さる18日(土曜日)から21日(火曜日)まで、三浦半島、下田、鎌倉を旅しました。
今回のひとつのテーマは、ペリー提督の足跡です。三浦半島、下田は、そのためです。
ペリー提督一行は、
琉球、沖縄は、ぼくが住んでいるところです。
今回、ペリー提督の足跡をたどろうと決めたとき、沖縄のそれもたどってみようと決めました。
さる8月29日、ペリー一行が上陸した地を訪ねました。そこには、「ペリー提督上陸」の碑があります。以前も行ったことがありますが、今回は改めて。
http://selfyoji.blog28.fc2.com/blog-entry-1856.html

そして、
ペリーは首里城を威力訪問しています。
8月29日は、首里城にも行きました。首里はぼくが生まれ、高校生まで育ったところです。守礼の門はとてもなじみです。でも、そこも改めて訪ねました。

残念ながら、小笠原には行っていません。たぶん今後も行かないでしょう。
これが有名な黒船騒動になった事件です。
今回の旅で浦賀も訪れました。西浦賀の叶神社内に、香山栄左衛門を顕彰する「昭洞香山君碑」が建っています。香山は、浦賀奉行所の与力で、中心となってペリー一行と交渉にあたった人物です。
その「昭洞香山君碑」も訪ねました。

今回の旅、1日目に久里浜に行き、上陸記念の碑を見ました。

その日米和親条約締結の地も行きました。

下田の上陸記念の碑も見ました。

また、了仙寺にも行きました。

函館には行ったことがあるのですが、そのときは、土方歳三を追っていたので、ペリーのことは考えていませんでした。それで、記念碑などには行っていません。残念。
ペリーに特に関心があるわけではなかったのですが、今回の旅はおもしろかったです。
幕末には関心があります。幕末は、ペリーの黒船から始まります。そういう意味ではペリーにも関心があるわけで、一歩も二歩も理解が深まったように感じます。
今回のひとつのテーマは、ペリー提督の足跡です。三浦半島、下田は、そのためです。
ペリー提督一行は、
1852年11月24日、米バージニア州ノーフォーク港を出帆して、東回りで航海し、
1853年05月26日、琉球王国・那覇沖に停泊しました。
琉球、沖縄は、ぼくが住んでいるところです。
今回、ペリー提督の足跡をたどろうと決めたとき、沖縄のそれもたどってみようと決めました。
さる8月29日、ペリー一行が上陸した地を訪ねました。そこには、「ペリー提督上陸」の碑があります。以前も行ったことがありますが、今回は改めて。
http://selfyoji.blog28.fc2.com/blog-entry-1856.html

そして、
ペリーは首里城を威力訪問しています。
8月29日は、首里城にも行きました。首里はぼくが生まれ、高校生まで育ったところです。守礼の門はとてもなじみです。でも、そこも改めて訪ねました。

1853年06月09日~那覇出帆、まだ領有のはっきりしていない小笠原諸島の探検へと航海
残念ながら、小笠原には行っていません。たぶん今後も行かないでしょう。
1853年07/08~嘉永6年6月3日、浦賀沖に到着
これが有名な黒船騒動になった事件です。
今回の旅で浦賀も訪れました。西浦賀の叶神社内に、香山栄左衛門を顕彰する「昭洞香山君碑」が建っています。香山は、浦賀奉行所の与力で、中心となってペリー一行と交渉にあたった人物です。
その「昭洞香山君碑」も訪ねました。

1853年07月14日嘉永6年6月9日、ペリー一行が久里浜上陸、浦賀奉行・戸田伊豆守・井戸石見守と会見しています。
今回の旅、1日目に久里浜に行き、上陸記念の碑を見ました。

1854年03月31日、同年3月3日、ペリーは約500人の兵で武蔵国神奈川の横浜村(現横浜市)に上陸、全12ヵ条の日米和親条約(神奈川条約)を締結しています
その日米和親条約締結の地も行きました。

1854年年5月25日、伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺で和親条約の細則を定める全13ヵ条からなる下田条約を締結
下田の上陸記念の碑も見ました。

また、了仙寺にも行きました。

1854年嘉永7年4月21日。ペリーは函館にも来ています。
函館には行ったことがあるのですが、そのときは、土方歳三を追っていたので、ペリーのことは考えていませんでした。それで、記念碑などには行っていません。残念。
ペリーに特に関心があるわけではなかったのですが、今回の旅はおもしろかったです。
幕末には関心があります。幕末は、ペリーの黒船から始まります。そういう意味ではペリーにも関心があるわけで、一歩も二歩も理解が深まったように感じます。
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