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セルフ塾は閉めましたが、そのままの名前でブログを続けます。独学,独習。教わるより,学ぶを重視。 セルフラーニングの方法,英語,数学などの情報を発信するつもりです。

出口調査にあう
 きょうは、沖縄県知事選挙の日です。

 午後2時前に妻と二人で投票場に出かけました。

 会場である喜名小学校体育館の前にアンケート用紙をもっている女の子がいます。「出口調査だな」と思いました。腕には「読売」の腕章をつけています。

 投票を終わって出てきて、僕から声をかけました。
「写真いいですか?」と。

 女の子はびっくりして「いえだめです」と答えました。

 まあ、しようがないか、と思っていると、「アンケートお願いします」と言われました。

 それで、だれに投票したか、基地問題は、支持政党は、などのアンケートにチェックを入れ、アンケート用紙を戻しました。

「写真家ですか?」というので
「いや、ブログに載せたいから」と答えました。

 出口調査に合うのは初めてです。このようにあちこちでやっているのですね。できれば写真も載せたかったのですが。
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あなたにも、その半分をになっていただきたい
 再度、宮城谷昌光「三国志2巻」のp255から引用します。いい話です。


 ・・・張倹らしき人物が李篤(りとく)のもとにいる。

 そういう報告をうけた外黄の県令である毛欽(もうきん)は、兵を率いて、その門に到った。毛欽を迎えて、家のなかにいざなった李篤は、

「張倹は天下に知られた人であり、逃亡をしていますが、罪を犯したわけではありません。たとえ張倹をみつけても、捕らえてよいものでしょうか」

と、いった。すると毛欽は、立って李篤の肩をなでて、

 「遽伯玉(きょはくぎょく)という春秋の大夫は、自分だけが君子になることを恥じた。あなたはなぜ仁義をひとりじめにしようとするのか」

 と、ささやくようにいった。ここでの李篤の答えは、さすがというしかない。

「たしかにわたしは義を好んでいますが、あなたにも、今日、その半分をになっていただきたいのです」

 毛欽は嘆息すると、家のなかをしらべることをせず、兵とともに去った。


 いいな、と感動しました。その感動をみなさんにも味わっていただきたいのです。





光武帝も官僚嫌いだった
 宮城谷昌光「三国志2巻」のp115から引用します。

 さて、この年の十二月に奇妙な叙任があった。
 梁冀(りょうき)の弟である梁不疑(りょうふぎ)には馬(ば)という子があり、この梁馬が潁陰(えいいん)侯に封ぜられた。それだけではない。梁冀の子の梁胤にも子があり、名を桃(とう)というが、この梁桃も城父(じょうほ)侯に封ぜられたのである。

 梁馬はよいとしても、梁桃が列侯になったことをおどろかぬ人はなかったであろう。なぜならこの年に梁胤はニ十一歳であり、梁桃はようやく立って歩けるようになった幼児にすぎなかったからである。これが梁冀の恣檀(しせん)でなくてなんであろう。

 百僚みな眉をひそめたが、その叙任に異をとなえた者はひとりもいなかった。

 じつは後漢王朝の創業者である光武帝はこういう事態が生ずることを嫌い、官吏採用試験のなかの秀才{後漢では茂才(もさい)}を重視しなかった。

 いくら学問で優秀な成績をとっても、官吏となったかれらは、権力に迎合しやすく、争臣となりえないという事実を、前漢末、王莽(おうもう)が皇位を簒奪(さんだつ)するときに博識の高官たちが無抵抗であったことから知った。

 ゆえに光武帝は孝道を重視した。ほんとうに皇帝と王朝のために働くのは、儒学で頭をいっぱいにした官僚ではなく、学識では劣っていても親や目上の人を敬う心をもつ者たちだ。そのように選挙された者たちが官僚になっているはずであるのに、やはり梁冀の横放をとめられなかった。



 昔も今も、変らないのでしょうね。官僚は頭はいいが、権力に迎合しやすい。自分を守ることに懸命で、大局を見ようとしないのでしょう。

 ぼくは、官僚については、テレビなどで見るくらいしか知らないので、これ以上無責任な発言はやめておきます。


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