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セルフ塾は閉めましたが、そのままの名前でブログを続けます。独学,独習。教わるより,学ぶを重視。 セルフラーニングの方法,英語,数学などの情報を発信するつもりです。

屋部寺と程順則レリーフ
 2月22日火曜日は午後から名護市に行きました。

 屋部寺と程順則レリーフを見にです。

 まずは名護に入って昼食をとりました。フリッパーというレストランです。前にも入ったことがあります。
flipper.jpg

 そしてしばらく車を走らせて屋部に入りました。屋部は僕の母の生まれたところです。叔母は今でも屋部に住んでいます。

 先日、叔母に会ったときに、屋部に寺があるという話しを伺いました。「小さな寺なんですよ」と話していました。

 どんな寺なのかネットで調べると、けっこう立派な仏像も入っています。
 それで今回屋部寺に行くことにしたのです。

 こぢんまりはしています。でもとてもきれいに清掃もされています。

 先客がいます。僕らの行った時に一組の客が出て行きました。そして別の一組が待っていて、交替し、ウガミ(拝み)を始めました。

 僕らはウガミが終るのを暫く待っていました。

 沖縄ではまだまだウガミが盛んです。何かの願いがあったりすると、あちこちの神社や寺に出掛けて拝みます。
 祖先崇拝の強いところです。しかし、ウタキに限らず、神社であろうが寺であろうが、神聖だというところはどこでも拝むようなところがあります。

 ある宗教にとらわれないところが面白いです。でも、教会を拝むという話は聞いたことがないですね。

 20分から30分ほど待っていたでしょうか。ウガミを終わって帰ったので、寺の中をのぞきました。

 立派なる仏像が 8体並んでいました。以下は次のページから得た説明です。

yabudera.jpg


屋部寺

戦後再建されたときに、開祖の名にちなんで「凌雲<りょううん>院」と名づけられた。本尊の薬師如来像は昔からのものという。昔も今も、凌雲和尚を慕う村人が出費して堂を建て、元旦と旧九月十五日に祭礼を行っている。戦前から住職はおらず、字で維持管理している。開祖の凌雲の出身地は不明。円覚寺で修行し、1699年浦添の竜福寺(禅宗)の住職となったが、一年もたたずに辞し、屋部に草庵を構えて安住した。日でりの時は祈って雨を降らせ、火事を除災、また村人を教育するなどで、大変尊敬されていた。



以下は別のページから

凌雲院 薬師如来像・延命菩薩・不動明王・聖観音菩薩・子安地蔵菩薩、全部で8体


 その次に名護の市街地に向かいました。そういえば、いま日本ハムがキャンプ中。斎藤佑樹選手も近くにいるかも。

 そこに行ったのは、琉球新報で「程順則レリーフ除幕」という記事が載っていたからです。

「壁面に「六諭衍義」まちなか市営住宅程順則レリーフ除幕」



 名護十字路から本当にすぐのところにそのまちなか市営住宅があり、すぐに見つけることができました。

 レリーフはすぐに見えましたが、まだ住宅住宅はオープンしていません。
フェンスがはりめくらされています。
teijunsoku.jpg


 遠くから写真を写しました。何か機会があったら再度寄ってみたいです。

程順則

程順則【てい・じゅんそく】

朝日日本歴史人物事典の解説生年: 尚質16.10.28 (1663.11.27)
没年: 尚敬22.12.8 (1735.1.1)
江戸中期の琉球の代表的な政治家,儒者。和名は名護寵文。琉球久米村に生まれる。父は泰祚,母は饒古樽。高潔な人柄で名護聖人または名護親方と呼ばれる。尚貞14(1683)年通事として中国に渡り,朱子学を学ぶ。のちにも数度中国に渡る。帰国に際し,明の太祖が庶民に下した勅諭「六諭衍義」を持ち帰った。この書は薩摩藩を経て江戸幕府に献上され,荻生徂徠の訓点,室鳩巣 の和訳により刊行され,近世庶民教育の教科書として使用された。正徳年間(1711~16)には江戸に上り,新井白石と会見しており,白石の『南島志』『采覧異言』にはその影響がみられる。久米村の聖廟と公教育機関としての明倫堂創設は彼の建議による。<参考文献>真栄田義見『程順則伝』



琉球の立派な教育者、程順則


 帰りは許田の道の駅により、アイスクリームを食べました。

 長いドライブ、そしていつも昼寝をとる時間なので、眠気が遅います。恩納村の道の駅の駐車場で僕は仮眠をとりました。その間京子はショッピングへ。

より大きな地図で 屋部寺、程順則レリーフ を表示
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