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読谷山花織復興のプロデューサー 曽根美津子 (3)(全10回)
【与那嶺貞に協力依頼するが、断られる】

 美津子は、すぐに動きます。与那嶺貞を訪れ、読谷山花織復興への協力を依頼するのです。

 与那嶺は、首里区立女子工芸学校の研究科を卒業していました。そこでは、工芸、家事、裁縫などの家庭科一般のほか、国語、幾何、理科などの普通科目も学んでいます。織物についての知識があったのです。

 卒業後、読谷で養蚕の傍ら、学校で学んだことをいかして、絹織物を織っていました。その後、結婚で織物は中断しますが、1944年太平洋戦争がはげしくなったころ、今帰仁村で現金収入を得るために、機織りをはじめています。夫仁夫(ひとお)が今帰仁の出身だったのです。

 仁夫は、1945年、戦後、病のため亡くなります。与那嶺は、子ども2人を育てるために、幼稚園教官補、生活改良普及員をします。

 このように、織物の知識もあり、経験もあったので、読谷山花織復興の白矢の羽が立ったのです。

 さて、美津子は与那嶺に協力依頼をするのですが、断られます。4〜5人の人から聞いたのですが、かなりきつい口調で断られたそうです。

 理由はいろいろ聞きました。

 まず、こんなのが簡単に復元できるはずがないと言われたとのこと。技術の面で難しいとのことです。

 次に、高度経済成長期です。大量生産で安価な服が出回っているときに、手のかかる花織を織っても売れるのか、安く売ったのでは割にあわないとの理由です。経済的な理由です。議会で出た意見と同じです。

 与那嶺は生活が大変だったのではないでしょうか、と言う人もいます。夫を亡くし、母子家庭です。子どもを育てるためにも、花織復興のために時間と労力をさく余裕はなかったのではないでしょうか、と話していました。

 この3つの理由が重なったのかもしれません。

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