同じようなことを齋藤孝氏が述べています。ここでは、「三色ボールペンで読む日本語」のp56~57を引用します。
「自分なりの読み方」と称した、勝手な客観性のない読み方が許谷されている現実には、私は我慢ができない。新聞の書評でさえも、著者の一番のねらいを外して勝手な印象を述べて悦に人っているケースを、しばしば見かける。
日本における、客観性の軽視は深刻なものだと感じる。自分で相当知的だと思っている人でも、客観性(間主観性)を軽視あるいは蔑視さえする人がいる。これは、著者と自分以外の読者をないがしろにする傲慢な態度である。それだけでなく、読書に関してはとりわけ、意味のない立場だ。というのは、
本にはやはり著者が言いたい主旨というものが明確に存在するからである。
私は、客観的な要約力のたりなさが、相互的な理解を妨げる要因になっていると考えている。私が、尊敬する先生の補佐として、ある市民大学のゼミを担当させてもらっていたときのことだ。どのような文章をテキストとして扱ったとしても、私たち講師二人の理解は常に一致していた。しかし、その他の参加者の意見はそれぞれまちまちであることが多かった。前提となる読みが狂っているのに、あれこれと自分の意見を強気に述べ立てる人がいるのには驚いた。文章を批判して自分の意見として主張していることがまさに、その文章の主旨であったりする場合さえよくある。
基本的な要約ができていないのに突っかかるというのでは、生産的な議論になり得るはずがない。「それぞれの読み方があっていい」という考えは、基本的には誤りだ。読みのレベルが低いうちは、十人十色になる。しかし、読みのしベルが上がるにしたがって、その本の主旨に関する共通理解は、共有度が高くなる。
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