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読谷山花織復興のプロデューサー 曽根美津子 (2)(全10回)
【池原読谷村長、美津子に読谷山花織復興を依頼】

 読谷山花織は、読谷村の積極的なバックアップで復興しています。

 1962年、当時の知花成昇(せいしょう)村長が、与那嶺貞のところに花織復元の話をもってきたことが「読谷の先人たち」に書かれています。与那嶺は、どうして織るのか全然見当がつかないのでと、断ります。

 与那嶺貞については後で詳しく書きます。

 15世紀初、琉球王朝の大交易時代に、南方貿易の根拠地読谷村長浜部落に、ビルマ、インド方面から読谷山花織のルーツとなる絣や浮織の技術が伝来しました。

 そして、伝来した技法を元に琉球王府時代には読谷山花織として独自に織られ、受け継がれてきました。しかし、明治の中頃から衰退し、昭和の初期には絶滅寸前になり、沖縄戦争後は、すっかり忘れ去られていたのです。(読谷山花織工房にかけてある年表とホームページから)

 1962年に読谷村長に就任した池原昌徳(しょうとく)は、村の第2次経済振興計画の大きな柱として読谷山花織復興を推進します。

 池原村長は、読谷山花織復興のため、南風原村照屋、喜屋武、本部一体を訪ね歩きます。そこでは琉球絣が織られていたからです。

 そして、1964年2月14日に、池原村長は当時の村婦人会長だった曽根美津子といっしょに琉球政府立博物館に行き、本物の読谷山花織を見ています。博物館にお願いして、読谷山花織の着物、ティーサージ、ミンサーを見せてもらい、「こんなにすばらしいものが読谷にあったんだね」と感心しています。

 1964年(昭和39年)2月15日、村長は、美津子に正式に読谷山花織復興を依頼します。

 美津子は、当時24代の読谷村婦人会長をしていました。

 池原村長の日記には
 「2月15日土曜日晴天、村婦人会長曽根美津子さんに読谷花織の技術講習を依頼した」とあります。
 1964年といえば、東京オリンピックが開かれた年で、高度経済成長期、美津子が37歳のときです。

 その年、村は民芸振興費に520ドル出しています。そのころ1ドル360円ですから、18万7200円になります。ただ、物価が現在とは異なります。かなりの金額だったと思われます。村は、本気で花織復興をバックアップしていたのです。

 しかし、高度経済成長期に入り、オートメーションで安い品物が大量につくられている時代です。村議会では、花織復興に反対する声が大きかったとのことです。

 そういう意見も十分に理解できます。

 しかし、いま考えると、池原村長の先を見る目があったために、花織が復興したのだと感心しています。議会をなんとか説得して、予算を獲得したのでしょう。

 村長と美津子は、婦人会の中の生活改善グループで織物を進めようと相談します。そして、頻繁に婦人会の役員と話し合いがもたれました。
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