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読谷山花織復興のプロデューサー 曽根美津子 (9)(全10回)
【花織の継承者養成に】

 読谷山花織復元に成功したあと、継承者を養成し、読谷村の特産品としてどう発展させるか、の課題に取り組みます。

 池原村長の日記には次のようにあります。
 「(1964年)7月30日木曜日 晴天
 花織講習会実施打合を行う。
 その結果
一、8月25日〜9月24日まで村民会館で行う。
二、講習人員は約10名とする。
三、織機3台購入し準備する。
四、花織宣伝のために、今回の製品で打掛、手巾により、盆踊りを行う。
 出席者 村婦人会長 曽根美津子、村生改グループ長 天久
   生改善普及員 知花幸子、技術員 与那嶺貞、比嘉文江」

「9月4日金曜日晴天
 午後3時から村民会館で花織講習会開講式を開き、玉城商工課長来所、会員として婦人会役員来所。講習生24名」

 村役場の動きは早いですね。与那嶺がやっと1反ヒャイバナを織り上げたころです。グウシバナ、ティバナの講習だったのでしょうか。いずれにしろ、現在の読谷山花織が村の特産品として、広く知れ渡っているのは、村が積極的に働いていたからだというのがよく分かります。

 比嘉文江の功績も大きいです。織物に興味をもっていて、婦人会でも行動力が高くかわれていました。与那嶺といっしょに復興の中心になっていました。

 池原村長は「あの時に必要な技術をもっている人は、(与那嶺)先生と比嘉文江さんしかいなかった。比嘉文江さんは琉球絣のすごくいい腕をもっていたんですよ」と語っています(「対談」)。

 そのころ、読谷山花織復興のことが広く話題になったのでしょう。池原村長の日記には、8月4日那覇高校生6人、8月11日首里工芸指導科の生徒2人、8月24日東京写真短期大学生4人が花織を見学にきたとあります。

 そして、「読谷村婦人会50周年記念誌」に、美津子は「本土の民芸研究者が見学に来られ、学生、マスコミ関係とみなさんいらっしゃって」とあります。

 美津子は24代村婦人会長をしりぞき、25代会長松田貞子にバトンタッチします。

 しかし、池原村長の日記には
「(1965年)2月18日 木曜日 晴天
午後9時から花織のことで曽根美津子(前婦人会長)、松田貞子(現婦人会長)、与那嶺貞さん、生活改善普及員の知花幸子が集まって打ち合わせした」とあります。

 婦人会長を退いて後も、引っ張りだされていたのでしょう。

 そして、1966年、26代村婦人会長に美津子は再選されます。美津子の力がまだ必要だったのでしょうか。

 池原村長は、「対談」の中で
「曽根美津子さんは最初昭和39年に会長になり、又、2年おいて再選されましたので都合がよかったんですよ」と語っています。(「1年おいて」の間違いだと思われます)

 池原村長が美津子を頼りに思っていたことが分かります。

 村や婦人会では、積極的に講習会を開き、継承者を育てようとするのですが、最初のころ、村の女性たちはそれがお金になるとは考えられず、やろうとする人がほとんどいなかったという話も聞きました。米軍基地でメイドをやった方が収入はいいのですから、無理もありません。

 技術を身に付けるにも時間がかかり、また最初のころは販売ルートもなかったでしょうから、継承者を育てるのも大変だったと思われます。

 当時、読谷村商工会の事務所だったところに、機織りのための小屋がありました。喜瀬病院の跡の建物でも機織りをしていました。そこには経済課の漬け物(婦人会が作った)の壺が置いてありました。裸電球で、雨漏りもしていました。機やその他の道具もみんなで使っていました。

 山内徳信さんが村長になったときに、「作業場の環境が劣悪だったのに衝撃を受けた」そうです。

 美津子は、26代婦人会長も退き、花織復興は後進に引き継がれます。しかし、美津子は花織復興の当事者ではなくなってからも、たびたび花織をしているところに顔を出していました。

 婦人会の活動として始めた講習は、その後各字に広がります。そこでは、各字で機を3台くらい揃えてありました。その1台につき5,6名が、順番に交替で織り方を習いました。機などは、読谷村の経済課が準備していました。その後は、婦人会の活動は離れ、花織を織る独自の活動になります。

 美津子の地元の座喜味に花織工房ができ、多くの座喜味区民に技術を伝えています。その中で育った島袋秀さんは、県無形文化財読谷山花織技能保持者に認定されています。

 多くの人の働きにより、村民の関心も高まり、技術習得者も増えて、1969年(昭和44年)読谷山花織愛好会が結成されました。

 そのことを美津子はとても喜びました。京子は、美津子に連れられていき、愛好会の看板を見せられます。美津子はとて
もうれしかったのですね。

 その後、1974年に「読谷山花織」県の伝統工芸 製品に指定
1975年 「読谷山花織」県の無形文化財に指定
1976年 読谷山花織事業協同組合 設立
「読谷山花織」「読谷山ミンサー」 通産大臣より伝統的工芸品に指定
1977年 「琉球藍製造」国の選定保存技術に指定
1999年 与那嶺貞、読谷山花織への功績を認められ、人間国宝に認定
 されています。

 美津子がまいた種は、しっかり芽をだし、大きく育ち、花を咲かせたのです。

 1980年10月28日、心臓手術中に、美津子は息を引き取ります。享年55歳。若すぎる死です。「美津さんは、短い人生を精一杯駆け抜けたんですね」と多くの人がその死を悲しみました。

 なお、美津子が死亡したあと、その夫信一は、たびたび花織工房に顔を出して、談笑していたそうです。読谷まつりのときには、毎回来てくれたと工房の人たちは言っています。妻美津子の気持ちを引き継ごうと思ったのでしょうか。
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