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セルフ塾は閉めましたが、そのままの名前でブログを続けます。独学,独習。教わるより,学ぶを重視。 セルフラーニングの方法,英語,数学などの情報を発信するつもりです。

詩において、なぜ言文一致が遅れたのか、
 前に、口語と文語について書きました。
口語と文語はなぜ違うか


 二葉亭四迷によって言文一致運動がおこります。ぼくは学校でそう教わりました。

 ただ、それは小説においてであって、詩歌においてはだいぶ遅れたのではないでしょうか。だから、いまでも、文語詩か口語詩かを問う問題が中学の国語に出てくるのではないでしょうか。

 ネットで調べてみると、次のようなページに出合いました。

第15回 近代詩を飛躍させた「ゆずり葉」の詩人1


 近代詩とは何かと考えるとき、島崎藤村にしても、土井晩翠にしても、彼らが選んだ詩のかたちとして、基本が文語定型詩であることは、厳然としてそのようにあることなのだけれど、それが「近代」と銘打たれることに、どうしても違和感を感じざるをえない。
 なぜならば、近代詩といったら、華々しく「言文一致」を表明していてほしいとつい思ってしまうからだ。
 そういった点では、藤村も晩翠も、古色蒼然としている。前の時代と比べて扱っている題材がいかに新しいといっても、人はかたちをまず見てしまうものだから。いや、この二人に限らず、そのあとにすぐ続く詩人たちも、言文一致にはならないのである。かなり年月を経て、口語自由詩を明確に表現する萩原朔太郎や高村光太郎までは。



 やはり島崎藤村や土井晩翠も、口語詩ではないのです。
 問題集に島崎藤村の「初恋」が出ていますが、文語定型詩です。

 それは、なぜだろうかを考えてみたのです。

 それは、文語に比べると、口語が軽く感じられるからではないでしょうか。

 僕が中学生や高校生のころ、テレビのドラマなどに出てくる、聖書の言葉は文語文でした。

 「汝、殺すことなかれ」
 などという言葉がありました。
 それを、口語にすると
「あなたは殺してはいけない」となるのでしょう。

 わかりやすくはなっていますが、なんかとても軽くなったような気がします。聖書の価値が下がるようにも感じます。

 またはニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」は、口語にすると
「ツァラトゥストラはこう語った」となるのでしょう。何か威厳がなくなってしまいます。

 戦後生まれの僕でさえもそのように感じます。

 それまで文語で読み書きをしていた明治人が、口語の文を読んだり書いたりしたら、ペラペラのお粗末な感じがしたのではないでしょうか。

 まだ小説ならいいでしょうが、言葉の感じを大切にする詩歌においては、口語に移行するというのはとても難しいことだったと思います。
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