「己の欲せざる事人に施す事なかれ」
自分がいやだと思うようなことを人にしてはいけない。
また聖書には次のようにあります。
己の欲する所を人に施せ」[聖書:マタイ伝7-12]
自分がやってもらいたいと思うようなことを人にしなさい。
素晴らしい言葉だと思います。しかし、教えるという場合には、それだけでは不十分です。
論語と聖書のその言葉は、自分の立場を相手の身に置き換えて考えなさい、ということです。
教えることを、その考えで考えてみます。
すると、自分が教えてもらってよかったという方法で、生徒には教えた方がいい、ということになります。
ある程度はそれでいいでしょう。
しかし、それでは理解してくれない生徒がいるというのを、これまで何度か書きました。
中学3年数学でやる「式の展開」では、公式を覚えるよりも展開表でやった方が簡単にできる生徒がいるのです。
教える側は公式を覚えた方がいいと思っても、そのままそれを教えるのではなく、別の方法で教えた方がいいことがあるということです。
でも、さすがは孔子です。論語には次のような個所もあります。
現代語訳
子路(しろ)が尋ねました、
「指示を聞いたらすぐに実行すべきでしょうか?」
孔子は、
「父親や年長者がいるだろう、まず彼らの意見を聞きなさい。」
と答えられました。次に冉有(ぜんゆう)が尋ねました、
「指示を聞いたらすぐに実行すべきでしょうか?」
孔子は、
「すぐに実行しなさい。」
と答えられました。
これを聞いていた公西華(こうせいか)が困惑した様子で、
「二人とも同じ質問をしているのに、先生は別々の答えをなさっています。どうしてでしょうか?」
と尋ねたところ、孔子は、
「冉有は引っ込み思案だからうながしてやった。子路は積極的すぎる面があるから抑制してやったのだ。」
と答えられました。
孔子は弟子によって教え方を変えていたのです。
生徒によって、「公式で覚えた方がいよ」という教えをする場合と、「展開表でやった方がいいよ」という教えをする場合があってもいい、ということになります。
生徒の力というのはかなり違います。それによって教え方が異なることがあって当然なのです。いや、異なった教え方をしなければいけないのです。
聖書には、次のような個所があります。有名な「迷える子羊」です。
ルカの福音書 15章
4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
6 帰って来て、友達や近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
「迷える子羊」というのは、「キリスト教を信仰しない人びと」という意味だと理解しています。
しかし、僕は、普通の教え方では理解してくれない生徒と考えます。
つまり、普通に教えたら 99人の生徒が理解してくれた。
しかし1人だけその教え方では理解してくれない生徒がいたとします。
その場合には、その子に応じたら教え方を考え出さなければいけません。
普通の教え方では理解できないのです。
この子は、どのような教え方をすれば理解してくれるのだろうか、分かってくれるだろうか、
それを僕たち教えるものは考えなければいけません。
式の展開の公式を覚えるということで十分に分かる生徒がいるでしょう。
しかしそれでは迷える子羊になる生徒たちがいるのです。
そういう子羊たちも救ってあげなければいけないのではないでしょうか。
そのためには、僕らが教え方を工夫をするしかないのです。
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