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セルフ塾は閉めましたが、そのままの名前でブログを続けます。独学,独習。教わるより,学ぶを重視。 セルフラーニングの方法,英語,数学などの情報を発信するつもりです。

現代語訳「般若心経」



 こんなに有名な「般若心経」なのですから,教養としてでも一応知っておきたいと思って読みました。何となくでいいから理解したいと思ったのですが,やはり難しいです。
 理解したとは全然言い切れません。ただ,こういうことについて言っているんだなあ,というのはばくぜんと分かっただけでも,読んでよかったと思います。


ですから仏教的なモノの見方をまとめるなら、あらゆる現象は単独で自立した主体 (自性)をもたず、無限の関係性のなかで絶えず変化しながら発生する出来事であり、しかも秩序から無秩序に向かう(壊れる)方向に変化しつつある、どいうことでしょうか。(p39)


(これは,なんとなく分かります。無限の関係性の中で生きているというのは,実感としてあります。ただ,ものをみるときにどうしてもそれだけを取り出してみるところはあります。
 秩序から無秩序に,というのは物理のエントロピーについて書かれているのとまったく同じです。それもやはり真実でしょう)



量子力学では物質のミクロの様態を、「粒子であり、また波である」とします。測定の仕方でどちらの結果も得られるというわけですが、端的に、それが「色」と「空」なのだと考えても、基本的には間違いでないと思います。

 ただ問題なのは、「粒子であり、しかも波である」という事態は、通常の理性には理解が困難だということです。波が粒子で成り立っているということではありません。最小の単位が「粒子であり」しかも「波である」というのです。

 これは固定的実体か流動的事態か、ということですが、普通はこれが両立するとは考えられません。

 しかし私は、じつはこれと同じことをさっきから申し上げています。
「色即是空」でしかも「空即是色」だと。(p76~77)



( 量子力学,そして相対性原理についても,何となく分かりたいと思ってこれまで何冊も本(入門書)を読みました。しかし,まだまだ理解できません。般若心経が分からないのは量子力学が分からないのと同じことだということでしょう。
 仏教が現代物理に似ているというのはよく聞きますが,まさにそういうことなのでしょう)



 先に少しだけ、粒子と波という素粒子のニ面的で相補的な在り方を申し上げましたが、量子力学の創始者のー人であるニールス・ボーアは、原子、亜原子というモノは固有の特性は何ももっていない、と言いました。

 マクロの世界を扱う相対性理論に対し、ミクロの世界を厳密に叙述したのが量子力学ですが、そのような観測の場では、想定される粒子の位置と運動を同時に観測することはできません。観測すれば粒子が姿を現しますが、観測されなければ、たとえ思考上でも、一定の速度とか軌道を定めるのは不可能だと云われます。このような意味で「不確定性原理」を提出したハイゼンベルクは、『部分と全体』(1969)のなかで、「量子力学では、軌道という考え方そのものが存在しない」と云い切っています。いわば、これによって物体は物理的実在なのではなく、観測者とモノの間の「出来事」になったのです。また彼は同書で、「前世紀における自然科学の客観的世界は、今ではよく知られているように、一つの理想的な極限概念であって、真実ではなかった」とも云います。

 これはまるで、これまで申し上げてきた仏教的認識への賛意と聞こえます。

 観測者によって観測結果が違うことも、そこでは普通に起こります。

 量子力学が記述するのは、今や物理的実在なのではなく、観察や測定の「経験」ということになるのです。

 こうした認識が仏教的認識に重なるのは、じつは偶然ではありません。「原子物理学と人間の認識」というボーアの論文のなかには、「われわれは仏陀や老子がすでに直面した認識論的問題に向かうべきである」と書かれています。自らの思想がいかに東洋に傾斜しているか、またそこを目指すべきだ、という自覚も彼には明確にあったのでしよう。(p93~95)



( アインシュタインは,「神はさいころをふらない」と言って,量子力学を批判したそうです。ぼくはその方がまだ理解できます。しかし,アインシュタインの方が負けたそうです。神はさいころをふる,ということです。
 つまり,何もはっきりしたことは分からないのです。
 量子力学のボーアが「仏陀や老子」を評価しているのもおもしろい。 老子もいくつか読んできたが,もっと読んでみたいものです)


 ハイゼンベルクは講義録『物理学と哲学』(1955~56)のなかで、「第二次世界大戦以降における物理学への日本の大きな貢献は,おそらく,極東の伝統的哲学思想と量子理論の哲学的本質との間に,ある種の近縁性があることを示唆している」と述べています。(p98)



「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」

 『方丈記』の冒頭にあるこの文章など、暗記するほど親しんでいる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 二つのセンテンスを通じて「諸行無常」そのものが描かれているわけですが、「かつ消え、かつ結びて」などという表現は、まさに量子たちの振る舞いそのもの。粒子になったり波になったりというふぅにも読めるではないですか。(098)



 (日本の無常観はいいです。といったら少しおかしいか。でも,無常というのは理解できます。前に「マンガ仏教入門」でも書いたが,ねこの死で「無常」を考えさせられました。「諸行無常」,深い言葉です。


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