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セルフ塾は閉めましたが、そのままの名前でブログを続けます。独学,独習。教わるより,学ぶを重視。 セルフラーニングの方法,英語,数学などの情報を発信するつもりです。

理解力の低い生徒は厳しい先生
 厳しい先生がいます。また甘い先生がいます。子どもたちは、甘い先生の方が好きです。甘い先生から教わる方が楽だからです。

 しかし、よく考えてみましょう。甘い先生だと現状維持でいいということになってしまい、力が伸びません。間違えたことをしても、それを見逃してしまえば、それはそのままです。一方、厳しい先生だと子どもたちの力は伸びていきます。厳しく指導されれば、それにこたえるために、いろいろ工夫し、自分を伸ばしていかなければならないのです。

 さて、理解力のある生徒がいます。一方、理解力の劣る生徒がいます。理解力のある生徒は、その生徒を教える教師にとっては甘い先生のようなものです。理解力のある生徒を教えるのはとても楽です。何の工夫もいりません。教科書通りの簡単な解き方を説明し、そして問題を与えさえすれば、あとは自分で伸びていきます。

 一方、理解力の劣る生徒は私たち教える側にとっては厳しい先生です。教科書に書いてあるような説明をしていたのでは理解してくれません。それで、理解させようといろいろ説明のしかたを工夫します。いろいろ考えなければいけません。

 理解力の低い生徒はほんとうに小さなことでつまずいてしまいます。私たちには気づかないような小さな石につまずくのです。その生徒がつまずいて初めてここに石があったのかと気づかされます。そのつまずいた小石を見て、どのようにすればその子はそれを乗り越えることができるのか、どのようにすればそれを避けて通ることができるのか、それは私たち教える側がいろいろ工夫をして考えてあげなければいけません。

 理解力のある生徒だとそういう小石があることさえ気づかないで、そのまますたすたと歩み進むでしょう。

 こんな小さなことにつまずくのは、この子の理解力が劣るせいだ、自分の教え方が悪いのではないと居直っていては教える力は伸びません。理解力のないのはその子の責任ではないのです。

 理解力の劣る子でも理解できるように教えてこそプロの教師なのです。いろいろ工夫すれば教え方は見つかるものです。工夫した教え方で子どもが理解してくれたときの喜びはまた格別なものです。

 理解力の劣る生徒を教えるということは大変なこと、厳しいことではありますが、私たち教える側の力をのばしてくれるのです。だから、理解力の劣る生徒は僕にとって、とても厳しい先生なのです。


 今朝の琉球新報「論壇」に掲載されました。

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音読みと訓読み

 「音読みと訓読み」について調べていたら、見事に説明してあるページが見つかったので、転載します。

http://qanda.rakuten.ne.jp/qa2782795.html

 「山」という字が中国から入ってきたとき、これを中国読みに「サン」「セン」と読んだのが、訓です。なんだこれは、日本では「ヤマ」のことだぜ、だったら「ヤマ」とも読もうよ。それで「ヤマ」が「音」として残った。日本人は両方の読み方を選択したのですね。 

 さて、中国から漢字が入ってくるとき、同じ時代に、同じ土地から、どっと入ってきたのなら問題はない。しかし入ってきた時代が違うと、そのときの発音が優勢になってしまいます。中国の出処場所も違うと、音が違ってくるのです。

 漢字は南北朝から、隋、唐の時代に主に入ってきましたが、中でも唐時代が一番多い。この唐代の言葉を「漢音」といいました。日(ジツ)、人(ジン)、文(ブン)、行(コウ)と読んだのが漢音です。

 それに対して、呉音と言うのは、漢音が入る前に、長い年月をかけて呉地方を中心とする広い地域から延々と入ってきたもので、出処も経路もまちまちで、漢音ほどまとまりがありません。呉音では、先の4つの漢字は、ニチ、ニン、モン、ギョウ、です。漢音が硬いのに比べ、呉音はやわらかい。 

 「老若男女」は「ロウジャクダンジョ」とも「ロウニャクナンニョ」とも読めるわけですね。

 そしてさらに、わが国の鎌倉・室町時代になると、今度は「唐音」が入ってきます。これは「唐」の時代ではなく、もっと後の「南宋、元、明」のころの漢字です。

 いずれにしても、こうした解説をしていると長くなって困りますが、音と訓の違いをもっと調べたら面白いです。朝刊は「チョウカン」で正解ですが「夕刊」は本当は「セキカン」でないといけないわけですね。一朝一夕(イッチョウイッセキ)と読むのですから。



なぜ、比較級にはerとmoreがあるのか
 昨日は英語の比較級が語尾にerをつける場合と語の初めにmoreがつく場合があることについて書きました。

 なぜこんな二つのやり方があるのだろう。一つに統一すれば簡単でいいのに、とわたくしども非英語ネイティブには思います。

 しかし、漢字を見ると日本語も似たようなもの、いやもっと複雑なものです。

 「明」という字を見てみましょう。

 「明(メイ)暗」、「明(ミョウ)朝」、「明(ミン)朝体」というように、「メイ」と読んだり、「ミョウ」「ミン」と読んだりします。

 そのほか、訓読みだと「明(あか)るい」「明(あ)ける」「明(あき)らか」等の読み方も出てきます。

 一つの漢字でいろいろ読み方ができるのですから、場合場合によって読みわけないといけません。英語の比較級に比べてとてもとても複雑なので文句も言えません。

 訓読みはもともと日本にあった発音です。

くん‐どく【訓読】
1 漢字を、その意味にあたる日本語の読み方で読むこと。「花」を「はな」、「草」を「くさ」と読む類。くんよみ。⇔音読。

おんどく0 【音読】
[2] 漢字を字音で読むこと。おんよみ。



 音読みが、なぜそのように違う読み方になったのかというと、輸入した時代が異なるからだそうです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E8%AA%AD%E3%81%BF

音読みには呉音・漢音・唐音(宋音・唐宋音)・慣用音などがあり、それぞれが同じ漢字をちがったように発音する。
 たとえば、「明」という漢字を呉音では「ミョウ」と、漢音では「メイ」と、唐音では「ミン」と読む。


 要するに呉の時代に輸入した言葉には「ミョウ」、漢の時代に輸入した熟語には「メイ」、その後宋の時代などに輸入したものには「ミン」という読み方がついたのでしょう。

 では、なぜ英語の比較級にはerのつくのとmoreのつくのがあるのでしょう。

インターネットを検索してみると次のようなページが出てきました。

http://kmyken1.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html

英語という言語は時代ごとに他の民族・言語との接触により、いろいろと変化してきています。英語の歴史については機会を改めて紹介しますが、比較級・最上級を表す2種類の形のうち、

 単語の末尾に -er / -est をつける形は、10世紀頃までの「古英語」と呼ばれる時代から、本来的に英語で使われてきた表現方法です。

 一方、形容詞や副詞の前に more / most をつける方法は、13世紀にフランス語の影響を受けて新しく発達してできた形です。


 erがつくのは訓読み、moreがつくのは音読み、といったところでしょうか。
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