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セルフ塾は閉めましたが、そのままの名前でブログを続けます。独学,独習。教わるより,学ぶを重視。 セルフラーニングの方法,英語,数学などの情報を発信するつもりです。

司馬遼太郎 著「 最後の将軍 徳川慶喜」
  文春文庫の司馬遼太郎著「 最後の将軍 徳川慶喜」を読みました。 面白かったです。読んで良かったです。

  僕は歴史が好きです。 でも専門的 な本は まったく読みません。 テレビの歴史ドラマを見たり、 歴史小説を読んだりして楽しむだけです。

  歴史ドラマ、 歴史小説で描かれる最後の将軍 徳川慶喜はいい感じではなく、 あまり好きではありません。

  特に 鳥羽伏見の戦いが起こるころ、京都から大阪城に移動し 大阪城から江戸に帰るところは 卑怯者だという感じがして 嫌いです。

  なぜこのような行動をとったのか、 とても不可解でした。

それで、 何か分かるかも と思い、 この「最後の将軍」を読んだのです。

  司馬遼太郎の仮説、推測かもしれませんが、 この本を読んで 納得しました。 大きな流れの中で この将軍 徳川慶喜も色々やろうとしたのですね。

  この文庫の帯にはこのようにあります。

 時勢という魔物には勝てぬ。
敵味方に 恐れられる頭脳と才能を持ちながら、幕府を葬らねばならなかった将軍の数奇な生涯


 本文では 次のように書かれます

 久光の背後には時勢というものがあるのに違いない。無能なーー としかおもえぬあの久光は、時勢いう大屏風の前にどかりと腰をおろしている。慶喜はその前でさんざん踊ってみせるのだが、久光は気難しい嬰児のように微笑ひとつしてくれなかった。
 「時勢に乗ってくるやつにはかなわない」
 と、人一倍時勢がみえる 男だけに、 この慶喜の詠嘆は肺腑の奥から出たものであろう。


 歴史の大きな流れの中でいろいろするが、けっきょくは流されてしまうというのが慶喜の一生だったような感じがします。

 さて なぜ大阪城から逃げ出したのか。次を引用します。

 弱点は、 と言いかえてもいい。朝命を怖れるところである。 というよりも朝敵になることを、世に慶喜ほど怖れる者はまれであろう。慶喜は歴史主義者だけに その目は常に巨視的偏向があり、 歴史の将来を意識しすぎていた。賊名を受け 逆賊になることを何よりもおそれた。これほどの乾いた合理主義的性格 の男にこの弱点があるというのはどういうことであろう。 その神祖の家康にはそれが皆無であった。皆無であることが家康の行動を自由なものにしたが、慶喜は家康とは違い、世に読書人のあふれすぎている時代に生まれ、慶喜自身が家康とは格段の教養人であった。このため文字に書かれる自分を常に意識せざるをえず、文字の中でも後世の 歴史をもっとおそれた。それが水戸人でもあった。南北朝のころの足利尊氏を逆賊に仕立てることによって独自の史観を確立した水戸学の宗家の出身であり、 彼が受けた歴史知識は それ以外にない。 彼は自分が足利尊氏になることを何よりもおそれ、その点で常に過剰な意識を持っていた。


 そうなら納得できます。
 慶喜は水戸の出身です。水戸は 水戸黄門で知られる水戸光圀 により日本の歴史を研究した藩です。そして、その水戸学は尊王意識がとても強いです。

 そのことは、知っていましたが、それを彼の大阪城脱出に結びつけることはできませんでした。

水戸で育っため、尊王意識 があまりにも強く、 逆賊になることをおそれていた。 それが慶喜をあのような行動をとらせたのですね。

 次は、大阪から江戸に逃げ帰って 後勝海舟と対面する場面です。

 しばらく沈黙していたが、やがて慶喜の相貌に変化がおこった。勝はあわてて上体をたおした。慶喜の両眼がひらききっている。そのまま薄青い涙がとめどなく吹き出、顔をぬらした。京をはなれて以来、慶喜が その家臣に最初に見せた涙であろう。
「錦旗が出た」
とのみ、 徳川慶喜はいった。3日に開戦し、5日に錦旗が出、薩長が官軍の名を得た。薩長官軍 である以上、慶喜は賊である。史上その烙印が残るであろう。ついに慶喜は その最もおそれた場所へ追い込まれた。慶喜は即刻城を捨て、自軍をすて江戸へ戻った。


 錦の御旗が立つのは、明治維新のころを描く歴史ドラマには必ずといっていいほどよく出ます。朝敵になってしまったという意識があのような行動に出たのです。
 こういうことなら、慶喜が 大阪城から逃げ出した行動が納得できます。 とにかく自分のことが後世にどのように残るのかを いつも気にしていたということですね。

  ついて慶喜のとらねばならぬ政略は、絶対恭順であった。他の何ものを 犠牲にしてもこのひとすじをつらぬかねばならぬとおもった。慶喜は、顔見知りの京都の公卿、大名、策士どもに恭順するのではなく、後世の歴史に向かってひたすらに恭順し、賊臭を消し、好感を勝ち取り、賊名をのがれんことをねがった。


 それは成功したのだと思います。ぼくの中には、慶喜が逆賊だという意識はまったくありません。あそこで徹底して薩長と戦っていれば、明治に入って、慶喜は朝敵だと薩長に言われ、宣伝されたかもしれません。




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