先日、屋良朝苗さんについて書きました。
屋良朝苗さん、個人的思い出
中学生には、読谷村出身であること。そして復帰の中心的役割を担ったということで高校入試でも出題される可能性が大きいので、覚えておくようにと話した。
さて、もちろん屋良朝苗さんの功績は大きいです。
でも、個人的には、僕は沖縄の本土復帰の本当の立役者は瀬長亀次郎さんではないかと思っています。
瀬長亀次郎(せながかめじろう) (1907―2001)
本土復帰を最初に言い始めたのは、瀬長亀次郎さんだと聞いています。
現在、米軍基地の軍用地料で暮らしている人も沖縄にはいますが、その軍用地料をアメリカに要求し始めたのも瀬長亀次郎さんだということです。
そしてアメリカ民政府の相次ぐ圧力にも屈せずに、自分の信念を貫き通した人です。アメリカにとってはすごく煙たい存在だったことでしょう。
瀬長亀次郎さんがいたからこそ復帰運動が盛り上がり、そして屋良朝苗さんも生まれてきたのだと、私個人としては思っています。
瀬長亀次郎さんの演説は瀬長節といわれるほどユニークだったそうです。沖縄の方言をまじえて、とても面白くそして鋭いものだったそうです。
だから沖縄の庶民にはとても人気がありました。保守系の人の中にも、瀬長さんは好きだという人が年配の方には多いそうです。
個人的な思い出といってもほとんどありません。
僕が高校生になったころには国政選挙があり、そして瀬長さんは衆議院議員になられました。だから遠い存在としてしか知りません。
読谷にぼくが移ってから、懇談会があり、瀬長さんがいらっしゃいました。僕も参加して、「沖縄人民党の歴史」にサインをいただいたことがあります。
今なら握手でもして、記念写真の一枚でも撮ったのでしょうが、その時はそういう考えもありませんでした。
「亀さんの背中に乗って日本へ復帰しよう」
という言葉があります。ぼくも聞いたことがありました。もちろん「亀さん」というのは、瀬長亀次郎さんのことです。みんなから「カメさん」の愛称で呼ばれていました。
それを言ったのは、上地栄さんだったとのことです。沖縄人民党の方だったそうです。
実は、現在、ぼくの酒飲み友達にShueiさんは、栄さんの甥にあたるそうです。酒の場でよくおじさんの話が出ます。すばらしい方だったそうです。
とにかく、瀬長亀次郎さんの一生は沖縄の偉人伝の一つを飾るもので、歴史に残る名前だと僕は確信しています。
屋良朝苗さん、個人的思い出
中学生には、読谷村出身であること。そして復帰の中心的役割を担ったということで高校入試でも出題される可能性が大きいので、覚えておくようにと話した。
さて、もちろん屋良朝苗さんの功績は大きいです。
でも、個人的には、僕は沖縄の本土復帰の本当の立役者は瀬長亀次郎さんではないかと思っています。
瀬長亀次郎(せながかめじろう) (1907―2001)
沖縄の運動家、政治家。沖縄県豊見城(とみぐすく)村(現豊見城市)に生まれる。順天中学を経て第七高等学校に入学したが、社会科学研究会などに参加し、放校となる。治安維持法違反で投獄される。のち中国で軍務に服するが、軍隊内でも反戦活動を行う。第二次世界大戦後、1947年(昭和22)沖縄人民党を結成、書記長となり、沖縄の本土復帰運動の第一線にたつ。52年3月、第1回琉球(りゅうきゅう)立法院選挙当選後の就任式でアメリカへの宣誓を拒否。54年10月には共産主義者隠匿の罪で検挙、投獄(懲役2年)された。56年12月那覇市長に当選するが翌年に追放されるなど、アメリカの弾圧を受けた。69年ジョリオ・キュリー平和賞受賞。70年11月衆議院議員当選。「亀さん」の愛称で親しまれる。沖縄本土復帰後の73年、人民党と日本共産党の合流と同時に初代県委員長・党中央副委員長となる。その後、同党国会議員団総会長などを務める。90年(平成2)に政界を引退。著書に『沖縄人民党』などがある。
[ 執筆者:小田部雄次 ]Yahoo!百科事典[ 日本大百科全書(小学館) ]
本土復帰を最初に言い始めたのは、瀬長亀次郎さんだと聞いています。
現在、米軍基地の軍用地料で暮らしている人も沖縄にはいますが、その軍用地料をアメリカに要求し始めたのも瀬長亀次郎さんだということです。
そしてアメリカ民政府の相次ぐ圧力にも屈せずに、自分の信念を貫き通した人です。アメリカにとってはすごく煙たい存在だったことでしょう。
瀬長亀次郎さんがいたからこそ復帰運動が盛り上がり、そして屋良朝苗さんも生まれてきたのだと、私個人としては思っています。
瀬長亀次郎さんの演説は瀬長節といわれるほどユニークだったそうです。沖縄の方言をまじえて、とても面白くそして鋭いものだったそうです。
だから沖縄の庶民にはとても人気がありました。保守系の人の中にも、瀬長さんは好きだという人が年配の方には多いそうです。
個人的な思い出といってもほとんどありません。
僕が高校生になったころには国政選挙があり、そして瀬長さんは衆議院議員になられました。だから遠い存在としてしか知りません。
読谷にぼくが移ってから、懇談会があり、瀬長さんがいらっしゃいました。僕も参加して、「沖縄人民党の歴史」にサインをいただいたことがあります。
今なら握手でもして、記念写真の一枚でも撮ったのでしょうが、その時はそういう考えもありませんでした。
「亀さんの背中に乗って日本へ復帰しよう」
という言葉があります。ぼくも聞いたことがありました。もちろん「亀さん」というのは、瀬長亀次郎さんのことです。みんなから「カメさん」の愛称で呼ばれていました。
それを言ったのは、上地栄さんだったとのことです。沖縄人民党の方だったそうです。
実は、現在、ぼくの酒飲み友達にShueiさんは、栄さんの甥にあたるそうです。酒の場でよくおじさんの話が出ます。すばらしい方だったそうです。
とにかく、瀬長亀次郎さんの一生は沖縄の偉人伝の一つを飾るもので、歴史に残る名前だと僕は確信しています。
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