沖縄語に変換『もんじろう』
というページに出合いました。
おっ,すごいな,とちょっと感動。
さっそく,「兄」を変換してみました。
すると,なんと「にーにー」で出てきたのにはびっくり。
「姉」は,予想通り,「ねーねー」
ぼくは,「にーにー」「ねーねー」が沖縄方言とは認めたくないです。
ヤマトゥウチナーグチでしょう。先日はウチナーヤマトゥグチについて書きましたが。ヤマトゥウチナーグチというのがあります。
琉球方言の中には「ウチナーヤマトゥグチ」と「ヤマトゥウチナーグチ」がある。
http://www.hcn.zaq.ne.jp/toru/ryukyuhougenn.html
それによると,
標準語を獲得する際に「ウチナーヤマトゥグチ」という変種が生まれた。
その逆で、文字のごとく「ヤマトゥウチナーグチ」は標準語の干渉のもとで 生じた方言である。
とのこと。
「にーにー」は,標準語の「にいさん」から作った和製琉球語であろうと思われます。
沖縄方言には,「シージャ」という立派なのがあるのです。
この「シージャ」ですが,おもしろいです。性別の区別なく,年上の兄弟に使います。つまり,兄もシージャ,姉もシージャです。
「父」を変換したら,「スー」と出ました。これは間違いではないです。
ただ,ぼくが「スー」を使ったら叱られました。「これは百姓言葉だ」とのこと。
いま「スー」を検索したら,
「首里・那覇方言音声データベース」というサイトもありました。
それによると,
スー /sjuu/
(名詞) ※首里士族の父をターリーという以前の父の呼称(主)。国王をウスーまたはウスガナシと呼ぶ。
意味:
父。主。おとうさん。平民の父をいう。平民の父の名称および呼称。
父=スー で間違いはないが,せめて「平民の父」で,首里では「ターリー」というのも記して欲しいです。
だれが作っているのでしょうか。
hot [形]
(2)熱い ・ hot tea 熱いお茶 ・ hot water お湯
2 (皮膚・のどなどに)焼けるような感じを起こす, ひりひりする, 刺激的な;(舌に)ぴりっとする, 辛い ・ hot mustard 辛いからし ・ The sauce was hot.そのソースは辛かった.
[ プログレッシブ英和中辞典 提供:JapanKnowledge ] 凡例
ホットコーヒーは,もうすっかりなじみです。また,スナック菓子の袋には,HOT! とかかれているものもあります。だから,子どもたちもhotは「辛い」という意味があることは分かります。
中学生に,hotには,「熱い」という意味も,「辛い」という意味もあるんだよ,というと不思議そうにします。ぼくも不思議です。
ぼくらにとっては,「熱い」と「辛い」は,完全に別の感覚です。確かに,辛いときには,口の中がひりひりして燃えるようになるだろう,だから辛いもhotなんだよ,と説明されると理解できます。
だけど,「熱い」も「辛い」もhotでは不自由じゃないのかなあ,などと思いますね。
たいていは,文脈で判断できます。
このカレーはhotだよ。 だと,たぶん「辛い」という意味でしょうね。でも,「熱い」は完全に却下はできません。
このコーヒーはhotだね。これは「熱い」でしょうね。コーヒーが辛いというのはないように思います。
でも,このスープhotだ,と言った場合はどうでしょうか。「熱い」「辛い」どちらも十分に考えられます。
ネットで検索してみました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q122989997
しかし、hotは温度が高いのか辛いのか紛らわしいため、あまり使わないほうがいいです。
”The curry is hot. カレーが辛い。”程度のことでしたら文脈で判断できるのでいいですが、”The soup is hot. スープが辛い。(それとも熱い?)”は判断に迷います。"The soup is spicy."のほうが適切です。
ただし、hotの方が、「激しく辛い」という雰囲気が伝わるのでどうしても使いたいときがあります。その場合は"The soup is spicy hot!"と二つあわせて使います。
さらに余談ですが、「カレーが熱い」場合
私は"It's hot! I mean, it's not too spicy but of high temperature." と言います。"It's of high temperature."です。
spicy [形] 1 香料[香辛料]を入れた, 薬味のきいた ・ (a) spicy flavor 薬味のきいた味.
日本語では,スパイシーというのは「辛い」というより,「香辛料がきいている」という意味が強いですね。
スパイシー【spicy】 [形動]香辛料がきいているさま。ぴりっとするさま。「―な味」[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]
いずれにしろ,文脈だけでは判断できないとき,「辛い」は,香辛料かきいてhotだ,「熱い」は,温度が高くてhotだ,などと説明的になるのでしょう。

中学3年理科で,よく術題される問題です。そして間違える生徒が多い。
答えは,(ア)です。この場合には,重力,つまり地球による引力しか働いていません。
これを中学生に納得させるのは,なかなか難しい。
ほとんどが,(エ)または(イ)を選びます。
ボールは,キャッチャーに向かって飛んでいるのに,なぜその方向に力が働いていないんだ,と思うのですね。もっともです。
それをぼくは次のように教えています。
自転車に乗るよ。最初止まっていた自転車。それをこぐ。初めのころはかなり力を入れてこぐ。少しずつ速くなっていくね。だんだんペダルにかかる力が小さくなっていくけど,スピードは大きくなる。速くなってくるね。もう十分に速くなったころ,平坦地では,ペダルをこがなくても,自転車は前へ前へ進んでいくだろう。そのとき,自転車に働く力はないよね。こいでいないんだから。
それまで一所懸命にこぎにこいでスピードをつけた。それがそのまま走り続けようとする力になるんだよ。
これを慣性というんだよ,と教えます。
かん‐せい〔クワン‐〕【慣性】 外力が働かなければ、物体はその運動状態を保つという性質。惰性。[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]
生徒は,半分は納得したという表情をします。「分かった」と顔を輝かせるにはいたらないですね。なかなか難しいです。でも,実際に自分が力を入れてこぎ,スピードをあげていき,そしてペダルを踏まなくても進んでいく,ということで一応イメージができるようです。
ピッチャーが投げるボールも同じだよ,と続けます。
ピッチャーは腕を大きく後ろまで持っていき,ひざを使い,そして最後にはスナップをきかす。ボールはピッチャーの手といっしょに走っている。そのときは自転車を力一杯にこいでいる状態だ。ボールには前向きの力がかかっている。そして,ボールを離す瞬間。そのスピードを保ったままボールだけが飛んでいく。そのときからはボールにかかる力は重力だけなんだよ,と。
それも一応納得,という表情ですね。前に向かって進んでいく,という現象の方がまだまだ強いようです。
英語中1の教材が欲しいとのこと。里親をしていて,里子が中1になので,その子にさせるためだそうです。
Mさんには4人の子がいます。2番目の子Cくんと,3番目の子T子さんは,保育園をしていたときに預かっていました。そして4番目の子Kくんは,中学生のときにセルフ塾に入りました。
「Cくんはどうしていますか?」
「いま,東京で働いています。
最初に勤めていたところは,言葉は壁になってやめてしましました。
いまは,言葉はそれほど必要としないで,自分でやることができるので,がんばっているようです」
Mさんの子は4人とも,普通の小学校に通っていません。アメリカンスクールに通っていました。Mさんは夫婦とも特に英語ができる,というわけではありません。本当に普通の教育熱心は日本人です。
また,クリスチャンです。ぼくの英会話のN先生がやっている教会に通っていました。
子どもたちがバイリンガルになってくれればと思ってのことです。普通のお母さんがたも同じように考えているのでしょうが,その願いが少し強く,また実行することもできたのです。沖縄は基地の島なので,アメリカンスクールもあります。他府県については知りませんが。
一番下のKくんは,途中で地元の学校に変わり,そして塾に来ました。学年を下げての転校だったようです。
さて,とまどいながらも,思い切って,Mさんに尋ねてみました。
「少し,訊きにくいことですが,いいでしょうか
最近,読んだ本に『セミリンガル』というのがありましたが,ご存じですか」
「いいえ,知りません」
「バイリンガルは,2カ国語に通じている人ですね。それに対して,2カ国語とも中途半端な人をセミリンガルと言うそうです。
海外に勤務する人がいますね。そのときに子どももいっしょに連れていきます。そして,お母さん方はバイリンガルになることを望むのですが,日本語も英語も中途半端になってしまう子が多いのだそうです」
セミリンガルについては,
市川力著「英語を子どもに教えるな」
「私の子どもたちもセミリンガルですね。日本語も英語も中途半端です。
でも,Y(長男)とT子は,アメリカンスクールに通わせたことを私に感謝しています。言葉に関しては苦労しているようですが,日本の学校では学べないようなことを学んだそうです。
Yはいま喫茶店をやっています。
T子も自分のペース。オーストラリアやドイツに行ったりして自分のやりたいことをやっています。二人ともたくましいです。」
メモをとりながら話していたわけではないので,細かい点では間違いがあるかもしれませんが,内容としては上のようでした。
「そうですか。それはよかったです。言葉だけではないですからね。人生のレールは1本ではないですから。それぞれが自分の道を歩めばいいのです。思い切って尋ねて,よかったです」
人生なにが幸いするか分かりません。セミリンガルで苦労することもあるでしょうが,その苦労がこやしになって,成長することもあります。
Mさんにも言いましたが,人生は1本のレールではありません。この道だけが正しいとは言えません。それぞれが自分の人生をいいように変えていくのでしょう。
きょうは,無重力について書きます。
スペースシャトル,人工衛星などの中は,無重力状態だ,と言われていますね。重力がない状態ということでしょう。
若田宇宙飛行士「おもしろ宇宙実験」 vol.3
人工衛星のように遠くまで行くと,地球から遠くなるので,重力が働かなくなるのだろうな,などとだいぶ前は考えていました。未だにそう考えている人はいませんか。
重力が働かないから,人工衛星の中ではぷかぷか浮かんでいることができるし,水は水玉になって浮かんでいます。そのように考えていませんか。
しかし,人工衛星の中にいても,重力がなくなるわけではありませんね。人工衛星がまわっているのは,地球のすぐそこです。
地球の引力は軽く月まで及んでいます。だから月は地球から離れることができずに地球のまわりをずっとまわっているんです。
もちろん,人工衛星にもその中にいる人にも地球の引力は及んでいます。
では,その引力と釣り合う力が働いて,合力が0になっているかというとそうでもないようです。合力が0なら,等速直線運動をするはずです。しかし,人工衛星は円運動をしています。
人工衛星は,落ち続けているのです。人工衛星の速度が遅すぎると,放物線を描きながら地上に落ちます。速度がとても速いと,地球から遠ざかっていきます。適度な速度だと落ち続けます。地球は丸いので,落ち続けながらまわるという感じでしょう。
さて,自由落下で落ちるエレベーターの中は無重力状態だと言われますね。また,エンジンを止めて落ちてくる飛行機の中も無重力状態だと言います。最近,無重力の中で結婚式をあげたというニュースもありました。
NYのカップル、「無重力結婚式」を挙げる
あれも重力がなくなったわけではないですね。重力によって落ちてくるのですから。落ちてくるのは重力による下向きの力が働くからです。絶対に重力がないわけではない。
だから,ぼくは
無重力状態とは,「無重力のように感じる状態」だと思っています。まわりもいっしょに落ちつづけているのですから,重力がないように感じるのです。
さて,これまでこのように考えていました。
きょう,この記事を書くためにヤフー辞書で,「無重力」を引いてみました。
すると,「無重力」はないのです。→無重量
とあります。む‐じゅうりょく【無重力】⇒ 無重量(むじゅうりょう)
そして無重量に行くと,
む‐じゅうりょう〔‐ヂユウリヤウ〕【無重量】
人工衛星や自由落下する物体の内部などで、引力と慣性力が釣り合って、重さを感じなくなる現象。無重力状態。
とあります。やはり,重さを感じなくなる現象です。重力がない状態ではない。
専門的には,無重力とは言わずに無重量と言っているでしょうか。
それとも,ぼくがニュースで「無重量」と言っているのを「無重力」と聞き違えしてるのでしょうか。
ただ,そう単純でもないないようです。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると,
等価原理の立場からは、そもそも、無重量と無重力を区別する方法は存在しない。万有引力と自転・公転による遠心力などの合力を重力とする考え方からは、周回軌道上の人工衛星などで実現される無重量状態では重力が無いということになり、ある種の無重量状態と無重力状態は同義語となる。重力のうちに慣性力を含まず、万有引力と同一視する考え方もあり、この場合は万有引力が0で無いならば無重力とは呼べないので、無重量状態と無重力状態は異なる状態をさすというふうに主張されることもある。
これらの主張の違いは、観点の違いに過ぎず、どの考え方が絶対的に正しいというものではない。
ぼくが考えていたのは,後者の立場なんでしょうね。
「和製英語」で検索すると,次のページにいろいろありました。
http://ww3.tiki.ne.jp/~ffdes/eigo/je.htm
その一部です。
*モーニングサービス→"breakfast special"
*モーニングコール→"wake-up call"
*マンツーマン→"one-on-one"
*シュークリーム→"cream puff"
*TVゲーム→"video game"
*ガソリンスタンド→"gas station"
*ベスト10→"top 10"
*マイペース→"my own pace"
*ポケベル→"beeper", "pager"
*パソコン→"PC"
*ヴァージョンアップ→"upgrade"
英語で話すときは,この和製英語には気を遣います。英語のつもりでつかっていたら,相手に通じないことが多いからです。だから,相手の表情を見て,あっ,これは理解していないな,と思ったら,別の単語に言い換えるようなこともあります。
さて,沖縄には,ウチナーヤマトゥグチというのがあります。
「ウチナー」は沖縄,「ヤマトゥグチ」は,日本語です。ヤマトゥ は大和(やまと)でしょうね。沖縄では,本土を内地とか大和といいます。グチは,口で,言葉を意味します。
これは,琉球製日本語 のことです。つまり,沖縄で作られた日本語ですね。どのようにして作られるかというと,直訳が多い。その笑い話の古典的なものをひとつ。
漁師のことを沖縄方言では,ウミアッチャーと言います。
ウミは,もちろん海です。アッチャーというのは,「歩く人」です。
それで,「あなたのお父さんのお仕事は?」と尋ねられた具志堅用高が「海を歩く人」と答えたそうです。
さて,ぼくらにとっては,ウチナーヤマトゥグチは,和製英語と似たようなものです。
ウチナーヤマトゥグチをふだん使っていると,それが標準語だと思ってしまいます。英語だと思って,和製英語を使うようなものです。
だから,ウチナーヤマトゥグチを使うと,ヤマトゥンチュー(本土の人)には通じません。
「あれっ,ぼくは標準語を使っているのになあ~」と思ってしまいます。
具志堅用高のように笑われてしまいます。
ところで,
「先回り」は,ウチナーヤマトゥグチでしょうか。
沖縄方言に「サチマーイ」というのがあります。「先走り」のことです。
さき‐ばしり【先走り】
[名](スル)
1 先に立って走ること。他に先んじて物事をすること。「企画だけが―する」「気持ちだけが―する」
2 先のことを独り決めして、他人より先に行動すること。「気を回して―する」
[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]
サチマーイのサチは「先」,マーイは「回り」でしょう。だから,「先回り」になります。
先日,この言葉をネット上に書き込んでから,気になっています。
そして,「先回り」をネット上の辞書で調べると,出てきません。
しかし,ウェブ上ではたくさんヒットします。使われているのでしょうか。
なお,ぼくは方言もそれほどうまくないので,上の方言についても,正しいかどうか価確信はありません。
それは,今中学3年の理科で学びます。もちろんぼくも知っていました。
では,なぜか。
知らなかったです。どちらかと言えば,月ができたときにその速度などが決まり,自転周期と公転周期がなんらかの原因で一致したのだろうな,と思っていました。
さて,きのうテレビ「クローズアップ現代」を観ました。
6月25日(木)放送“かぐや”が解き明かした月の素顔
月探査機「かぐや」によっていろいろなことが分かったそうです。そして,月が均一でなく,重心が偏っていることも話していました。
ぼくらがいつも見ている表面(おもて)の方に重心があるのです。そこに密度の高い物質があるのでしょう。
スタジオゲスト : 渡部 潤一さん (国立天文台 准教授)が話していたことに,はっとしました。
「月は,おきあがりこぼしのようなもの」と話していたのです。
「おきあがりこぼし」は,みなさんごぞんじですね。
おきあがり‐こぼし【起(き)上(が)り小▽法師】
達磨(だるま)の形などに作った人形の底におもりをつけ、倒れてもすぐに起き上がるようにしたおもちゃ。不倒翁(ふとうおう)。おきゃがりこぼし。[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]
おきあがりこぼしは,重心が下にあります。だから,倒れても地球の引力によって,底の方が強く引かれるのです。だから,底を下にして,また立ち上がるのですね。
月も同じです。月の表面(おもて)に重心があります。月の表面が底になっている「おきあがりこぼし」になっているのです。
おもて面の方が重いものですから,地球の引力によって表面が強く引かれます。だから表面がいつも地球に向いているのです。
ぼくは今まで,中学生に,月の自転と公転の周期は同じだ。だから月は地球に同じ面だけを見せているのだ,と教えていました。ぼくもそう理解していたからです。
今後は,月の重心は偏っている。表面(おもてめん)の方に重心はある。だからそこのところが地球に引力に強く引き寄せられる。だからいつも同じ顔を見せるんだ。そのようにして公転しているから,自転の周期も同じになるんだ,月は「おきあがりこぼし」だ,と教えなければいけないな,と思っています。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=23453832&comment_count=710&comm_id=380962
すみません!急ぎなので過去スレを探す暇がなくてダブっていたらすみません
It started raining in this afternoon.
という英文で
なぜrainにingがつくのかという説明をしたいのですがなかなか伝わりません
あと1時間で授業が始まってしまいますお時間ある方、どうか協力していただけませんでしょうか!!後で必ずお返事はお返しします!宜しくお願いします
(それで,ぼくは次のような回答をしました)
ぼくは,動名詞を現在分詞と基本的には同じだよ,と教えています。
つまり,ing がつくことによって「~している(状態)」という意味になるんだということです。
ただし,現在分詞は,動詞の意味を持ちながら形容詞の役目をするもの。
動名詞は,動詞の意味を持ちながら名詞の役目をするもの,ということで違いがあります。
いずれにしても動詞そのものではないので,ほかに述語動詞が必要になることも説明します。
It started raining in this afternoon.
では,雨がふっている状態が始まった,ということになります。
なお,ぼくは現在分詞は進行分詞とした方がいいと思っています。
また,ingは「~している状態」ということが基本だとして教えていると,不定詞との意味の違いもまたよく理解できます。
セルフニュース 230号
( も く じ )
① 古堅中,中間テストの結果
② 音楽を聴きながら学習
③ 5月の皆出席
④ 「セルフ塾のブログ」もご覧下さい!
⑤ テスト対策学習に励む
⑥ 楽しく勉強できるテキスト
⑦ セルフ塾 予定表
りんごが3個ある,というとき。この3は,色,味,香りなどをすべて捨象したものです。3には,色も形も香りも味もありません。数は抽象的なものです。
羽仁進の本にあったことを思い出します。
自由学園物語 (-) 羽仁 進 (著) 講談社 (1984/07)
自由学園物語
(p49~p53)
その後,「図々しい馬」という話が続きます。すすむ少年の疑問がまた大きくなります。おもしろいのですが,とても,長くなったので,それは省略します。ぼくは初等部四年生の二学期まで、数学のもっとも初歩の、たとえば2 + 2 = 4というのが、よく理解できなかった。
自由学園では初等部から算数といわずに、数学といっていた。数学の授業では、ぼくはよく先生をこまらせた。
ぼくたちが、一年生に入ったはじめての日のことだった。
先生は、二に二を足せば四になるということを、いろいろなものを使って教えてくれた。
「先生はいま、鉛筆を二本、持っています」といって、左手に持った二本の鉛筆を示した。そして、左手はそのままにして、つぎに右手に別の二本の鉛筆を持ち、
「先生は、別の二本の鉛筆をもらいました。では、いま先生は、全部で何本の鉛筆を持っているでしょうか」
「はい、はい」と叫んで、何人かが手をあげた。先生はそのうちのー人を指名した。
「はい、四本です」
「よくできました。四本ですね」
ぼくは感心してしまった。しかし、すぐに疑問がわいてきた。
先生が手にしていた鉛筆は使いさしで、長い短いがあった。どうせ二本の鉛筆をもらうんなら、まだ削っていない新しいのがほしいと思った。
短いのが二本と、長いのが二本でも四本かな。短いのがまじった四本より、長いのが四本のほうがぼくはいいのだが、それでも同じ四本かな。いや、ちがぅんではないかな。
そんなことを考えているうちに、先生は、今度はノートを二冊ずつ使って、2+2=4を教えようとしはじめていた。
ぼくはまた考えてしまった。
全部使ってしまったノートだったら、ぼくほぼしくない。半分ぐらい使ってあるのも、あまりほしくない。どうせなら、全然使ってないノートがほしいな。それも、できるだけ厚いほうが、たくさん書けていいな。先生が持ってるノートは、もう使ってあるのかな。
ぼやぼやしているうちに、先生のノートを使った説明は、終わってしまった。
「このように、二と二を足すと、四になるんですよ」
一人の生徒が、いさましく手なあげて、質問した。
「人間でもそうですか」
この質問に、先生は大変、よろこんだ。
「そうです。こっちに二人立って、こっちにも二人立って、いっしょにすれば、一人、二人、三人、四人で、四になります」
それでも、そのときは、なんとなくわかったような気がして、数学ってえらいものなんだなあと感心した。
うちに帰って考えていると、またわからなくなってきた。考えれば考えるほど、わからなくなってしまった。夜、寝床で考えていたら、いつのまにか眠ってしまった。翌朝、目をさましたとき、また気になっていた。
その日も数学の時間があったので、先生が授業をはじめる前に、手をあげた。
「なんですか」と、先生はけげんな顔でいった。
「質問があります」
「質問って、今日はまだなにも教えていませんよ」
「昨日のことが聞きたいんです」
「昨日のことは、昨日のうちに聞いておかなければ駄目ですよ」
「でも、昨日はわかったと思ったんだけど、うちへ帰ったら、またわからなくなったんです」
そんなやりとりがあって、ぼくはなんとか質問を許された。
「リンゴ二つとリンゴ二つを足しても、四になりますか」と、ぼくはいった。
「もちろん、なりますよ」と、先生は答えた。
「ミカン二個にミカン二個を足しても、四になりますか」
「もちろん、なりますよ」
先生は、ちょっとうんざりしたような顔をした。
「リンゴがなった四と、ミカンがなった四は、どうやって見分けるんですか」
「見分ける? すすむ君はどうしてそんなことを聞くの?」
「ぼくはミカンは好きだけど、リンゴはあまり好きじゃないんです。同じ四なら、リンゴの四でなく、ミカンの四がほしいんです。だけど、その四をどうやって見分けたらいいかわからなくて・・・・。途中で印でもつけておくんですか」
先生は、しばらく、黙ってぼくを見つめていた。ぼくのものわかりのわるさには、あきれはてていたにちがいない。しかし、ぼくは真剣だった。四は同じだというが、リンゴとミカンでは大ちかいだと思った。ぼくにとっては、大問題だった。
「あのね、すすむ君、数学というのは、そういうものじゃないんですよ。そんな考え方をしたら、なにもわからなくなってしまいます」
ピシャリと、先生はいった。そういわれると、ぼくはそれ以上、なにもいえなかった。
数学って、えらくむずかしいものなんだなあと思った。
ぼくは,進少年は,いろいろな性質を捨象し,抽象した数というのをとらえることができなかったと思っています。
算数,数学というのは,抽象的な世界です。
点には,広さがない,という。線には幅がないという。
実際には,描くことができません。しかし,それを頭で描くことができなければいけません。
まず,りんごとみかん。これは具体物です。リンゴが3個,みかんが3個。この3というものには,もうにおいも形も色もありません。切り捨てられたのです。そういう切り捨てが数では行われなければなりません。
進少年は,それができなかった。
水道方式では,幼児期に一対一対応をします。
数えるのではなく,並べていってどちらが多いが確かめるのです。
子どもの絵を5人かきます。帽子の絵を6つ描きます。
そして,線で結んでどちらが多いか確かめます。
そういう一対一対応では,子どもというもの,帽子というものがどんなものなかかは関係なく,多いか少ないかの対応が問題になります。簡単なことですが,捨象(切り捨て)が行われています。
進少年もこのような段階から徐々に捨象(切り捨て)の概念をつかんでいけばよかったのです。
数というのは抽象的なものです。水道方式では,その間に半抽象的(半具体的)なタイルを設けるのです。
なんでもタイルで考えます。タイルには,味もにおいもありません。りんごの3個もタイル3個で表します。また人間3人もタイル3個で表します。
抽象的な3と,具体的なりんご3を,半抽象的なタイル3でつなぐのです。
完全に抽象的な数とはちがって,タイルだとまだ半分具体物です。それが具体物と抽象物との橋渡しをして,数を理解させることができるのです。
2年生,英語は過去の文です。
さて,Mくんが習いにやってきました。
was と書くべきところを saw と書いています。
ぼくは,「えっ,なぜこんなところにsawなんだよ」と思いました。
そして,改めてよくよく見てみると,
was と saw はスペルがまったく逆になっているのです。順序が逆で使われている文字はまったく同じです。60歳近くになるまで気づかなかったですね。
was も saw もMくんは習ったばかりです。まだ定着していないので,was と 書くつもりが saw と書いてしまったのでしょうね。
ぼくが「あっ,そうか」と言っただけで,Mくんは恥ずかしそうに書き直していました。。
ローレンツのインプリンティングは有名です。動物の生活史のある時期に、特定の物事がごく短時間で覚え込まれ、それが長時間持続する学習現象の一種です。
彼は、ハイイロガンの卵を人工孵化して、ガチョウに育てさせようとした。ガチョウが孵化させた雛は当然のようにガチョウの後について歩き、ガチョウを親と見なしているようにふるまった。ところが、一つの卵だけを自分の目の前で孵化させたところ、その雛は彼を追いかけるようになり、ガチョウのふところへ押し込んでも、他の雛がガチョウについて行くのに、その雛だけは彼を追ったという。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
ぼくも臨界期はあると思っています。だから,できれば最適の時期に行うようにしたいです。
ただ,次のようにも思っています。
ぼくが大学生のころだったか,井深大(著)「幼稚園では遅すぎる―人生は三歳までにつく」がベストセラーになりました。ぼくも読み,その気にもなりました。
それに対して,精神医で作家のなだいなだ氏が,何かの本で,「私は,『40歳からでも遅くない』という本を書こうと思う」というようなことを書いていました。 たぶん冗談で皮肉で書いたのでしょう。
ぼくもそう思います。
幼稚園では遅すぎると,あおるのではなく,やる気になったときが最適期だと思うのです。
結婚適齢期というのがありました。ぼくが若いころは24歳ごろが適齢期だと言われていたように思います。しかし,最近は結婚したくなったときが適齢期だと言われますね。30歳だろうが,40歳だろうが,結婚したくなったときにすればいいじゃないか,というところでしょう。出産を考えると確かに問題かもしれませんが,気持ちが大切です。
人生に,遅すぎる,ということはありません。英語を学びたいと本気で思ったときが最適期です。それが40歳であろうが,60歳であろうが,かまわない。
ぼくは生徒に言います。「何歳になっても自分がいいと思った道でやり直せばいいんだ。自分とは何かというのは何歳になっても課題だ。ぼくも今でもそうだ」と。
ぼくはもうすぐ60歳です。確かにいろいろと衰えてはきました。しかし,やりたいと思うことはいまからでも遅くないと思っています。
最初にも書きましたが,臨界期はありますし,できればその時期に教育でできればいいです。しかし,それを固定的に考えるのではなく,柔軟に考えるべきです。そうでないともう手遅れなのか,ということで何もしなくなります。
ぼくの舅は生前,この日を慰霊の日とすることに強く反対していました。
6月23日が慰霊の日となったのは,1945年6月23日に,牛島満司令官が自決したからです。日本軍としては,その日が一応最後になったのです。
しかし,それは沖縄住民にはまったく知らされていません。アメリカ軍にも。
沖縄住民にとってもアメリカ軍にとっても戦争は終わっていなかったのです。
だから,沖縄住民はその後も逃げまどい,そして多くの命が失われました。23日以後の方が死んだ人は多いのではないか,というのも聞いたことがあります。不確かな情報ですが。
自決するのなら,もう戦争は終わりだ,ということでアメリカ軍に降伏し,戦争を終わらせれば,沖縄住民はあれ以上死ななくてすんだはずなのです。
牛島司令官だけの責任ではないでしょう。沖縄での地上戦を引き延ばすことによって,本土決戦を遅らせるというのが日本軍の作戦だったのでしょう。しかし,そのために沖縄住民は大勢犠牲になったのです。
23日には,戦争が終わっていなかったのだから,その日を慰霊の日にするのは,おかしいではないか,というのです。
では,何日がいいか,
それは新たに議論して,みんなが納得する日を決めればいいのです。とにかく23日ではおかしい,と。
ぼくも舅の意見に賛成です。
「わかる」とは何か (岩波新書) (新書) 長尾 真 (著)
のp139から引用します。
「理解できた」と、「わかった!」という感覚とは、本質的にちがうところがある。
「理解できた」というのは、他人からくわしい説明をうけ、それを論理的にわかることであると考えられる。つまり、これまで知らなかった知識を与えられ、それが論理的に自分のもっている知識と整合的であるという場合に、理解できたということになる。
これに対して、「わかった!」というのは、どういう場合なのであろうか。それは、ミッシング・リンクのようなものだと考えられる。つまり、話題になっていることに関連した知識はほとんどもっている、しかしその話題がその知識によって解釈できない、という状態にあって、
そこで何かのヒントを得た結果、もっている知識によってその詰題が完全に解釈できるということかわかったとき、「わかった!」ということになる。その場合はただちにその解釈結果をわかった結果として答えることができるといる場合である。
「わかる」と「理解する」は,深く考えず,何となく同じように考えていましたが,確かに微妙なところで区別しているところがあります。
例えば,推理小説。
名探偵シャーロック・ホームズ,またはメルキュール・ポアロが,いろいろ情報を集める。そして,いろいろその情報をつなぎ合わせた結果,
「(犯人が)分かった!」と言います。その場合,「理解した」とは言わないです。
テスト。難しい問題が出題されました。それを解くための知識はちゃんと学んできました。しかし,同じような問題はやったことがありません。持っている知識を総動員して,あれこれ考えているうちに,解き方がひらめきます。 そういうときも「分かった」です。
ここで,「理解できた」というと,問題が意味するところはちゃんととらえることができた,しかし,答えを出すまでにいたらなかった,という場合にも使えます。
前に「行間を読む」について書きました。小説では書いていないことがあって,それは読者が推し量らなければなりません。そのときも「わかった」ですね。
つまり,いろいろ情報は与えられているが,与えられていないことがある。与えられた情報をもとに推し量って,与えられていないことが頭に浮かんだときに,「分かった」ということになるのでしょう。
では,「理解する」はどういうときか。
Aさんの頭の中に,Bさんに伝えたいことがある。それをAさんは言葉にし,また図に描いたりして,一所懸命にBさんに伝えようと努める。
そのうちに,Bさんは,Aさんの頭にあるイメージが自分の中にもできたように感じる。そういうときは,「あなたの言いたいこと,理解できたよ」と言いますね。ただ,この場合,「分かったよ」とも言えます。「分かる」は広い意味に使えるようです。
カウンセラーがクライエント(カウンセリングに訪れた人)の言うことをいろいろ聴いて,その気持ちが伝わったときも「理解する」,「共感する」ということでしょう。
先生が数学の解き方をいろいろ説明します。生徒はその先生の説明する解き方にそって筋を追います。それがスムーズに追えて,自分の頭の中でつながるとき,「理解できた」と言います。このときも「分かった」とも言えます。
このように「理解する」というのは,推し量るという作業はなくてもいいのです。
情報を見たり,聴いたりして,それと自分のこれまで蓄えた情報と照らし合わせて,違和感がなく,整合性があるときに「理解する」というのでしょう。
そのほかに,「知る」「発見する」というのもあります。
「知る」という場合は,ただ単に情報を得ることでしょう。
「理解する」の場合に必要だった,それまでの情報との整合性というのとは関係なくてもいいのでしょう。
「発見する」という場合は,ほかの人も知らなかったことを見つけるということでしょうか。「分かる」のもっと進んだもののような感じでしょうか。
英語では,「分かる」が find ですから,「見つける」という意味が強いのでしょう。
「理解する」は,understand 。
http://oyajinokai.kir.jp/tubuyaki/200503.html のページに
狩猟民族であるアングロサクソン族では、リーダーがその集団の決定権を持っていて、集団に属してそのリーダーの「下に立つ」ということは、リーダーの心をくみとり、理解することが要求される。これが、【 understand 】の語源とされているようです。
リーダーの気持ちを自分の頭の中にも持つことなのでしょう。
小学2年にある,たし算,引き算の文章問題では,次のようなパターンの問題があって,それらを具体物やタイルを用いて理解しながら解くのですね。
ぼくは何となく,この問題はたし算,この問題は引き算,というようにやってきました。しかし,このようにパターンに分けてやれば,理解もしやすいと感心したものです。
パターンが微妙に異なることを知って欲しいと思います。
子どもたちがこの微妙な違いを理解することはないかもしれませんが,このようないろいろなパターンにふれさせることにより,足し算,ひき算のイメージがより強くできあがるのではないでしょうか。
ただ単にパターンの反復というのではなく,このようなパターンがあることをきちんと理解しながら学習を進めると算数も力がつくと思っています。
(全体は?)
りんごが12個,みかんが25個あります。ぜんたいでは,何個になりますか。
(のこりは?)
りんごが25個あります。12個食べました。のこりは,何個になりますか。
(あとからきたのは?)
公園で子どもが9人遊んでいました。あとから何人かきたので全部で15人になりました。あとから来た子どもの数は何人でしょう。
(はじめにいたのは?)
公園で子どもが遊んでいました。あとから9人きたので全部で15人になりました。はじめにいた子どもの数は何人でしょう。
(つかったのは?)
たまごが10個あります。何個かつかったので4個のこりました。何個つかったでしょう。
(最初にあったのは?)
たまごがあります。6個つかったので4個のこりました。最初に何個あったでしょう。
(ちがいは?)
りんごが7個、みかんが4個あります。ちがいは何個でしょう。
(少ないのは?)
りんごが7個あります。みかんはりんごより4個少ないです。みかんは何個でしょう。
ぼくの書いたトピックの説明とコメント2つを載せます。間がないので,少し分かりにくいかもしれませんが。
「絶対学力」を読むと,糸山氏はパターン学習を批判していますね。
絶対学力―「9歳の壁」をどう突破していくか?
パターンを覚えるのではいけない,
わり算の章では,考えないでわり算の式を立てる,
のようなことを述べています。「絶対学力」には,まとまった部分がないので,十分に理解できません。
わり算の章では,考えないでわり算の式を作る,ということは確かにやっています。そういう意味では問題ではあります。
しかし,パターンをきちんと分類して,それを与え,そのパターンにには対応するという学習も必要ではないでしょうか。
例えば,野球でカーブを打つのが苦手な打者がいるとします。
ピッチャーにカーブだけを投げてもらい,それを打つコツをつかもうと練習します。
カーブを投げてくれ,と頼んでいるのですから,カーブが来るのは分かっています。しかし,カーブを数多く打つことで,カーブを打つコツが分かってきます。
そのコツがつかめたら,次は直球,シュートなども交えて投げてもらい,その中でカーブも打てるようにするというのはいい練習方法ではないでしょうか。
いつもいつも実践練習で,紅白試合だけをするよりも,弱点などに焦点をしぼった練習もすることが必要です。
これと同じように,こういう問題ではわり算を使うんだよ,というようなパターンに分類した問題を解かせるのはいい学習法だと思います。
そうですね。「絶対学力」にも
中学生になると小学生とは全くちがう速度になり,パターン学習もOKです。この時期には無理をしても,それが力になります。ただ,どうせ勉強するのなら誰でも効果的な方法がいいに決まっています。
とあります。
そこのところもよく理解できません。
なぜ,小学生ではだめで,中学生ではいいのか。
ぼくも入試前は,とにかく合格しなければいけない,という理由のために,本物の学力からはずれた,合格するための勉強をさせています。現実妥協ですね。
そういう意味なのか。
それとも,中学生と小学生では,思考の型がちがうからなのか。
臨界期についてはぼくも関心があります。
「絶対学力」には,ピアジェの理論が載っています。
思考の型が年齢によってちがってくる,というものです。それは一理あると思っています。
さて,その臨界期とパターン学習の関係は,たぶん糸山氏の仮説でしょうね。
ぼくは心理学を少しはかじっていますが,そういうのを読んだことがありません。
もし,そういうのがどこかではっきりしているのであれば,説明が欲しいところです。
それから,水道方式の遠山啓氏は,ピアジェの本を数冊,訳している方です。数学者でありながらピアジェの理論をかなり取り入れて水道方式を編み出しています。
その水道方式は,パターン学習だとぼくは思います。
糸山氏の言っているパターン学習がぼくの思っているパターン学習と同じかどうかはっきりしませんが。
いずれにしろ,水道方式は,パターンをきちんと分類し,それを系統だって子どもに示しています。遠山氏は,どのような順序で子どもに教えていったらいいのかをとても研究なさった方です。
だから,ピアジェの発達理論から,パターン学習否定というのは出てこないとぼくは思っています。
「絶対学力」には,「知的系統的教育」についての批判があります。批判の内容もはっきりしません。この「知的系統的教育」には,水道方式も入っているのでしょうか。
ぼくは,読むのが遅いです。そして,読みたい本がたくさんあります。いま,糸山氏の本をさらに読もうという気がほとんどありません。
すみませんが,至誠通天さんの分かる範囲で,説明していただければ,ありがたく思います。
上の子3人ともセルフっ子です。2人の姉さんはもう社会人。兄さんは大学生です。
姉さんが赤ちゃんをだっこしてセルフ塾に来たことがありますが,あの子がYさんだったのですね。
さて,理解力は悪くありません。いや,いいです。ちゃんと説明を読みとることも,ぼくらの話すことも理解できます。ある程度は自分で学習することができます。分数の計算は取りこぼしているようで,そこのところを習いによく来ました。
頭痛持ちのようで,休みがよくありました。それで,セルフ塾に通うのが習慣化せず,また休むという感じだったと思います。1年最後の数ヶ月はほとんど欠席状態でした。このまま辞めていくのだろうな,と思っていたのですが,2年も継続。がんばって学習に取り組みました。
しかし,課題を終えることができません。1日のノルマを半分ほどしかできません。
「きょうもできなかった」と悲痛な表情で帰っていきました。
「Yなら,できると思うんだけどなあ」と言うと
「がんばっているんだけどよ」と答えます。
不真面目な態度ではありません。
それで,Kyokoと相談して,課題を減らすことにしました。2割近く減らしました。もちろん,本人の意向も尋ねました。とてもよろこんでいました。
すると,ノルマのこなしが極端によくなったのです。毎日のように課題を終えるようになりました。それもだいぶ早い時間に。
「もう,終わったよ」と,にこにこしながら言って,帰っていきます。表情がとても明るくなりました。
以前は,通常の5割程度しかできなかったのです。それが,今では通常の8割できるのです。それも楽々と時間も余らせて。
課題を減らしたのは,大成功です。
どうせ,できないと思うと,やる気が出ないのですね。だから,ついゆっくりになってしまう。意識的にではないのでしょう。
しかし,これだけならできると思ったら,さっさと課題に取り組めるのです。
結局は「やる気」ですね。
セルフ塾には5ポイント休暇もあります。いまは課題をこなせるので,意識的にそれをねらっています。だから,さらにやる気につながっていきます。いま好循環に入っているYさんです。
「連立方程式が解けた!!!」
で紹介したK奈子さんです。
以前よりは数学もよくできるようになってきましいたが,まだまだ不安定です。正負の計算がまだ定着していません。
それでも学校は先に進みます。もうすぐ期末テスト。テスト範囲には,多項式の展開,因数分解がでます。
こういう数学が苦手な子にいいのは,一般的なひとつの方法を教えてすべて解けるようにすることです。
例えば,
(2x+3)(3x-5) を表を使った方法で解かせます。
K奈子さんのように数学が苦手な子は,すべてこの方法で解かせます。
平方の場合もそうです。
(2x+3)²
は,(2x+3)(2x+3) のことだから,先と同じ方法でやればいいんだよ。さあ,やってごらん,ですみます。平方公式を覚えさせるようなことはしません。
和と差の公式も覚えさせません。
(2x+3)(2x-3)も先と同じようにやりなさい,と言い,そしてこのように,6xと-6xで0になるから,xの項は書かなければいいんだよ。
因数分解も一般的なものからさせます。
x²+5x+6 のようなものです。表を使っての解き方を教えます。
平方公式も教えません。
x²+6x+9 もさっきと同じように解きなさい。と言い,
(x+3)(x+3)になったね。このように同じのが出てきたら,(x+3)² のようにひとつにまとめなければいけないよ,と注意します。
4x²-9 のような平方差も公式は覚えさせません。同じようにしなさい,でできます。
ただし,xの項がないから,xの項は0になるように工夫するんだよ,で通します。
共通項の因数分解は,少々変わっていますが,表を使ってやるということでできます。
こういう数学が苦手な子は,いやそれほど苦手でない子でも,式を見て,どの公式を使うのか判断するのに困難を感じます。だから,どれにでも使える一般的なのだけを教えて,すべてそれでさせればいいのです。そうすればテストでも点がとれるはずです。
その中である小学校の授業があり,すばらしいという感想を添えました。
集団で,227÷3のやり方を考えていました。
あれは本当にすばらしかったです。集団でする強みですね。
ぼくの塾はセルフラーニングです。だからあのような授業はできません。あの授業の足下にも及びませんが,ぼくのテキストである3けた÷1けたをここに紹介します。
ぼくは,最初はタイルを使います。だから,図が多くなります。ここに直接アップするのは,めんどうなので,PDFファイルにしました。この記事の一番下にアクセス方法を書いてあります。
一応,言葉だけで説明してみます。
タイルの説明から。
タイル1個で1,2個で2,7個で7
これはいいですね。
10個で10.それを1列に並べ,まとめます。境目をなくし,長い棒状のタイルができあがり。
1本で10,2本で20,3本で30・・・・
10本で100,10のタイルを10本横に並べて境をなくすと1枚の大きな正方形になりますね。それが1枚で100,2枚で200,・・・・
100のタイルが4枚で400,10のタイル3本で30,1のタイル7個で7
合計で437になります。
図がないと理解が難しいでしょう。
図を入れるのは,ぼくにとってめんどうだけど,ここで437のタイルの図は入れておきます。次の通りです。

さて,それを3つの皿にわけてみます。
437÷3をするのです。
100のタイルが4枚あります。それを3つに分ける。
1皿に1枚ずつ100のタイルがのりました。1枚はあまっています。
このあまった1枚(100)は10が10本あつまっているのです。それを10のタイルに分解します。
だからいま手元には,10のタイル13本と1のタイル7個があります。いいですか。
13本のタイルを3つに分けます。すると,4本で,1本余りますね。
それぞれの皿に100のタイルが1枚,10のタイルが4本入りました。つまり140のタイルが入っています。
のこった1本は1のタイルが10個集まったものです。もとの10個に分解します。
すると,手元には17個のタイルが残っています。
これを3つに分けます。
17÷3 5個と2個余り。
各皿には,100のタイルが1枚,10のタイルが4本,1のタイルが5個入りました。つまり145のタイルが入っています。そして,2個余りました。
このようにすると,
437÷3 は,145で,2あまりということがタイルの操作で分かります。
ぼくが塾で使っている「プログラム学習小学4年算数」の「3けた÷1けたのタイル算」のページを,PDFファイルにしました。
ご覧になりたい方は,次の「PDFファイル」をクリックしてください。
そして,次に「21 3けた÷1けたのタイル算」をクリックし.そして「ファイルを開く」をクリックしてください。
PDFファイル
学校で配布された中学一年のプリントに
Japanese ・・・ 国語
とありました。間違えているわけではありません。でも,このように覚えていいのかなあ,と思います。
Japanese は「日本の」ですね。そして「日本語」「日本人」という訳も。
時間割で,国語,数学,英語,・・・ などを英語にすると, 国語は,Japanese になります。これは正解です。
だから,「国語」は,Japanese そして,Japanese は「国語」になる,ということでしょう。
しかし,やはり Japanese は 「日本の」と覚えるべきです。
Japanese が「国語」になるのは,我々日本人にとってだけです。
アメリカ人にとっては,「国語」はもちろん English です。
フランス人にとっては,「国語」は French
和文英訳のときは,国語を Japanese としてもいいが,
英文和訳のとき Japanese を「国語」としてはやはりおかしいです。だれにとっての国語なのか,考えなければいけません。
このように考えると,やはり,中学生に Japanese を「国語」と教えてはいけないのではないか,と思います。
ぼくは,英語を学んでいる間は,意訳ではなく直訳がいいと思っています。確かにある場面では,Japanese を「国語」とした方が自然かもしれませんが,自然さよりも,中心の語義を大切にしたいです。不自然な日本語になってもいいから。
クローズアップ現代のサイトから転載します。
“10歳の壁”を乗り越えろ~考える力をどう育てるか~
「学力低下」問題をうけて去年、学習指導要領が改訂。算数・理科は前倒しで今年から新しいカリキュラムへの移行が始まった。授業時間も増えたが、それ以上に学習内容が全体に増加、前倒しされる。
そうした中、教育現場で注目されているのが「小4の壁」という現象だ。この20年間、授業時間が削減され、学習内容も易しくなっているにも関わらず、勉強についていけなくなる児童が、9歳から10歳、つまり小学4年前後に急激に増えているのだ。
原因の一つと考えられるのが「考える力」の低下。算数の場合、計算は得意でも、文章題になるとできないケースが目立つ。背景として、ドリルに依存した学習スタイルや、家庭での会話の減少によるコミュニケーション能力の遅れなどが指摘されている。
各地で模索されている対策も紹介しつつ、「考える力」をどう育てればいいのかを考える。(NO.2753)
スタジオゲスト : 佐藤 学さん (東京大学教授)
よかったです。
ぼくは,正直言って,小4の壁を感じません。
個人を見ているからなのでしょうか。
Aくんは,ここでつまずいている,Bさんはスムーズに進んだ,Cくんも同じようにつまずくから,ここは教え方をもっと工夫したほうがいいな,などと考えます。
だから,多くの子がつまずくことはあっても,それを壁と考えるより,どのように教えた方がいいのかな,と考えます。大きな壁を考えないで,小さな壁というかつまずきを見つめるようにしています。
考える子がいます,また,考えない子がいます。
考えるようにするには,どうすればいいのか。
もっと突き放して自分で考えるようにしよう,などなど
さて,絶対学力の糸山氏が出演し,百ます計算の批判をしていました。
速くするために,生徒は,まあインチキなやり方をしているというのです。0の行を写し,1の行はそれに1を加える・・・といったように。
ぼくは,感心しました。このような工夫のできる子ってすごいじゃないか,って。計算力はつかないでしょうが,こういう子は考える力がありますね。
次に絵を描いて文章問題を解く授業をやっていまいた。すばらしい,の一言です。このやり方はたぶん糸山氏のすすめているやり方ですね。
本「絶対学力」を読んで,いいな,とは思っていましたが,テレビで見て,すばらしいと思いました。
少しずれますが,糸山氏についてのぼくの感想です。
最初の本は「絶対学力」ですね。たぶん。ぼくはこの本しか読んでいません。
この本では,百ます計算の批判,教えることの批判が前面に出ています。それがぼくに言わせると,少しずれている。それについては,これまで書きました。
しかし,この絵に描く方法はすばらしいです。他を批判するよりもその方法のすばらしさを前面に押し出して主張した方がいいと思いますね。「絶対学力」の後にもいろいろ書いているようなので,それではそうしているかもしれませんが。
この方法は,確かに考える力をつけるやり方だと思います。ぼくも図に描くことを生徒に言いますが,これほどは徹底していません。
このような方法でやっていることろがあることはとてもいい勉強になりました。
それから,集団で教えあいながら算数の勉強をするところが出ていましたが,これもすばらしかったです。
三桁÷一桁の計算の仕方を考える授業です。いろいろ考えたあとで,一人のできる子(Aくんとします)が,筆算で答えを出してします。正しいやり方です。
それに対して,別の子が,なぜここでこの7を下ろすのかわからない,など疑問を発します。Aくんは考えるのですが,なぜなのか,説明できない。
そこで,先生の準備したキャラメルを使ってみんなでやり方を考える。すると,計算の方法が理解できる,というものです。
テレビドラマかと思うくらいよくできていました。子どもにはそういう力があるのですね。感心しました。
ぼくは,自分の学習塾には自分のやり方が一応確立しているので,上のやり方をすぐに取り入れることはできないのですが,とてもいい勉強になったと思っています。
それで,きのうは理科,国語の勉強をしました。
2年生,理科のテスト範囲は電気。
オームの法則を中心に出題されるはずです。それで,昨日は最終のつめ。
オームの法則も分かり,解くことができます。また,直列では電流がどこでも等しく,各抵抗での電圧の和が電源の電圧に等しいこと,並列では電圧が等しいことなども理解できました。
しかし,それを総合的に解くことができません。
「並列の図を示されて,電熱線Aでの抵抗の大きさを求めなさい」という問題が出たら,抵抗をすぐに求めようとするのです。
ぼくは,すぐに答えを出そうとするのではなく,分かる値から一つひとつ求めていきなさい,と指示を出します。
それでも,できないので,各抵抗,そして電源のところに,①( A),②( V),③( Ω)とすべて書き加えて,「何番が分かる?」と,すべての値を問題にして生徒に示しました。
すると,「あっ,並列だから,電圧が等しい。だから②が分かるよ」
などと言いながら,( )を埋めていきました。そして,
「では,問題は何だったけ」と改めて問うと,もう答えは出ているという感じでうまくいきました。
山鳥 重 (著)「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学 (ちくま新書) (新書)
を読みました。
まだよく分かりません。だから,この記事は書いているぼく自身がよく分からないままに書いています。
次のところはおもしろかったです。
江戸時代の笑い話に「風が吹くと桶屋が儲かる」というものがあります。
なぜ風が吹くと桶屋が儲かるのでしょうか?
(ぼくはこの小咄,よく知っていますが,念のために著者による説明を記しておきます)
風が吹くと、砂ぼこりが立ちます。
砂ぼこりが立つとその砂が目に飛び込みます。
砂が目に入ると目が兄えなくなります。
一時的に目をやられるだけでなく、永久に目をやられてしまいます。
目が見えなくなると、ほかに生計が立てられなくなるので、三味線を弾いて街を流すことになります。
三味線弾きが増えると、当然三味線の需要が増えます。
三味線の需要が増えると、三味線に使う猫の皮の需要も増えます。
猫の皮の需要が増えるということは、猫取りが増えて、町にいる猫の数が減ります。
町から猫が減ると、猫の好物になっていた鼠が増えます。
鼠が増えると、桶がガリガリとかじられる機会が増えます。
桶がかじられると、新しい桶を作らなければなりません。桶屋へ桶の注文が殺到します。
桶屋は有卦に入り、笑いが止まらなくなります。
もうおわかりでしょうか。風が吹くと、桶屋が儲かるのです。これはもちろん冗談で、おたがい無関係な現象をもっともらしく関係づける滑槽さを笑ったものですが、無関係とはいえ、理屈の上ではちゃんとまじめに因果関係が作り上げられています。このように、それだけではわからない現象が、その由来にまで遡って説明されると,ああなるほどわかったと感じられます。
次に著者は,ダーウィンの進化論の説明に入ります。なぜどんな風にして人間は進化してきたのか,です。その説明はみなさんも知っていると思いますので,ここでは省きます。
その説明のあと,著者は次のように書いています。
でも考えの流れは風桶論と同じパターンですよね。風桶論との違いは、風桶は言葉の遊びで、進化論はダーウィン以来、多くの生物学者が検証を続けている、科学的な問題だということです。言葉遊びと、生物学最大の思想との間に存在する価値的な差は巨大ですが、心の働き同じわかり方です。説明がうまくつながれば、「わかった」と感じられるのです。
「風桶論」と「進化論」について,「分かった」というときの心は同じだというのですね。説明がつながっていれば「分かった」と感じるのだと。
「風桶論」は,中学生に話しても,これはうそでしょう,という。
確かに一応筋は通っているが,事実とは異なるだろう,というのです。そいて,風が吹いただけで,目の悪い人がそんなに出てくるはずないだろう,と反論します。
でも,何となく筋は通っているので,こじつけであっても「分かった」気になります。
ぼくは,これまで「わかる」「理解する」ということを誤解していたのではないか,と思います。
つまり,ぼくはこれまで「分かったこと」は,真実だ,と思っていたところがあります。
もちろん,少し考えれば,「分かった」と思っても,間違えていることがよくあるのです。
例えば,三角形の合同の証明で,
ある生徒は,いろいろ書いた後で,「3つの角がそれぞれ等しいので・・・」と導くことがあります。
その生徒は,「分かったぞ」ということで,その証明を書いたのでしょうが,明らかに間違いです。「3つの角が等しい」という合同条件なんてないのです。
「分かる」ためには,分かるための土台が必要です。その一つが「記憶」です。しかし,その記憶が間違えていたら,分かったつもりでも,間違えた分かり方をしているのです。
三角形の合同条件をきちんと記憶していないと,「分かった」と思ってもそれは間違えることがあるのです。
「~が分かった」と言った段階では,仮説にすぎません。それが正しいかどうかは,その後にいろいろと実験などをして,確かめるということが必要になります。
これまでぼくは,ただの暗記よりも「分かる」「理解する」が大切だと主張してきました。それ自体はいまでも間違えていないと思っています。
「分からない」ということは,まだまだ自分の頭の中で,その説明の筋が追えないわけです。そういうときは,記憶もきちんとできません。だから,どこがどう分からないのかをはっきりさせて,その筋が通らないところをつなげる必要があります。それは何なのかをきちんとさせる努力をして,筋を通して,「分かる」という状態にまで持って来ないといけないのです。

いま北海道をのぞくすべての地域で梅雨ですね。沖縄もそうです。きのうは,朝からだいぶ降りました。沖縄では梅雨でもしとしとではなく激しい雨が降ります。雷もまじっていました。
中学生の部が始まるということで,梅子(犬)を外に出すために玄関から外に出ると,東の空にあざやかな,本当にあざやかな虹が出ていました。外側に薄くもうひとつの虹。二重になっています。
「虹だよ!!」と叫ぶと,多くの生徒が出てきて,見上げていました。
これは写真ものだな,と思ってカメラをとってくると,
「M和に撮させて!」というので,M和さんに撮してもらいました。
見た目ほどはあざやかではないですね。プロはこれを見た目以上にきれいに撮るのでしょう。

写真は,イヤホーンで音楽を聴きながら学習をしている生徒です。
セルフ塾では,学習時間中に音楽を聴くことができます。
ただし,クラシックや軽音楽など,ようするに歌の入らないものです。カラオケもだめです。
BGMとして音楽を流しながら勉強する人は少なくないですね。それと同じです。音楽を聴きながらだと能率もよくなるそうです。
ただし,歌の入ったのはだめです。それは言葉を使うからです。
学習は基本的に言葉で行われます。言語脳が使われるのですね。そこに,歌を口ずさみながらということになると,学習を干渉してしまいます。歌が学習を邪魔するのです。だから,歌入りはだめ。
ラジオでディスクジョッキーのおしゃべりを聴きながらは絶対にいけません。言葉を使わない作業をしているときにはそういうのも悪くありません。ぼくも紙をつづるときなどは,歌入りの音楽を流していっしょに歌いながら作業をします。
セルフ塾で音楽を聴きながら学習をするのには,まだ利点があります。不要なことが聞こえなくなり,学習に集中できるのです。友だちのおしゃべりが聞こえないとそれに引き込まれることもありません。
ただ,必要なことも聞き逃したりしないか,少々心配でもあります。いまのところはそういうことはありませんが。
以前,おしゃべりのひどい生徒に,ヘッドホンで音楽を聴かせながら学習させたことがあります。おしゃべりが極端に少なくなりました。
そういう効果もあるのです。
漢字能力検定協会のサイトにある問題例から転載しました。
(四) 漢字検定には,次のような熟語の構成を答えさせるのが,あります。
熟語の構成のしかたには,次のようなものがある。
ア 同じような意味の漢字を重ねたもの (岩石)
イ 反対または対応の意味を表す字を重ねたもの (高低)
ウ 上の字が下の字を修飾しているもの (洋画)
エ 下の字が上の字の目的語・補語になっているもの (着席)
オ 主語と述語の関係にあるもの(国立)
次の熟語はどれにあたるか,記号マークせよ。
1,油脂 2,感涙 3,繁栄 4,到達 5,抜群
6,公営 7,是非 8,越冬 9,独占 10,優劣
こういうのは,漢字一つひとつの意味が分からないと解けません。
生徒が習いに来たときは,この字の訓読みは何? と問います。
油脂 だと,油は「あぶら」,脂も「あぶら」 すると,同じような意味の漢字だと分かりますね。
前回は,漢字の基本語義(コア)について書きましたが,訓読みは基本語義だと思ってたぶん間違いないでしょう。訓読みとコアがダブルことになります。
往復 は,ぼくらがとてもよく使う熟語です。
いまPCで「いく」を打つと「往く」と出てきますが,旺文社の小学漢字新辞典には,
「往」には,音読みの「オウ」しかありません。訓読みはありません。意味は「歩いて行く」です。
「復」も音読みだけで「フク」です。意味は「行った道を重ねて帰ってくる」です。
だから,往復で,歩いて行って,その道を帰ってくる,という意味になります。
「往」と「復」は反対の意味を表す字が重なって出来た熟語ということです。それが分かるには,漢字の意味が分からなければならない,ということは理解してもらえたと思います。
だから,ぼくは漢字の練習には,その後の基本語義を学ぶことをどうしても入れなければいけないと思います。
ついでに,いま塾では
清風堂書店 岸本裕史監修/桝谷雄三編集の「漢字習熟プリント」{小学1~6年生(全6巻)、手書き、B4判、税込価格/各1,365円(本体価格1,300円+税)}
を使っています。とてもいいプリントです。熟語,短文をそれで利用しています。ただ,熟語の意味がないのです。熟語は漢字検定にある熟語の構成に従っています。それが分かるようなちょっとした意味を付け加えてくれればと思います。
例えば
「往復」:「行って,その道を帰ってくる」 のように。
国語
「セルフ塾のブログ」の記事をまとめて、キンドルで出版しました。
英単語には,ぼくの大好きな田中茂範氏によるコア理論があります。また,政村氏の英語基本語義辞典には,単語の中心的な意味があきらかにされています。
コア(コアイメージ)とは
たとえば,make は,単に「作る」と覚えるのではなく,
「(材料に手を加えて)何かを作る」と覚えます。これがコアです。
She makes me happy. は「彼女が私という材料にに手を加えて,私をハッピーな状態に作った」と考えればいいのです。
ぼくにとっては,make 「~を・・・にする」よりずっと理解しやすいです。ケーキを作るのと同じイメージで理解できます。たぶん,ネイティブの人は同じイメージを持っているのではないでしょうか。
さて,漢字にもコアになる意味があるはずです。
ぼくは,漢字辞典を数多く見てきたわけではないのですが,ぼくの知る限り,コアを前面に出した辞典はありません。あってもいいのではないかと思います。
セルフ塾には,漢字辞典を数種類おいてあります。ぼくは小中学生に教えるときは,旺文社の「小学漢字新辞典」を使います。「小学」とありますが,中学レベルも入っています。いい辞典ではあります。
旺文社小学漢字新辞典
それには,意味はあります。しかし,基本語義としてではなく,羅列的です。
「行」
(意味)
(一)いく。ゆく。歩いてゆく。(例)行進,通行
(二)列。ならんだもの。(例)行列
(三)もち歩く。旅をする。(例)行脚
と,(七)まであります。
もちろん,漢字辞典にそれは必要です。しかし,これをずべて覚えるわけにはいきません。中心になる語義(コア)を覚えて,あとは派生したものとして理解することがいいと思います。
ただし,まったく書かれていないわけではありません。
この辞典にはそれぞれの漢字の「なりたち」が書かれています。
「行」
(なりたち)(象形文字)十字路の形をえがいた字。通り,道のいみ。それから,ゆく,おこなうのいみとなった。
とあります。
だから,中心になる語義は,「ゆく,おこなう」ということでしょうか。
それをもっと前面に出して欲しいのです。
(基本語義)ゆく,おこなう
のように。
ぼくの塾では,小学生に「小学漢字1006字の正しい書き方―書き順・音読み・訓読みがすぐわかる」(旺文社)を持たせています。
小学漢字1006字の正しい書き方―書き順・音読み・訓読みがすぐわかる (Obunsha study bear)
とてもいい本です。ただ,漢字の意味がまったくありません。漢字は,読み方,書き方といっしょに意味も覚えるべきだと思います。基本語義は一行でいいのです。それを付け加えてくれればいいのですが。
漢字を学ぶ順序がいまは系統的になっていないです。
英語教育についてとだいぶ似ているように感じます。英語教育は最近会話中心になっています。話せる英語ということでしょう。だから,使用頻度の高いのを教えているのでしょうね。
How are you? Can I help you? Here you are. Thank you.
確かにこれらの表現は便利です。でも,応用がきかない。発展性がないです。最初にこれを学ぶということはとにかく意味も分からずに,覚えなさいということになるからです。
漢字もそうです。とにかく覚えなさい,ということで,どんどん出てきます。応用がきかない。
ぼくは漢字が大の苦手でした。覚えるのが苦手だったのです。理屈もなく,ただただ覚えるのがおもしろくなかったのでしょう。
漢字というのはそういうものだろうと思っていました。もちろん,象形文字というのは知っていました。そのときは,漢字もおもしろいなあと思ったものです。
そして,塾で国語も教えるようになりました。
民衆社の「国語だいすき」を使っています。それを教えていると,漢字ってけっこうおもしろいじゃないか,と思いますね。
例えば,「交」の音読み「コウ」ですね。
学校の「校」の音読みも「コウ」
効果の「効」も「コウ」
郊外の「郊」も「コウ」
絞殺の「絞」も「コウ」 です。
「交」がついていると音読みは「コウ」になるのです。
そういうのを「音符」といいいます。
辞書には,音符:漢字の構成で、音を表す部分。「胴」「銅」の「同」など。
こういうのを教えながら漢字も教えると,発展性があります。ぼくはこのことを知ったのは,塾をするようになったからです。ただ,なんとなく「交」があると「コウ」と読むと知っていたようには思いますが,本当はどうだったのか。
部首が意味を示すというのは,学んだように思います。いま,生徒に「貝」がつくとお金に関係があるんだよ,などと話すと,「へぇ~」と感心します。
購,買,貯,預,
売は「賣」だったんですね。
などなど。
そういうふうに意味を表す部分を「意符」というそうです。
漢字の成り立ちはおもしろいです。だから,こういう漢字の中にある法則性を教える,って大切なことだし,そうすると覚えるのもまだ楽しいんじゃないかと思いますね。
きょうは,叔母の85歳の生年祝い(トゥシビースージ)でした。

本土のことはよく知らないのですが,沖縄には,干支(えと)がだいぶ残っています。お年寄りは,
何歳か尋ねるのではなく,
「何年(なにどし)生まれですか?(イャーヤ,ヌーヌウマリガ)」と尋ねます。
そういうとき,ぼくは「辰年です(タチヤイビーン)」と答えます。
干支は12年ごとにまわってきますね。
それで,その干支ごとの生年にお祝いをするのです。
つまり,数えで13歳、25歳、37歳、49歳、61歳、73歳、85歳、97歳にはお祝いをします。それが生年祝い(トゥシビースージ)です。
61歳は,還暦になりますね。それは本土でも祝っているようです。
さて,きょうはおばの85歳のお祝いです。ロワジールホテルで行いました。
叔母は,父の妹で,ぼくが子どものころは同居していました。ぼくの両親は共働きだったので,昼食などは叔母が作ってくれました。その叔母は料理が得意で,おいしかったです。
そのお祝いのために,いとこ,その子どもたちなどで,急遽バンドを結成,演奏をしました。ぼくはサイドギターで参加。
兄がヴォーカル,甥がリードギター,別の甥がアコースティックギター,いとこがヴァイオリン,その息子がベースギター,甥の従兄弟がドラムを担当しました。
2週間ほど前に急に決まり,練習も十分にできなかったのですが,なんとか楽しく演奏することができました。間違いもありましたが,それはご愛敬で,笑ってすましましょう。
演奏曲は,ダイヤモンドヘッド,旅人よ,亜麻色の髪の乙女,明日があるさ,小山の杉の子の5曲。
ぼくが小学生のときには,いとこの家がすぐ近所で,そこで「杉の子会」というのを作り,いっしょにいろいろ楽しくやっていました。そのときのテーマ曲が「小山の杉の子」だったのです。
ぼくがそれを「こもじ」と読むと,「おかしい,『しょうもじ』じゃないの?」とある中学2年の女の子が言いました。これまでも何度もあります。
ぼくのが間違えているのかなあ,と思って,辞書を引いたら,やはり「こもじ」でした。「しょうもじ(小文字)」はありません。
ネットで調べても,やはり「小文字」は,「こもじ」です。
数人の子に「小文字」を読ませると,「しょうもじ」が多いですね。
ぼくの地域の子どもたちだけでしょうか。
ある先生が「しょうもじ」と教えているのでしょうか。
もちろん,「こもじ」と読もうが,「しょうもじ」と読もうが,英語の力には影響しません。
「大文字」を「だいもじ」と読む子はいません。『大文字』は「おおもじ」です。全員。なぜ,『小文字』を「しょうもじ」と読むのでしょうか。
「小(しょう)」は,音読みです。それに対して「大(おお)」は訓読み。だから,
訓読み同士で,「大文字(おおもじ)」に対しては「小文字(こもじ)」です。
「大(だい)」に対しては「小(しょう)」でしょうね。
「大型(おおがた)」の反対は「小型(こがた)」
「大口(おおぐち)」←→「小口(こぐち)」
「大声(おおごえ)」←→「小声(こごえ)」
「大味(おおあじ)」←→「小味(こあじ)」
「大物(おおもの)」←→「小物(こもの)」
「大判(おおばん)」←→「小判(こばん)」
「大潮(おおしお)」←→「小潮(こしお)」
「大柄(おおがら)」←→「小柄(こがら)」
「大粒(おおつぶ)」←→「小粒(こつぶ)」
それに対し
「大差(たいさ)」の反対は「小差(しょうさ)」
「大食(たいしょく)」←→「小食(しょうしょく)」
「大国(たいこく)」←→「小国(しょうこく)」
「大脳(だいのう)」←→「小脳(しょうのう)」
「大事(だいじ)」←→「小事(しょうじ)」
「大腸(だいちょう)」←→「小腸(しょうちょう)」
「大教室(だいきょうしつ)」←→「小教室(しょうきょうしつ)」
小を大にすれば反対語になるかと言えば,そうでもないようです。
小人(こびと)に対して大人(おおびと)とはふつう言わないです。大男,大女と言う。
小言(こごと)の反対は大言(おおごと)ではない。
大風呂敷を広げる,大ほら吹き,大もうけ,小心,小冊子,
こういうのは,大を小にすれば反対になるわけでもないようです。
大人数は(おおにんずう)ですね。「だいにんずう」も聞いたことがありますが,辞書にはありません。
大人数(おおにんずう)の反対は,小人数(こにんずう)です。
ぼくは,少人数(しょうにんずう)はよく使いますが,小人数(こにんずう)は使わないですね。
大人数の反対は少人数だと思っていたが,
たぶん,大人数(おおにんずう)の反対は小人数(こにんずう)
多人数(たにんずう)の反対が少人数(しょうにんずう)なんでしょう。
小文字の読み方から,漢字に弱いぼくがいろいろ考えてみました。