フレネ教育を語り合う
フレネ教育における「自由」について,「子どもをのばす自由教室」のp127~p131にかけて,あちこち抜粋します。
私は彼がこの学校に、どんな期待を寄せて、子どもを学ばせているのか聞いてみた。
彼は「息子をここで学ばせてもらえなかったら、こんなふうに人の前で、話せるようにならなかったでしょう。ここでは子どもたちが自由で、先生の教育が子どもを開花させてくれるのです。それに学校の自然環境もいいし。」という。
そばできいていたカルメン先生が、つけ加えた。「自由なだけではないのです。フレネ学校は、子どもを野放しにするという人がいますが、子どもの教育活動が組織化されていて、規律があるから、一人ひとりが自分を開花させることができるのです。」と。
(中略)
「フレネ学校ではやることなすこと、すべて子どもの興味あることばかりです。子どもが好きなことばかりやる学校です。」
もう五十の坂をとっくに過ぎたマダム・スュネは、そういいながら、ほこりだらけの子ども のザックを取り出してきた。
(中略)
そこにスュネさんが入ってきた。彼はいきなり、「やあ、セレスタン・フレネは賢い人だった。やさしい暖かい人でしたよ。」という。私ははじめ、大げさにものをいう人だと思ったが、きいていて、それがもっとも当を得た表現だということがわかってきた。
彼は、フレネの教育の中で大切なことは、子どもが自由に、自分の考えを表現できるようにすることだという。子どもたちが自分の好きな勉強にとりくんで、自分で表現するようにしむける、そのために、フレネは、教室に印刷器を置いていた。さらに、フレネは子どもたち一人ひとりがもっている、よい面をすべてひき出すために、子どもたちに庭師とか、電気技師とか、昆虫採集家などの免許状を与えていたという。ほかの学校では評価の対象にもならないことを、フレネは人間にとって大切なものとして重視した。おそらくこのこともあってであろう。学校にはよく専門家を呼んできた。フレネには教育を学校の中だけでするとか、教師だけでするという考えはなかったというのである。
「自由」を与える,「自由」を重視する,しかし,それは「放任」ではないですよ,ということです。
それはよく分かります。ぼくも「自由」はいいが「放任」はいけないと思います。
「自由」と「放任」はまったくちがうものでしょうが,その境界はとてもあいまいです。それをどこで分けるか,が問題。
ぼくの読んだ本では,そこのところがよく理解できませんでした。
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