知人からメールが届きました。転送すべきメールです。その中に「旧正月の大晦日(13日)、」とありました。
僕は大晦日というのは12月 31日なのだから、彼が31日を間違えて13日としたと思ってしまいました。それで、13日を31日に変えて,転送しました。
でも、落ち着いて考えてみると陰暦には 31日はないはずです。月の公転周期は29日あまりです。だから、陰暦では せいぜい30日までしかないはずです。陰暦について詳しくは知らないのですが、たぶんそうです。
それでカレンダーを見てみました。旧暦の大晦日は12月30日でした。
彼は大みそかということで13日としたのではなかったのです。
今年の旧暦の大晦日は 3月13日。その13日だったのです。
僕のいらのおせっかいでした。訂正、おわびメールを送りました。
ぼく自身、自分をとりまいている巨大な宇宙のことを考えれば、眩暈(めまい)を覚えずにはいられない。
宇宙とは何なのか、ぼくは知らない。宇宙の始まりには何があったのか。なぜ物質というものが存在し、恒星と惑星ができ、生命が誕生したのか。ここにいて、宇宙を眺め回している「ぼく」とは何なのか。
ぼくは何も知らない。だからこそ、畏れを覚える。自分の理解力を超えた存在・・・遥かな高みにあるのか、地の果てにあるのかはわからないが、永遠に触れることのできない何かが、どこかに存在していることを、ぼくは感じる。
それをいま、「超越的存在」と呼んでおこう。
だがそれは、少なくともぼくにとっては、宗教画に描かれたイエスや、仏像として表現された仏陀のイメージとは大きく隔たったものだ。あまりにも遠く、あまりにも巨大で、人間の叡智や認識能力の限界を超えたもの・・・1目で見ることも、心の中に想い浮かべることもできない、けっして具体的なイメージではとらえることのできない何ものか・・・それが「超越的存在」ではないだろうか。
イエスも、釈迦も、一人の生身の人間として、その「超越的存在」の前に立たされていた。
ぼくは、イエスの前に跪(ひざまず)こうとは思わない。釈迦の前に平伏すつもりもない。 ただ彼らと同じように、(不遜な言い万かもしれないが)彼らと肩を並べて、「超越的存在」の前に佇(たたず)んでいたいと思う。
それゆえ、われわれはよく考えるようにつとめよう。
とパスカルは言った。ぼくは、せいいつばいに「考え」たつもりだ。その考えたことのすべてを、この本の中に書き記した。イエスと釈迦は、生まれた年代も違うし、置かれた状況も異なっている。
けれども、生身の人間が、可能な限りの意志と洞察力をもって、「超越的存在」と対決したという点では、二人の人生の軌跡は見事なほどに重なっている。イエスも釈迦も、強い意志の力と深い洞察力をもった、並はずれた人間であったことは間違いない。しかし彼らが「超越的存在」そのものであったわけではない。彼らは生身の人間だった。
書き加えることはありません。「そうだ」と思います。
また好きな作家ができてしまいました。読みたい本が多くなります。