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セルフ塾は閉めましたが、そのままの名前でブログを続けます。独学,独習。教わるより,学ぶを重視。 セルフラーニングの方法,英語,数学などの情報を発信するつもりです。

「さとうきび畑」の歌碑を見てきました
さとうきび畑」歌碑建立 読谷・高志保 琉球新報2012年4月2日
 

【読谷】「ざわわ、ざわわ、ざわわ」とサトウキビの葉が揺れる歌詞で始まる、沖縄戦の悲しみを歌った故・寺島尚彦さん作詞作曲の「さとうきび畑」(1967年)の歌碑が読谷村高志保のサトウキビ畑に囲まれた地で完成、1日に除幕式が開かれた。


 ということで、Kyokoと歌碑を見に来ました。変わったことがあるとすぐに関心を示す2人です。

 かなり立派な歌碑でした。

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ざわわ憲章

私たちは、平和を希求する全国の皆さんの熱い志で建立した「さとうきび畑」歌碑の継承を、次の憲章で表明します。

♪ 歌碑は、いくさのない世界をめざすために活用します。

♪ 歌碑は、こどもたちの平和な心を育むために活用します。

♪ 歌碑は、戦没者の無念の思いを後世に伝えるために活用します。

♪ 歌碑は、沖縄に点在する平和学習の場の一つとして活用します。

♪ 歌碑は、さとうきび畑の自然景観を守るために活用します。

♪ 歌碑は、作者が詩と曲に込めた平和の精神を歌い継ぐために活用します。

2012年 4月1日 さとうきび畑歌碑建立実行委員会



 この歌は、南部の摩文仁のサトウキビ畑の中で生まれた、ということを知っていたので、なぜこの読谷に、と不思議に思っていました。

 説明版には「昔 海の向こうからいくさがやってきた」地点の一つが読谷だからとあります。

 少し無理があるような気もするしますが、とにかくこの歌碑が建ったのは、とてもいいことだと思います。

 歌碑のそばに、ボタンを押すと、「さとうきび畑」のメロディーが流れてくるのは、とてもよかったです。

 次は説明板からです。

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さとうきび畑の歌碑
沖縄戦から19年たった1964年6月にサトウキビ畑の作詞作曲者、寺島尚彦は34歳で初めて沖縄を訪れ、地元の人の案内で、激戦地であった南部、摩文仁のサトウキビ畑に立ちました。このときのことを寺島尚彦はこのように書き残しました

車から降りて土の道をどのくらい歩いただろうか、気がつくと私の背丈よりずっと高くのびたサトウキビ畑の中に埋もれているのだ。暑い南国の陽ざしと抜けるように青い空。そのときだった、「あなたの歩いている土の下に、まだたくさんの戦没者が埋まったままになっています」天の声のような言葉が私に降りかかり、一瞬にして美しく広がっていた青空、太陽、緑の波打つサトウキビすべてがモノクロームと化し、私は立ちすくんだ。轟然と吹き抜ける風の音だけが耳を圧倒し、その中に、戦没者たちの怒号と嗚咽を私は確かに聴いた。


 寺島尚彦は2年近くかけてサトウキビ畑を渡る風の音「ざわわ」という言葉にたどりつき、66回繰り返される「ざわわ」に思いを込め、1967年、「さとうきび畑」は生まれました。そして半世紀近くたった今も、多くの歌手や合唱団によって全国で歌い継がれ、普遍的な世界平和を希求する名曲として、世代を超えて人々の心の中に染み込んでいます。

住民の4人に1人が亡くなるという未曾有の被害をもたらした沖縄戦において、読谷村は「昔 海の向こうからいくさがやってきた」地点の一つです。歌碑はさとうきび畑歌碑建立実行委員会により建立され、読谷村に寄贈されました。

作曲家、寺島尚彦のプロフィール

1930年6月4日生まれ、東京出身。さとうきび畑など作詞も多数。東京芸術大学音楽学部作曲家卒業後、コンボバンド 「♯さん♭さん」「なかよしリズム」などのテレビやラジオで活躍。作品は「みんなのうた」や「全国学校音楽コンクール」課題曲をはじめ、学校の教科書などに数多く提供。全国の学校の校歌も手掛ける。作曲以外にも演奏会の企画制作、コラム、エッセーの執筆、講演活動を行い、同時に大学でも教鞭をとり多くの演奏家を育てた。生涯現役を貫き、2004年3月23日永眠。


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「さとうきび畑」の歌詞


 歌碑への道筋は次のページへ。
歌碑への道筋


 なお、沖縄の本土復帰に尽力された、屋良朝苗さんの銅像を、ぜひこの読谷村に建ててもらいたいです。屋良朝苗さんは読谷村の出身ですからね。
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「さとうきび畑」歌碑までの道筋
 「さとうきび畑」歌碑までの道筋をここに記します。

 読谷村広報には、「高志保の丘」とあるだけで、具体的な地図はありません。

 また「さとうきび畑」歌碑建立実行委員会の公式ホームページの地図は、親切ではありません。


 それで、僕がこのページで紹介することにし、きのうKyokoと一緒に行きました。

 ただ、その時GPSロガーのスイッチがちゃんとを入っていなかったので、今日をもう一度一人でバイクに乗って行きました。

 GPSの編集がまだ慣れていないので、アップするのにかなり苦労しましたが、まあ何とかできました。

 読谷村以外からの人は国道58号線から来た方がいいでしょうね。

 伊良皆の交差点で県道6号線に入ります。

 読谷高校、トリイステーション、読谷村診療所を通過、大当(ウフトウ)という地点に来ます。
 左手にスーパー「金秀(かねひで)」があり、三差路になっています。
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 県道6号線は、そこから右に大きく曲って坂を上って行きます。

 この三差路で県道から離れ、支線(たぶん村道)に入ります。ただ方向としてはまっすぐ進むという感じです。

 そこをまっすぐ進み、チビチリガマの前を通過します。チビチリガマは、先の沖縄戦で、集団自決のあったところです。まだの人はぜひどうぞ。
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 しばらく進むと、右手に細い「さとうきび畑歌碑広場」と書かれた、細い案内があります。
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 そこを右に曲がります。少し行くと右下に「→」が見えます。その角で左折します。
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 するとすぐ目の前に、目的地「さとうきび畑」歌碑広場があります。
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より大きな地図で 「さとうきびばたけの唄」の歌碑への道 を表示

または
「さとうきびばたけ」の歌碑への道

木綿原遺跡・・・沖縄に埋葬があったという最初の証拠遺跡
 Kyokoと2人で,木綿原遺跡に行きました。沖縄に埋葬があったという最初の証拠遺跡だそうです。

「沖縄にも、埋葬があったというはっきりした証拠の最初が、この渡具知木綿原遺跡である。これは沖縄の葬法研究にとって画期的なことであった。」
 曽根信一著「読谷山路を行く」



 現在は埋め戻されていて、遺跡らしきものは何も見当たりません。
 芝生が広がっていて、国指定の史跡だということを示す石塔と説明版があるだけです。
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 僕が、最初にここをおとずれたのはもう30年も前のことです。
 結婚をして、読谷に越して舅と一緒に暮らし始めたころです。郷土史を研究していた舅の曽根信一が僕を連れて来てくれたのです。読谷を知ってもらいたいと思ったのでしょう、村内をあちこち案内してくれました。

 その頃は、この遺跡は、背の高い雑草が生い茂っていて、立ち入ることもできませんでした。

 久しぶりに来ましたが、とても整備されていると感じました。

 次は説明板からです。

木綿原遺跡

国指定史跡

1978年11月15日指定

木綿原遺跡(もめんばるいせき)

 木綿原遺跡は沖縄貝塚時代の前期から後期にまたがる複合遺跡であり、その主体は2千2、3百年前の箱式石棺墓を含む後期の墓地となっている。

 昭和52年の発掘調査によって沖縄初の箱式石棺墓の発見に成功し、長い間不明であった沖縄原始社会の墓制ついて貴重な資料を提供することになった。

 調査の結果、7基の箱式石棺墓と17体の人骨が出土した。石棺墓の構造は、近くの海浜でとれるテーブルサンゴや石灰岩魂を素材にして長方形状に組んだ箱式石棺を下部構造には複数の遺骸が納められ、4基の石棺から13体の被葬者が確認された。棺内の遺骸は、ほとんど伸展葬による埋設法がとられ、骨の上には摩滅したシャコガイ等が据え置かれており、当時の人々の死者に対する精神生活の一端をかいま見ることができる。

 この遺跡は箱式石棺墓という墓制の存在、およびゴホウウラ製の貝輪や弥生前期の土器等が出土することなどから九州弥生文化との交流が想定され、沖縄先史文化の編年を本土の弥生文化との関連において把握しうる資料として重要である。

文部省・沖縄県・読谷村

所在地:沖縄県中頭郡読谷村渡具知


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 その説明版のほかに、次のような読谷村教育委員会の文もありました。

木綿原遺跡からは、今からおよそ2200年前の 7基の墓と17体の埋葬された人骨が出土しました。2200年の時を超えて、17の人骨は私たちにいろいろなことを語りかけています。

 この地に、私たちは生まれ、生活し、そして死にました。死んでしまった私たちを、子や親戚、周囲の人々は手厚くテーブルサンゴや海岸から拾い集めた石などで箱式石棺墓をつくり埋葬してくれました。死を悼む心をもった人々と一緒に過ごすことができて、私たちは幸せでした。

 命あるものには必ず死がやってきます。その死を悲しみ、寂しさを乗り越え、墓を造り亡骸を大切に扱った人々がこの地に住んでいたのです。

 現代社会では命を大切にしない人の起こす事件が毎日のように起こっています。私たちはこの場に立ち、もう一度「いのちの大切さを思う心」について考えてみようではありませんか。

 2200年前の人々から脈々と受け継がれているはずの「いのちの大切さを思う心」、きっと今を生きる私たちにもその心はあるはずです。

 この地を「いのちの大切さを思う心」を育む場に !

 2008年3月読谷村教育委員会



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より大きな地図で 木綿原遺跡 を表示
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