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セルフ塾は閉めましたが、そのままの名前でブログを続けます。独学,独習。教わるより,学ぶを重視。 セルフラーニングの方法,英語,数学などの情報を発信するつもりです。

「謂ひおほせて何かある」
 きょうも、「日本語は悪魔の言語か?」からです。
日本語は悪魔の言語か?―ことばに関する十の話 (角川oneテーマ21 (B-44))


 著者小池氏は、

日本語の韻文が短縮化への道を歩んだのは、主客合一を理想とし、その実現の手段として、読み手により多くのものを委ねようとしたためでありました。
松尾芭蕉(一六四四~ー六九四)の次の言葉は、日本の韻文の本質を的確に言いきっています。


 として、「去来抄」から引用しています。その訳だけ。

下臥(したぶし)に つかみ分けばや いとざくら
(風にゆれる枝の下に臥して摑みわけたいと思う糸桜であることよ。)

亡くなった芭蕉先生が道々私に語って言うには、「最近、其角が編纂した俳句集にこの句がある。どう考えて採用したのだろうか。」と。

 去来が言うには、「糸桜が十分に咲いている様子の表現上手に言い切っているのではございませんか?」と。

 芭蕉が言うには、「謂ひおほせて何かある(言い切ってしまって、何があるというのだ)」と。

 この時、心に深く刻みつけるようにし忘れられないことがありました。初めて、発句として成立するものと、発句として成立しないものとがあるということを知りました。]



「謂ひおほせて 何かある」

 100%言い切ってしまっては、だめだということでしょうね。7~80%だけ言って、後は読む人が補うというのがいいということでしょう。
 読者は、書いてあることを読み取るだけではなく、読者もいっしょに作るということに参加させるのです。

 前に、「物語文は,なぜ説明文よりむずかしいか」という記事を書きました。
 物語文は、故意に書かないことがあるんだよ、ということでした。
 芭蕉につながっているなあ、と感じました。

 書ききってしまっては、おもしろくないではないか。読者は読むだけではなく、書かれていないことを自分なりに作り上げることが大切なんだよ、ということを言っているのでしょうね。
 
 書き手が書いて、それを読者が読み取る、そういう読者を受け身にしてしまうのではなく、読者を能動的に読ませる、それが文学なのかもしれません。

 それができないから、ぼくは文学が苦手なんだ、と改めて感じました。とくに俳句は難しい。難しい理由が分かったように思います。

「分かりやすい文章」の技術 (ブルーバックス)

 に、読者に気を遣わせる、読書を考えさせる文章は分かりにくい文章だ、というようなことが書かれていました。だから、分かりやすい文章を書くには、読者が考え込まないように親切な文章にしなければいけないのです。

 ぼくは、できるだけそう心がけてきました。

 でも、芭蕉に言わせれば、「分かりやすい文なんと、おもしろくもないよ」でしょうね。

 ぼくが書くのはほとんど説明文です。分かりやすいのを今後も心がけますね。
 ただ、このブログにも説明文でないのがいくつかあります。塾での生徒の様子やプライベートなことです。それを書いているときは、ぼくは文を書くのが下手だなあ、とつくづく思いますね。


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