先ほど、メールボックスを開いてみると、mixiを通じてメッセージがありました。東大生からのものでした。僕に「塾での指導法などを教えてあげましょう」ということでした。
正直なところを書きます。不愉快でした。
僕は20数年間も塾の仕事をしてきて、教える力をつけてきたつもりです。一応プロの教え手だと思っています。その僕に、東大生とはいえ、教えてあげましょうという態度が気に障ったのです。
僕は、「いい学び手はいい教え手にあらず」と思っています。
東大生というのは、難関の東京大学に合格することができたので、「いい学び手」だと思います。自分なりにいい学習法を身につけているのでしょう。だからこそ、東京大学に合格できたのです。それはそれで評価します。
しかし、その学習法がどの子どもにも当てはまるとは限らないのです。
いい学び手であるというのは、いい教え手である条件の一つではあるでしょう。
しかし、教えるということはそれだけでは出来ないのです。
僕はこの20数年間そのことを実感してきました。
僕も一応は成績が優秀でした。そして大学にも合格することができました。東大生ほどではないでしょうが、いい学び手の一人だったと思っています。
そして、大学では心理学を専攻しました。その中で教えるということも考えてきました。心理学を学んだことはそれなりに大きな力になってはいます。
しかし、塾を始めて子どもたちに教えてみると、それだけではどうしても足りないということに気づかされたのです。頭で考えたようには子どもたちというのは動いてくれないのです。
その時に、心理学で学んだ、相手の立場に立つということを気をつけてやってきました。なぜできないのか、できない子どもたちの立場に立って考えるということに終始しました。
「学び手は常に正しい」という立場です。
ある方法でやってみて子どもたちがどのように学んでいくのかを見る、そしてそれがだめなら別の方法を考えるというように。
先日、前の記事にも書きましたが理解力のない子どもほど僕にとって厳しい先生です。
理解力のない生徒は、僕の厳しく教師
もっと教え方を工夫をしなさいと何度も言われ続けてきたようなものです。そしてその中で一歩一歩ですが自分の指導法は高まってきたと思のです。
東大生というのは、大きな石にもつまずかないでやってきたのでしょう。しかし、教えてみると、こんな小さな石にもつまずくのか、とおどろくようなことを理解力のない子どもはやってくれるのです。
ぼくらにすれば平坦な道ですが、子どもの立場に立つと確かにごろごろと石がころがっているのです。子どもたちがつまずいて初めて気付かされるのです。
その石ころを取り除く、あるいは乗り越える方法を教えていく、それがぼくらの役目です。
東大生は、ぼく以上に小さな石が目に入らないと思います。力があるので、すいすい走ってくることができたのですから。
小さな石は、子どもたちに教えてもらうしかないのです。その石を見つけてもらう。そしてそれを乗り越える方法を考えるのがぼくらです。
このように理解力のない子どもたちをどのくらい教えて、そしてどのように工夫をしてきたのか、それがいい教え手となる道だと思うのです。
東大という難関に合格したそれだけでは、まだまだ「いい教え手」ではないと僕は思っています。いい学び手である東大生が、理解力のない子どもたちを実際に教えて、その経験を積むことにより、いい教え手になってくれるのだと思うのです。
正直なところを書きます。不愉快でした。
僕は20数年間も塾の仕事をしてきて、教える力をつけてきたつもりです。一応プロの教え手だと思っています。その僕に、東大生とはいえ、教えてあげましょうという態度が気に障ったのです。
僕は、「いい学び手はいい教え手にあらず」と思っています。
東大生というのは、難関の東京大学に合格することができたので、「いい学び手」だと思います。自分なりにいい学習法を身につけているのでしょう。だからこそ、東京大学に合格できたのです。それはそれで評価します。
しかし、その学習法がどの子どもにも当てはまるとは限らないのです。
いい学び手であるというのは、いい教え手である条件の一つではあるでしょう。
しかし、教えるということはそれだけでは出来ないのです。
僕はこの20数年間そのことを実感してきました。
僕も一応は成績が優秀でした。そして大学にも合格することができました。東大生ほどではないでしょうが、いい学び手の一人だったと思っています。
そして、大学では心理学を専攻しました。その中で教えるということも考えてきました。心理学を学んだことはそれなりに大きな力になってはいます。
しかし、塾を始めて子どもたちに教えてみると、それだけではどうしても足りないということに気づかされたのです。頭で考えたようには子どもたちというのは動いてくれないのです。
その時に、心理学で学んだ、相手の立場に立つということを気をつけてやってきました。なぜできないのか、できない子どもたちの立場に立って考えるということに終始しました。
「学び手は常に正しい」という立場です。
ある方法でやってみて子どもたちがどのように学んでいくのかを見る、そしてそれがだめなら別の方法を考えるというように。
先日、前の記事にも書きましたが理解力のない子どもほど僕にとって厳しい先生です。
理解力のない生徒は、僕の厳しく教師
もっと教え方を工夫をしなさいと何度も言われ続けてきたようなものです。そしてその中で一歩一歩ですが自分の指導法は高まってきたと思のです。
東大生というのは、大きな石にもつまずかないでやってきたのでしょう。しかし、教えてみると、こんな小さな石にもつまずくのか、とおどろくようなことを理解力のない子どもはやってくれるのです。
ぼくらにすれば平坦な道ですが、子どもの立場に立つと確かにごろごろと石がころがっているのです。子どもたちがつまずいて初めて気付かされるのです。
その石ころを取り除く、あるいは乗り越える方法を教えていく、それがぼくらの役目です。
東大生は、ぼく以上に小さな石が目に入らないと思います。力があるので、すいすい走ってくることができたのですから。
小さな石は、子どもたちに教えてもらうしかないのです。その石を見つけてもらう。そしてそれを乗り越える方法を考えるのがぼくらです。
このように理解力のない子どもたちをどのくらい教えて、そしてどのように工夫をしてきたのか、それがいい教え手となる道だと思うのです。
東大という難関に合格したそれだけでは、まだまだ「いい教え手」ではないと僕は思っています。いい学び手である東大生が、理解力のない子どもたちを実際に教えて、その経験を積むことにより、いい教え手になってくれるのだと思うのです。
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