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セルフ塾は閉めましたが、そのままの名前でブログを続けます。独学,独習。教わるより,学ぶを重視。 セルフラーニングの方法,英語,数学などの情報を発信するつもりです。

漢字検定証書
 23日(木)、宅配便で漢字検定の合格証書などが送られてきました。

 それで、さっそく24日(金)にそれぞれに手渡しました。

 合否については、前にweb上で発表されて、知っています。そのときほどではないのですが、合格証書をもらうとうれしそうです。

 また合格までの点数が「1点」だとしって、とても悔しがっている生徒もいました。

 写真は、合格証書をもらってうれしがる生徒たちです。 


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鎌倉幕府跡3カ所を巡る
鎌倉に行こう、ということになって、鎌倉幕府跡はぜひ訪ねたいな、と思いました。

 それで幕府跡がどこにあるのか調べてみました。鎌倉幕府は3カ所あるのですね。初めて知りました。次の3カ所がそうです。

大蔵幕府跡 宇都宮辻子幕府跡 若宮大路幕府跡

 僕は大学受験の時には日本史をとったので、その時は学んだかもしれません。でも学んだ記憶さえ全くありません。

 とにかく、地図や資料を参考にしながらその3カ所を訪れることができました。比較的簡単に道に迷うこともなく。

 3カ所とも石碑が建っているだけです。だから、それぞれの印象というのはありません。周りは住宅地という感じ。稲荷神社の隣にあるというのもありました。

 ネットで探すと「鎌倉史跡碑事典」というのがあり、石碑の文とその説明が書かれていたのでそれを引用をいたします。

鎌倉史跡碑事典

大蔵幕府旧蹟

碑文
今を距(へだて)る七百三十七年の昔 治承四年(1180) 源頼朝邸を此の地に営後覇権(はけん)を握るに及びて政(まつりごと)を此邸中に聴く 所謂(いわゆる)大蔵幕府是なり 爾来(以後) 頼家(よりいえ) 実朝(さねとも)を経て 嘉禄(かろく)元年(1225) 政子薨(こう:死)じ 幕府の宇津宮辻に遷(移)れるまで 此の地が覇府(はふ:幕府)の中心たりしこと 実に四十六年間なり


説明
今から820年前の1180年に、源頼朝がこの場所に屋敷を建ましたが、権力を得てから後には政治を屋敷内で行いました。いわゆるこれが大蔵幕府であります。それ以後、頼家(よりいえ)、実朝(さねとも)と続き、1225年頼朝の妻の政子が死に、幕府が宇津宮辻に移るまで、この場所が幕府の中心であり、その期間は46年間でありました。

位置
雪ノ下3-11-45清泉小学校の南西端で,頼朝の墓所から南方200メートルに建つ



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宇都宮辻子幕府旧蹟

碑文

仏鎌倉幕府は始め大蔵(おおく ら)に在りしが 嘉禄(かろく) 元年(1225)政子薨(こう:死)じ てより之を他に遷(移)さんと の議(論)起り及(すなわ)ち時 房(ときふさ) 康時(やすと き)等巡検評議の末 同年十 一月この他に 造営 十二月 将軍藤原頼経(よりつね)此に 移り住す 爾後(以後)嘉禎(か てい)二年(1236) 頼経再び之 を若宮大路に遷(移)せるまで  天下の政令の此に出ずるも の凡(およ)そ十二年なり


説明
鎌倉幕府の場所は最初大蔵 (おおくら)にありましたが、 1225年源頼朝の妻政子が亡く なった時に別の場所に移すこ とが検討され、北条時房(ときふさ)、北条康時(やすとき) などが議論の末、同じ年の11 月にこの場所に建設され、12 月には将軍の藤原頼経(より つね)がここに移り住みまし た。その後1236年に頼経が更 に幕府を若宮大路に移すまで の12年間は、幕府の政治はこ こで行われました。

位置
小町2-14-19,若宮大路の雪ノ下カトリック教会の南側の道を東に80メートル行くと稲荷 社が在り,その中に建つ



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若宮大路幕府跡

碑文

鎌倉の幕府は初め大蔵に在りしが 嘉禄(かろく)元年(1225)政子の薨(こう:死)ずると共に 将軍藤原頼経(よりつね)之を宇都宮辻(うつのみやつじ)に遷(移)し 後(のち)十一年にして 嘉禎(かてい)二年(1236) 再び此の地に遷(移)す 爾来(じらい:以後)九十八年 頼経以後六代の将軍相継ぎて政(政治)を此に聴けり 元弘(げんこう)三年(1333) 新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉に乱入するに及びて廃絶(はいぜつ:滅亡)せり


説明

鎌倉幕府は初め大蔵にありましたが、1225年頼朝の妻の政子が死ぬと、将軍藤原頼経(よりつね)は幕府を宇津宮辻(うつのみやつじ)に移動させました。その11年後の1236年には更にこの場所に移動させました。 それ以後98年間、頼経(よりつね)以後六代の将軍が相継いでここで政治を行いました。 1333年新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉に攻め入ったことにより亡びました。

位置
雪ノ下1-11-22付近で,宝戒寺から南へ100メートル進み,小道を右折し100メートル進んだ曲がり角の右側に建つ



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 さて、鎌倉を歩いてみると、石碑がきちんとしていることに気付きます。鎌倉町青年会などの名前で立っています。大正や昭和初期のものです。青年会がよく頑張っているなと思いました。

 似たような感じの石碑がきちんとをたっているので、その場所を探すのがとても楽でした。形、大きさなどが定型化されているので、遠くからでもすぐにわかるのです。観光客にはありがたいです。

 そしてネットで調べてみると次のようなことが書かれているページが見つかりました。



鎌倉の石碑「88箇所巡り」


奈良や京都と比べても鎌倉には石碑が多くある。これは大正時代から戦前にかけて鎌倉町青年会(10石碑)、鎌倉同人会(4石碑)、鎌倉町青年団(58石碑)/鎌倉市青年団(6石碑)によって 78の石碑が建てられたからであろう。

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