘密の解読には十分成功していません。
この学校では、知らないことは知らないのです。わたしたち教師の役目は、子どもたちー人ひとりが自分の道を選び、さまざまな方向に歩んでいくその側に、じっと立って見守ることなのです。子どもたちに断られたら、身を引けばいいのです。 子どもたちの若く美しい精神のなかに、なんと素晴らしい多様性が振っていることでしょう。
偉大なるジャン・ピアジェよ、これはもうあなたに悲嘆に暮れてもらうしかありません。学習の諸段階ですって? 理解へと進む普遍的なステップですって? 知識の獲得におけるー般的なパターンです って? まさにナンセンスです。
サドベリー・バレー校の子どもたちは皆、絶えず学んでいるのです。彼・女らの最大の師、それは 彼・女らの「生」そのものなのです。学校の教師が学士号や修士号、博士号を持っていようと、そん なことは小さな問題に過ぎません。
前半部分はとても共感を覚えます。その通りだと思います。前半部分は,サドベリー・バレーの素晴らしい理念を知ってもらうために書きました。
ぼくが???と思うのは,ジャン・ピアジェのところです。実はぼくはピアジェを十分に理解していません。それで,少々矮小化して取り上げます。
学習の「臨界期」についてです。
一番はっきりしているのは,絶対音階です。幼児期に音楽を習った子は,絶対音階が備わるそうです。絶対音階は例えばピアノの鍵盤をひとつたたく。するとそれを聞いて「ド」の音とか分かる能力です。
絶対音階は大人になってどんなに学習しようとしても無理だと言われています。できないことはないという人もいるかもしれませんが,難しいのは確実です。
言葉の発音もそうですね。日本人はr,l の聞き分けが難しい。それを幼児期にやれば苦もなくできる。
齋藤孝氏は,小学4,5年は読書の黄金期のようなことを書いていたと思います。その時期に読書をさせると読書をする子になる,というようなことです。
このように,いろいろ学ぶにはそれに適した年齢がある,ということを臨界期といいます。
鳥のインプリンティングはまさにそうです。卵から孵化したときに見た動くものを親だと思ってついて行くというものですね。
さて,サドベリー・バレーでは,子どもたちの学びたいときが最適な時期だというようなことを書いています。ぼくはそれでいいかなと思います。
ぼくはやはり臨界期というのはある,だからできればその時期に学ぶべきことを教えた方がいいと思うのです。どうでしょうか。
ただ,ぼくは大人が英語を学びたいが遅いでしょうか,と来たときは,
遅いことはありません。学ぼうと思ったときが一番学ぶにはいい時期なんです,と答えていますが・・・。