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セルフ塾は閉めましたが、そのままの名前でブログを続けます。独学,独習。教わるより,学ぶを重視。 セルフラーニングの方法,英語,数学などの情報を発信するつもりです。

数学でつまずくのはなぜか


 はっきり言って難しい本です。じっくり理解するつもりで読まないと分かりません。ぼくは,書名から,教えるためのハウツーが書かれていると思っていました。でも,もっともっと深くの問題を扱っています。正直,こんなに深く考えないと子どもが数学につまずくことは分からないのかなあ,という気持ちもあります。ぼくは,もっとテクニックでつまずきを防ぐこともできるのではないかと考えています。

 もちろん,学ぶべきことはたくさんありました。

 p29
 前著『文系のための数学教室』講談社現代新書)の再諭になってしまうが、人切なことなので繰りかえすこととしよう。

  アメリカの経済学者であるポウルズとギンタスの実証研究によれば、学校教育の中での語学や数学の成績は、意外なことに、「創造性」「積極性」「独立心」などとは負の相関を持ち、「我慢強い」「堅実」「字校への帰属意識が強い」「如才ない」などの性質と正の相関を持つとのことだ。つまり、学校数字は数学者たちが思うような「自由でファンタスティックな」数学という風には全く機能していない、ということである。


 分かります。そういわれればそうかもしらないなあ,と感じます。『文系のための数学教室』にはもっと詳しく書かれているのでしょう。まだ読んでいないので,読んでみたいと思います。


p67
 ただ、このような「定理の編み上げ」という方法論が、必ずしもすべての学者にアピールしたわけではない。例えば、ユークリッドと同時代の哲学者エピクロスは、「三角形の二辺の和は残りの一辺の長さより長い」という定理に対して「証明しなくともロバでも知っている」と公言していたそうだ。また、一七三〇年代の徳川吉宗の時代に『原論』が日本に伝えられたとき、当時の日本の数学者たちは、「こんなわかりきったことを、なんでわざわざ、あらためて定義したり、証肌したりする必要があるんだ」と考え、完全に無視してしまったそうである。さらには、ノーベル賞を受賞した物理学者R・P・ファインマンも、次のようなことを述べている。
「物理学者たるものはバビロニア式の数学を使うのであって、凍りついた公理系からする厳密な議論には殆ど風味を持ちません」


 ぼくはユークリッド的な数学は好きなので,特に違和感はなかったのですが,このような感想もあるのですね。言われれば確かにそうだなあとも思います。


p116
関数は、「働き」を表すものなのに、関「数」という「数もどきの名前」がついてしまったのにはいきさつがある。それは、中国経由でこの概念が日本に入ってきたことだ。中国では関数のことを「函数」と記すそうである。functionの発音をそのまま漢字に当てはめ「函数(ハンシュウ)」としたのだ。日本は、これを「漢字」のまま輸入して、読みのほうを日本語にして「かんすう」とした。さらに、「函」が当用漢字になかったためにで「関数」としたので,中国語の読みからもはずれてしまうこととなった。こうして,中国では単なる「発音」だったものが、日本に来たときは「無意味なことば」にすりかわって
しまったのである。


 なるほど,そういうこともあったのですね。何も考えないで使っていました。

p157
藤沢以来、長く続いていた「数え主義」教育に立ち向かったのは、遠山啓という二十世紀半ばの数学者だった。
 遠山は、大学で数学を研究していた人で、最初からこのような児童教育の問題に関心があったわけではなかったようだ。その遠山がこの問題に取り組むきっかけになったのは、娘さんが算数に苦しむ姿を見たことだった。一九五八年頃のことである。悩む娘さんに手を貸そうとした遠山は、彼女が算数を理解できないのは、彼女の頭が悪いせいではなく教科書がよくないからだ、と気づいた。そこで遠山は、当時の算数の教科書を注意深く分析して、「数え主義」の問題点に注日したのである。それをきっかけとして、「数え主義」とは別の数教育の方法を構築することにのめりこんでいった。
 遠山が、苦心惨憺の末たどりついたのは、「集合」と「写像」を利用する方法論だった。


 以下,「集合」と「写像」の説明が続きます。
 ここで遠山啓が出てきたのは,うれしかったです。遠山啓の水道方式は,ぼくが利用させてもらっている方式で,とてもすばらしいものです。「数え主義」批判についても一応は知っていました。改めて確認できてよかったです。


p163
このことをより深く理解してもらうために、一つの実例を紹介しよう。それは、サマンサ・アピールという学習障害者の話である。彼女は、著書『13歳の冬、誰にも言えなかったこと ある学習障害の少女の手記』で、自分が数概念を認識できない障害を持っていること、そのためにどんなに苦しんだか、そしてその苦しみをどう克服したか、その体験を告白している。


 以下,彼女がどのような学習障害だったのかの説明が数ページにわたって書かれています。詩を書く才能はすごいのに,数に関してはまったくだめだということです。読んでみたい本です。

p169
 この理屈を逆さまに用いるなら、こう言える。普通のこどもたちが数をわかることができるのは、「真っ白な頭」に教師によって上手に書き込まれたからでも、こどもたちが努力して理解したからでもなく、事物に備わる「数えられる」というアフォーダンスを受理する機能が、こどもたちに生まれつき備わっているからなのである。数は、(アピールのような例外を除けば)はじめからこどもたちのなかにあるのだ。そして、それは事物の属性生として現れるのである。


 言葉,文法は,学習されるものではなく,頭にすでにあるのだ,という理論についてはこれまで何回かこのブログでも書いてきました。数についてもそれがあるということなのでしょう。
 
チョムスキー入門
で抜粋したものです。

● チョムスキーの考えでは、ヒトの中枢神経系や大脳皮質には”発話”を生み出す生物学的能力ばかりでなく、”言葉という秩序”そのものが、あらかじめ組み込まれている。さまざまな単語を整然と並べて”言葉”という構造物をつくり出す能力は、ヒトに生まれつき備わっているのだ。

● あらゆる言語の文法構造は”普遍文法”という土台の上に築かれているという結論に行き着く。


 なお,「スキナーとチョムスキー」についても書いたページがあります。

p196
フレーゲの自然数は、「、のようにとても抽象的なものであったが、遠山はこれを児童教育にみごとに転用した。このことからも、遠山という人がいかに深く数学を勉強し、また、いかに真剣に教育の方法を模索した人かがわかる。「こどもに数学をどう教えるか」というのは、本当は非常に難しいことであり、そこには哲学や歴史学などの幅広い知識と数学についての本質的な思索が必要なのだ。
 何かの分野で名声を得た人は、えてして教育のことを語りたがるが、その多くは個人の特別な体験の域を出ず、かえって有害な場合が多い。日本の最近の教育行政の迷走は、このような無責任で思慮の浅い「著名人」の提言の引き起こしたものだといわざるを得ない。
 こどもに数学を教える方法を考えることは、数学の研究そのものに匹敵するくらい難しく、また、深い研究が必要であり、誇り高い仕事だ。こどもたちが必要とするのは、ある芸には秀でているが哲学も思想も人間認識もないような「著名人」などではなく、遠山のような総合的な知識と哲学と創造力を兼ね備えた専門家なのである。


 すばらしいですね。ぼくの尊敬する遠山啓氏がこのように高く評価されていてうれしいです。彼は確かに 「総合的な知識と哲学と創造力を兼ね備えた専門家」だったのだろうと思います。だからこそあのようなすばらしい水道方式が生まれたのでしょう。
 「無責任で思慮の浅い『著名人』の提言」に関しても同感です。
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