FC2ブログ
セルフ塾は閉めましたが、そのままの名前でブログを続けます。独学,独習。教わるより,学ぶを重視。 セルフラーニングの方法,英語,数学などの情報を発信するつもりです。

体験入塾,塾学習見学会(再録)

 だいぶ前に書いたのですが,直前になったのでまた載せます。
 メールでの受付も行います。左側にあるメールフォームから送ってください。



 体験入塾,塾学習見学会を行います。

3月13日(金)小学部は,5時30分~7時,
         中学部は,7時15分~9時45分。

 場所はもちろんセルフ塾の学習室。

 体験入塾を希望なさる方は予約が必要です。前日の夜10時までにお名前と学年を知らせてください。教材をコピーし,準備しておきます。
 そして,小学部の体験入塾は,5時30分に,中学部の体験入塾は7時15分に塾にいらしてください。あとはこちらの指示に従ってもらいます。
 見学だけの方はその日,直接いらしてかまいません。保護者だけの見学も歓迎いたします。また,在塾生の保護者もこの機会に見学なさってもかまいません。

 現在6年生で来年中学にあがる生徒も体験入塾した方がいいのかもしれませんが,兄姉がいてセルフ塾の様子が分かる方,継続するともうすでに決めている方は,できればご遠慮ください。あまり人数が多いと在塾生の学習に支障をきたすおそれがあるからです。

 以上のこと,まわりの方にもお知らせいただければ,うれしく思います。
スポンサーサイト




もう『知らない』という状態には戻れないのたなぁ
入れたり出したり (角川文庫)

 前回は,酒井順子さんの「入れたり出したり」を紹介しました。
 次の部分については,教育的な立場からそこだけでまたひとつ書きたいです。


 が、ふと寂しくなることもあるものです。それは、
「ああ、もう『知らない』という状態には戻れないのたなぁ」
と思った時。

たとえば今の私は、カラスミの味を知っています。カラスミを初めて食べたのは、社会人になりたての頃、銀座の飲み屋さんに上司に連れていってもらった時のこと。大根に挟んであるオレンジ色のカラスミがあまりにもおいしくて、
「こんなにおいじいものがあるんですね~っー」
と、私は大感激した。

 今でもカラスミを食べる時は、”おいしいなぁ”と思うわけですが、それは初めて食べた時のあの感動には、明らかに劣る。既にお馴染みの味となったカラスミをかじりつつ、”カラスミの味を知らない時代には、もう戻ることかできないのだ”と思うと、寂しくなるのです。

 何かを「知らない」という状態から「知っている」という状態になるのは、その何かか身近な問題であるかぎりは、ある程度の努力をすれば可能です。が、「知っている」という状態から「知らない」という状態に戻すのは、痴呆にでもならない限り、ほぼ不可能。

 一度セックスをしてしまった人は、たとえ処女膜再生手術を受けても処女ではないし、昔野球をやっていた人は、たとえニ十年間のブランクがあっても、再びバットを握れば昔と同じようなフォームで素振りをしてしまう。

 私達は苦に憶えたことを忘れることもできるし、世の中には「白紙に戻す」という言い方もあるけれど、忘却によって得られる白紙は、鉛筆で書いた文字を消しゴムで消して白くした、という感じなのです。過去に読んだことがある本を、忘れてもう一度読んでいて、”ハテ、何かこの読み心地、以前にもー度味わっているようなないような・・・・”と思うように。

 そして私は、「知らない」という状態がいかに貴重なものであったかを、しみじみと思い知るのでした。知っているべきことはほとんど知らず、知らないでいいことばかり、たっくさん知ってしまったような気がする今。



 まだ,しばらく続きますが引用はここまで。そうだよなあ,と思います。

 著者のいいたいことからはずれるかもしれませんが,
 教育をするものにとってはこのことは理解していた方がいいと思うのです。

 ぼくら教育者は知っていることを,それを知らない人に教えるのですね。

 ぼくらは知っている。しかし彼らは知らない。
 知らない人の身になることができないのです。どんなに努力しても。

 「隠し絵」というのがありますね。例えば,ごちゃごちゃした絵に何か動物が隠れている。何が隠れているのかをさがす。

 最初は見えないのですが,そのうちに見える瞬間があります。そして,その後は見えなくならないのです。見えない状態にならない。後戻りはできません。

 だから,別の人がさがしてあっちこっち見ているのがおかしくてしようがない。
 なぜ,見えないのだろうと思う。ついさっきまでは自分も同じだったのに。

 数学でもそうです。図形の問題がある。慣れていると,何を見たらいいのか着眼点がすぐに目に入ってきます。向こうの方から飛び込んできます。

 しかし,できない人はとんどもないところを見ている。

 そこで,ぼくらは「なぜ,分からないんだ」と怒鳴ってしまうのですね。

 知らない,分からない,ということが理解できない。

 でも,それでは教育はできないのです。できない人の立場に立つことができなければ。
 知っているけど,できるだけ知らない人の気持ちも理解しながら,教えるというところまで自分をもってこなければいけないのですね。なかなか難しいです。 

酒井順子著「入れたり,出したり」


 酒井順子さんの本は好きです。酒井さんは頭がいいんですね。見方がユニーク。
 清水義範さんが大好きで,ほぼ全作品(文庫だけ)読んでいます。何か共通点があるように思います。

 酒井さんの場合,特に喩えがおもしろい。

 p19
考えてみれば、生まれてきた赤子とその母親という存在自体が、「入れたり、出したり」の象徴のようなものなのでした。母胎に仕込まれた種が大きく育ち、やがて月が満ちて、赤子は体外へ出ていく。その結実から刈り取りまでを経験した母親は、自らの肉体の畑としての機能を、体感するのではないか。

 赤子は、母親の身体から出てくると同時に、どこかの家族のー員となります。赤子は、家族の新しいメンバーとして「入って」きて、家族を賑やかにする。そして赤子の誕生を喜んだ親はやがて年老いて、かつて赤子だった子供に見守られながら、この世を「出て」いく。

 もっと大きく言うならば、人間の出し入れは、地球規模で行なわれているのでした。
「赤ちゃんが生まれた」
という報を聞けば、”ああ、またー人地球に入ってきた”と思い、街中で霊柩車が走るのを見れば、”一人出ていくのだなぁ”と思う。

 生まれる子供は少ないのに老人はたくさんいる、という少子高齢化の今の日本は、拒食症の人が便秘をしているようなものでしょう。拒食にも便秘にも、何らかの原因があるはず。それが、健康的な状態ではないことだけは、確かのようですが。


 少子高齢化を,「拒食症の人が便秘」ということに喩えるなんておもしろくておもしろくて。よく考えつくと思います。

 喩えがうまいと人によく伝わります。先日書きましたが,「個体はしっかり手をつないでいる状態」と喩えたら,生徒が分かった分かったという表情をしていました。教えるとき,何かに喩えるって大切だと思います。


  一位になることの恐ろしさは、ヒットチャートを見ると強く感じます。たとえば小室哲哉が作った歌を歌うコムロファミリーが世を席巻していた時、私は ”コムロ時代に果たして終りが来るのだろうか?”と思ったものです。が、やはり終りはやってきた。小室哲哉が作った歌を歌うだけで、歌手は「なんか、古いって感じ」という印象になり、小室哲哉とKEIKOさんの豪華結婚式は、さながらコムロファミリーの葬式の様相を呈していたものでしたっけ。


 この本は5年前に書かれたもの。小室哲哉が逮捕されたことは知らないのですね。著者は。


 旅と旅行は違うものだと、よく言います。

 旅は格好いい感じたけれど、旅行は格好よくない感じ。旅は自分頼りたけれど、旅行は他人任せ。旅は知的で、旅行は痴的。旅人は選ばれし者で、旅行者はー般人。…・・そんなイメージがあるわけです。

  旅人はしぽしぽ、
「駄目だなぁ、旅行なんかしてるようじゃ。旅をしなさい旅を」
と、旅行者を卑下します。スローフードはそりゃあ立派だけとペヤングもたまに食べるとすっごく美味しいゼ・・・と思うタイプの私は、旅に憧れはするものの旅行も悪くないゼ・・・と思うタイプなのであって、その手の旅人の言い草を聞くと
「他人のことは放っておいてー人で勝手に旅してろや」
と思うわけです。


 旅と旅行のちがいってたしかにありますね。その後のページもなるほどと思いながら読みました。ぼくも旅行をしているんだな。

 なお,ペヤングって何か知りませんでした。「ペヤングとは」で,検索して「ペヤングソース焼きそば」は、いわゆる即席カップ焼きそばと知りました。


さらにオーバーに言ってしまえば、私は自分の人生に対して、常に”これは嘘なのではないか・・・”という感触を持ち続けているのでした。生活しているふとした瞬間に、”この出来事って、劇とか映画のシーンじゃないのかなぁ。自分が実際に生きているーシーンだとは、まるで冗談のようだ!”としばしば思う。一区切りついた時、
「はい、お疲れ様でしたぁー」
と幕が降りて劇が終らないことが、とても不思議なのです。


 荘子の「胡蝶の夢」の世界ですね。ぼくもそう感じることができるのでよく分かります。清水義範の世界でもそのようなものがよく出てきます。

 まわりはすべて宇宙人だった,のように。


 肉体的な露出が好きという性質は、私の今の職業と通底しています。エッセイを書き、皆様に読んでいただく職業についたということはつまり、精神的な露出欲求をも私は持っていることを示すのです。
たまに、
「あんな風に自分のことを書いて、テレたりしないの・・・」
と聞かれることがあります。それは、
「恥ずかし気もなくよくあんなこと書くね」
と同じ意味なわけですが、その手のことを聞かれるとハタと私は考えてみる。が、やはり恥ずかしくはないのです。むしろ気持ちいいくらいの感覚。

さらけ出すのが肉体であっても精神であっても、露出という行為には快感が伴うのだと思うのです。本米なら隠しているべき日の当たらない部分を外気にさらした時の気持ち良さというのは、やはり排他行為の快感と通じるのでしょう。


 ブログを書くって,こういうことなんだろうな,と思います。ぼくもだから露出症なのでしょう。書いてみなさんに読んでもらいたいというのは同じ。酒井さんのように書いたのがお金になるのならまだしも,ぼくなどはお金にもならないのに,書いているのは,露出症だからでしかないですね。

Copyright © セルフ塾のブログ. all rights reserved.