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読谷山花織復興のプロデューサー 曽根美津子 (8)(全10回)
【与那嶺、花織を復興する】

 美津子は、その後も花織復興協力依頼に与那嶺のところに何度も通います。京子は母に連れられて何度か与那嶺の家を訪ねています。

 池原村長も通ったようです。「高志保出身の与那嶺貞さん(明治42年生、旧姓知念)という首里の女子工芸学校出身で、今帰仁の方に嫁いだが、ご主人が戦後亡くなって、高志保に帰ってきているのに目をつけて説得をかさねた」と語っています(村史)。

 1964年5月、与那嶺貞は生活改良普及員の仕事をやめます。

 5月25日、与那嶺のところに池原村長が訪ねてきて「今なら花織の仕事ができるだろう」と、花織の復元協力を頼みます(読谷の先人たち)。与那嶺は織物に関心があったので、そのときは「じゃあ、やってみます」と言って引き受けます。美津子も村長と同行していたのではないでしょうか。

 池原村長の日記には次のようにあります。
 「5月27日 水曜日 晴天 読谷村花織再興したいと、その技術を持っている古老の方々をお願いして首里高等学校、博物館、南風原村照屋まで行って織物について勉強したい。
 出席者 波平(上地ウシ、知花カメ)、 楚辺(松田ウシ、比嘉ウト、比嘉文江)、高志保(与那嶺貞)、婦人会(曽根美津子、比嘉ヨシ)」

 そのときには、与那嶺も加わっています。

 与那嶺は、波平の知花カメ、上地ウシらと協力し、試行錯誤を重ねながら復興に取り組みました。知花カメの長男が大工だったので地機を組み立て、道具もしつらえてくれました。

 1964年(昭和39年)、与那嶺は7月から2ヶ月をかけて、やっと一反を織り上げました。上地ウシたちは、復元された花織の試作品を見て「ハッサミヨー ワッターガ チャッサ カンゲェーティン ナランムンヌ 学問ヌ チカラヤヤー(あらまあ、私達がいくら考えてもできないのに、学問の力ですね)」と涙を流して喜びました。美津子もいっしょに喜んだはずです。

 美津子は「婦人会記念誌」に「私共祖先の偉業は再び私共の手元にのこし得ることが出来ました」と、その喜びを書いています。

 与那嶺は、女子工芸学校時代に習った織りの公式を応用し、図面化し計算して織っていったのです。まさに、学問の力です。
 教わって織るだけなら、織り方(how)が分かればできます。しかし、見本を見て織り方を復元させるには、なぜそうなるのか、Why(なぜ)も必要なのです。

 また、与那嶺は、地機で織っていたのを高機で織るようにしました。

 1965年、松田ウシと比嘉文江の作品が大阪で開かれた日本民藝展に出品され、技術賞を受賞しています。
 与那嶺の作品は、1965年(昭和40年)第17回沖展の「染色の部」で奨励賞を受けています。1964年に手がけた読谷山花織の復興は1年後には、民藝展、沖展に出展するまでになっていたのです。
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