前々回の記事で
100÷1/3 とするべき式を100×3 と書く子が多い。
答えは正解になるが、問題文の中の3が使われていないからだめだ
と書きました。
それに対して、
100×3 でいいのです。考え方が正しければいいのです、というコメントをいただきました。
そして、数回意見交換をしました。
その中で、これまでぼんやりと考えていたことが少しはっきりしてきました。そういう意味でもコメントをいただいたことに感謝いたします。
さて、式はなぜ書くのか。
それは、自分がどのように解いたのか、その思考した過程を他人に知らせるためです。
私はこのように考えてこの問題を解きました、ということを見せるためです。
だから、自分だけが分かるような書き方ではいけないのです。
科学というのは再現性が大切だ、とよく言われますね。数学でもそうです。
自分の考えを示し、他人がそれを再現することによって、それが正しいかどうかの判断ができるのです。
そのためには、自分の思考過程を他人が分かるように示すことが必要になります。
特に中学2年で学ぶ連立方程式の文章問題では、計算途中の式を書く生徒が少なくありません。文中の数でなくなっているのです。
立式も計算過程も正しければ、他人にも分からないことはありません。
でも、そうでない場合は、そもそも式を立てるときに間違えたのか、それとも計算過程で間違えたのか、分かりません。
再現できないのです。
どこで間違えたのかを見抜く力も指導者には必要だ、という意見もあります。
でも、ぼくはそうは思います。
最初から、読む人(他人)にできるだけ負担をかけないような式を立てるように生徒を指導すれば、いいのです。
いろいろ考えて、ああ、あなたはこのように考えたのですね、というのではなく、式を見たらすぐにその考えが分かるようにするのです。
確かに、他人に負担をかけないように、というのはどういうのかを理解するのは、小学生、中学生には難しいです。
でも、問題文の中の数を使って式を立てる、ということを指導するのは難しいことではありません。それが他人に自分の思考を見てもらう一歩です。
小学生のときから、そのような指導をすべきだと思うのです。
100×3 と書いてきたら、これではだめだ、文中の数を使って書き直しなさい、と言うのです。もちろん、そでができるように前もって指導する必要はあります。
「太郎君と花子さんが10個の飴を分けます。同じ数ずつ分けるとすると1人何個でしょうか?」という問題では、2という数はないので、式が立てられない、という意見がありました。
でもそこでは2人というのは文の中で与えられています。それを見つけるのはだれにも負担になりません。
直径3cmの円の円周は、では、3.14という数を使うのは当然ですね。
文中の数を使うというのを機械的にとらえないでもらいたい。
100÷1/3 とするべき式を100×3 と書く子が多い。
答えは正解になるが、問題文の中の3が使われていないからだめだ
と書きました。
それに対して、
100×3 でいいのです。考え方が正しければいいのです、というコメントをいただきました。
そして、数回意見交換をしました。
その中で、これまでぼんやりと考えていたことが少しはっきりしてきました。そういう意味でもコメントをいただいたことに感謝いたします。
さて、式はなぜ書くのか。
それは、自分がどのように解いたのか、その思考した過程を他人に知らせるためです。
私はこのように考えてこの問題を解きました、ということを見せるためです。
だから、自分だけが分かるような書き方ではいけないのです。
科学というのは再現性が大切だ、とよく言われますね。数学でもそうです。
自分の考えを示し、他人がそれを再現することによって、それが正しいかどうかの判断ができるのです。
そのためには、自分の思考過程を他人が分かるように示すことが必要になります。
特に中学2年で学ぶ連立方程式の文章問題では、計算途中の式を書く生徒が少なくありません。文中の数でなくなっているのです。
立式も計算過程も正しければ、他人にも分からないことはありません。
でも、そうでない場合は、そもそも式を立てるときに間違えたのか、それとも計算過程で間違えたのか、分かりません。
再現できないのです。
どこで間違えたのかを見抜く力も指導者には必要だ、という意見もあります。
でも、ぼくはそうは思います。
最初から、読む人(他人)にできるだけ負担をかけないような式を立てるように生徒を指導すれば、いいのです。
いろいろ考えて、ああ、あなたはこのように考えたのですね、というのではなく、式を見たらすぐにその考えが分かるようにするのです。
確かに、他人に負担をかけないように、というのはどういうのかを理解するのは、小学生、中学生には難しいです。
でも、問題文の中の数を使って式を立てる、ということを指導するのは難しいことではありません。それが他人に自分の思考を見てもらう一歩です。
小学生のときから、そのような指導をすべきだと思うのです。
100×3 と書いてきたら、これではだめだ、文中の数を使って書き直しなさい、と言うのです。もちろん、そでができるように前もって指導する必要はあります。
「太郎君と花子さんが10個の飴を分けます。同じ数ずつ分けるとすると1人何個でしょうか?」という問題では、2という数はないので、式が立てられない、という意見がありました。
でもそこでは2人というのは文の中で与えられています。それを見つけるのはだれにも負担になりません。
直径3cmの円の円周は、では、3.14という数を使うのは当然ですね。
文中の数を使うというのを機械的にとらえないでもらいたい。
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Comment

「読む人(他人)にできるだけ負担をかけないような式を立てるように生徒を指導」というのは小学生には早すぎると思います。
ぼくもそう思います。指導者が理解していればいいです。でも、問題文の中の数を使って式を立てるように、ということは小学生でもできます。
先生に教えられた以外の方法は考えないというふうにはなって欲しくないとぼくも思います。ただ、先生に教えられたことも理解してもらいたいです。そうでないと壁にぶち当たります。
ぼくもそう思います。指導者が理解していればいいです。でも、問題文の中の数を使って式を立てるように、ということは小学生でもできます。
先生に教えられた以外の方法は考えないというふうにはなって欲しくないとぼくも思います。ただ、先生に教えられたことも理解してもらいたいです。そうでないと壁にぶち当たります。
selfyojji | URL | 2016/05/07/Sat 09:36[EDIT]

長いコメント、ありがとうございます。
ブログで回答いたしました。
ブログで回答いたしました。
selfyojji | URL | 2016/05/07/Sat 09:32[EDIT]

前のブログにもコメントしましたが、
「読む人(他人)にできるだけ負担をかけないような式を立てるように生徒を指導」というのは小学生には早すぎると思います。というか指導者がそういうつもりで指導しても、児童の方は、「先生の教えるやり方に従っているだけ」となっていると思います。大学生で論文を書く頃で初めてそれが出来るようになると思います。それまでは、教える側の努力は無駄になっていたり副作用(先生に教えられた以外の方法は考えない)が生じていたりするのではないでしょうか?
「読む人(他人)にできるだけ負担をかけないような式を立てるように生徒を指導」というのは小学生には早すぎると思います。というか指導者がそういうつもりで指導しても、児童の方は、「先生の教えるやり方に従っているだけ」となっていると思います。大学生で論文を書く頃で初めてそれが出来るようになると思います。それまでは、教える側の努力は無駄になっていたり副作用(先生に教えられた以外の方法は考えない)が生じていたりするのではないでしょうか?
りーさー | URL | 2016/05/06/Fri 13:15[EDIT]

「1/3個で100gだから、1個の重さはその3倍」と考えるのは自然な発想だと思います。
【自分がどのように解いたのか、その思考した過程を他人に知らせるためです。】
と言うことであれば、この考えを式にあらわしたものが100×3であるのはむしろ当然ではないでしょうか?
また、「そこでは2人というのは文の中で与えられています。それを見つけるのはだれにも負担になりません。」ということであれば、「3」も問題文であたえられている、とみなすべきではないでしょうか?
「1/3個の重さが100g」というのは、「1個を3等分した1つ分の重さが100g」と同じことです。
selfyojjiさんは後者なら「100×3」でも構わないとおっしゃると思います。あるいは、後者は「100×3とすべきで、100÷1/3とすべきではない」という立場でしょうか?
そうすると、同じ内容の問題文でありながら、表現が違うのでそれにあわせて式も代えなくてはならないということになります。
しかし、「太郎と花子」を2人、と認めるのなら、「1/3個の重さが100g」というのは、「1個を3等分した1つ分の重さが100g」は同じことであり、問題文の表現がどちらであったとしても、「100×3」「100÷1/3」どちらでも構わないのではないでしょうか?
仮に分数の割り算を理解していない状態で、100×3という式を書いたなら、そのこは実質的に分数の割り算を理解していることになると思います。
2/3個で200gだと、1個の重さは? を、「まず半分にして1/3個分を求めて、3倍する」と考えて200÷2×3としたら、これは分数の意味も分数の割り算も理解していることになります。
参考までに
http://togetter.com/li/964852
ずいぶん前の話になりますが、mixiでやり取りさせていただいたときに、私が速さの問題を「はじき」「みはじ」などで解かせることに反発していることを教官をいただいた記憶があります。
しかし、selfyojjiさんの意見をみると、問題文によって「正しい式」が一意的にあると捉えていらっしゃるようで、「はじき」を推奨する人と同様のものを感じます。
15分で30km進む。時速は?
時速とは1時間での距離、と理解していて、1時間は15分の4倍だから、30×4
時速の意味は知らないが、とにかく「はじき」に当てはめて、30÷15/60
selfyojjiさんの意見だと、後者を推奨することになってしまうと思います。
この場合、たまたま15分だから4倍で求められるが、15/60で割るほうが一般性がある、という意見もあるかもしれません。
しかし、「はじき」で公式を暗記しているのではなく、1時間での距離と理解しているのなら、30分なら÷30/60よりも、2倍にするほうが普通だと思います。
15分なら4倍、45分なら3で割って4倍、40分なら4で割って6倍、35分なら7で割って12倍、13分なら13で割って60倍、a分ならaで割って60倍、つまり、a/60で割る。
15分と言う、たまたま60の約数と言うちょうどいい数だから4倍できた
一般的にはa/60
両者は連続的につながっていると思います。
重要なことは、概念を理解させて問題を解くことが出来るようにすることだと思います。
そのためには、子どもが素朴に正しく考えることを邪魔すべきではないと思います。
1/3個で100g、1個の重さを求めるのに100×3と式を立てる子が多いということは、子どもはそう考えるのが自然であることを示していると思います。
「1個あたりをもとめるから1/3で割る。分数の割り算は分子と分母を逆にして掛ける」という子よりもずっと問題文にかかれた状況をビジュアルにイメージしているようにも思います。
、selfyojjiさんは方程式指導のときのメリットを挙げられていますが、仮にそのときにメリットがあったとしても、
特定の式のみを推奨することは、子どもを萎縮させ、子どもが「教わった公式は何だったのか?」「この問題は割り算で解くべきか、掛け算で解くべきか、答えはわかるが式が分からない」と考えてしまいかねず
やり方を教わっていない未知の問題に取り組む際に、素で素朴に考えることをしないで、既知の公式や定理に強引に当てはめる(多くの場合、公式や定理が成り立つ条件にあてはまらないので間違いとなる)傾向を助長しないか心配です。
ある小学校の先生の報告ですが、
21人がクラスの60%に該当する。クラスの人数は?
この問題を、21÷3=7 7×5=35 と求めたのは、「算数の苦手な子」だったそうです。
私もこの方法で求めました。21÷0.6などという面倒な計算はしなくないですから。
この先生は、いろいろな方法を認める方で、子どもがそういう方法で解いたことを喜んでいました。
しかし、 21÷3=7 7×5=35 には問題文に出ていない「3」や「5」が使われています。
この式を立てた「算数の苦手な子」に、「その式ではなく、21÷0.6という式を立てるべきだ」と指導すべきでしょうか?
「苦手な子」は公式を覚えられなくて、割合の本来の意味に立ち返って解いたのでしょう。
私はむしろ、意味も分からず「くもわ」などの公式に当てはめて21÷0.6の計算をする子のほうが心配です。(もちろん、意味を分かっていて21÷0.6とする子もいるとは思います)
長文失礼しました
【自分がどのように解いたのか、その思考した過程を他人に知らせるためです。】
と言うことであれば、この考えを式にあらわしたものが100×3であるのはむしろ当然ではないでしょうか?
また、「そこでは2人というのは文の中で与えられています。それを見つけるのはだれにも負担になりません。」ということであれば、「3」も問題文であたえられている、とみなすべきではないでしょうか?
「1/3個の重さが100g」というのは、「1個を3等分した1つ分の重さが100g」と同じことです。
selfyojjiさんは後者なら「100×3」でも構わないとおっしゃると思います。あるいは、後者は「100×3とすべきで、100÷1/3とすべきではない」という立場でしょうか?
そうすると、同じ内容の問題文でありながら、表現が違うのでそれにあわせて式も代えなくてはならないということになります。
しかし、「太郎と花子」を2人、と認めるのなら、「1/3個の重さが100g」というのは、「1個を3等分した1つ分の重さが100g」は同じことであり、問題文の表現がどちらであったとしても、「100×3」「100÷1/3」どちらでも構わないのではないでしょうか?
仮に分数の割り算を理解していない状態で、100×3という式を書いたなら、そのこは実質的に分数の割り算を理解していることになると思います。
2/3個で200gだと、1個の重さは? を、「まず半分にして1/3個分を求めて、3倍する」と考えて200÷2×3としたら、これは分数の意味も分数の割り算も理解していることになります。
参考までに
http://togetter.com/li/964852
ずいぶん前の話になりますが、mixiでやり取りさせていただいたときに、私が速さの問題を「はじき」「みはじ」などで解かせることに反発していることを教官をいただいた記憶があります。
しかし、selfyojjiさんの意見をみると、問題文によって「正しい式」が一意的にあると捉えていらっしゃるようで、「はじき」を推奨する人と同様のものを感じます。
15分で30km進む。時速は?
時速とは1時間での距離、と理解していて、1時間は15分の4倍だから、30×4
時速の意味は知らないが、とにかく「はじき」に当てはめて、30÷15/60
selfyojjiさんの意見だと、後者を推奨することになってしまうと思います。
この場合、たまたま15分だから4倍で求められるが、15/60で割るほうが一般性がある、という意見もあるかもしれません。
しかし、「はじき」で公式を暗記しているのではなく、1時間での距離と理解しているのなら、30分なら÷30/60よりも、2倍にするほうが普通だと思います。
15分なら4倍、45分なら3で割って4倍、40分なら4で割って6倍、35分なら7で割って12倍、13分なら13で割って60倍、a分ならaで割って60倍、つまり、a/60で割る。
15分と言う、たまたま60の約数と言うちょうどいい数だから4倍できた
一般的にはa/60
両者は連続的につながっていると思います。
重要なことは、概念を理解させて問題を解くことが出来るようにすることだと思います。
そのためには、子どもが素朴に正しく考えることを邪魔すべきではないと思います。
1/3個で100g、1個の重さを求めるのに100×3と式を立てる子が多いということは、子どもはそう考えるのが自然であることを示していると思います。
「1個あたりをもとめるから1/3で割る。分数の割り算は分子と分母を逆にして掛ける」という子よりもずっと問題文にかかれた状況をビジュアルにイメージしているようにも思います。
、selfyojjiさんは方程式指導のときのメリットを挙げられていますが、仮にそのときにメリットがあったとしても、
特定の式のみを推奨することは、子どもを萎縮させ、子どもが「教わった公式は何だったのか?」「この問題は割り算で解くべきか、掛け算で解くべきか、答えはわかるが式が分からない」と考えてしまいかねず
やり方を教わっていない未知の問題に取り組む際に、素で素朴に考えることをしないで、既知の公式や定理に強引に当てはめる(多くの場合、公式や定理が成り立つ条件にあてはまらないので間違いとなる)傾向を助長しないか心配です。
ある小学校の先生の報告ですが、
21人がクラスの60%に該当する。クラスの人数は?
この問題を、21÷3=7 7×5=35 と求めたのは、「算数の苦手な子」だったそうです。
私もこの方法で求めました。21÷0.6などという面倒な計算はしなくないですから。
この先生は、いろいろな方法を認める方で、子どもがそういう方法で解いたことを喜んでいました。
しかし、 21÷3=7 7×5=35 には問題文に出ていない「3」や「5」が使われています。
この式を立てた「算数の苦手な子」に、「その式ではなく、21÷0.6という式を立てるべきだ」と指導すべきでしょうか?
「苦手な子」は公式を覚えられなくて、割合の本来の意味に立ち返って解いたのでしょう。
私はむしろ、意味も分からず「くもわ」などの公式に当てはめて21÷0.6の計算をする子のほうが心配です。(もちろん、意味を分かっていて21÷0.6とする子もいるとは思います)
長文失礼しました
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