さる4月に集まった時に、弁ヶ岳のことが話題になりました。
わが母校首里高校の校歌は次の1節で始まります。
仰げば高し弁ヶ岳
その弁ヶ岳がどこにあるのか分からないという人が多いのです。ぼくは数回行ったことがあります。
校歌の歌詞ではよくわかるが、仰いでみても何も見えないなどなど。
それで弁ヶ岳ツアーを組みました。
ガイド役は「琉球の霊性」の著者でもある末吉安允くん。
彼は琉球の歴史にとても詳しいです。
6月10日土曜日4時に6人の同期生が彼の家に集まり出発。すぐに弁が岳頂上付近に着きました。
年配の女性の方が掃除をしています。末吉君はとてもよく知っているようです。
彼女がボランティアでこの弁ヶ岳をいつもきれいに掃除しているとのこと。
ありがたいことです。

末吉君の「琉球の霊性」には次のようにあります。
かつて の 琉球 国王 は、 琉球 神道 で 重要 な「 神の島」 久高島 へ、 船 を 繰り出し 行幸 する 習わし で あり まし た が、 後 には 遭難 の 危険 性 を かんがみ 廃止 さ れ て、 ここ 弁 が 嶽 が 東 に 望める 久 高島 へ 祈り を 通す 御嶽 ともなり まし た。 太陽( ティーダ) への 祈り が 琉球 国 を 挙げ ての 信仰 で あり まし た から、 地図 上 の 弁 ヶ 嶽 が、 実際 より 大きな スペース で 扱わ れ て いる のが、 当時 の人々 の 弁 が 嶽 の 神様 に対する 尊崇 と 畏敬 の 念 が 見て取れ ます。
霊的にも琉球王国にとって大切な所だったのですね。末吉くんは、そのようなことを説明してくれました。
弁ヶ岳には2つの丘(大嶽と小嶽)があり、まず大嶽の頂上まで歩いて数分。
そこから首里の街を眺めました。
頂上からみるとなかなか高いです。首里の街が眼下に見えます。
首里高校の校歌は、その前身でもある一中の校歌でもありました。
戦前、高いビルが建つまでは「仰げば高し弁ヶ岳」だったのだろうということが想像できます。
末吉君は高いところから首里を眺め、風水の理論に従って、あそこが白虎、向こうが玄武などと詳しく説明してくれました。
とても良い勉強になりましたが、今振り返るとほとんど頭に残っていません。ごめん。


次に小嶽へ移動。
そこには沖縄神社があり、祠の中に五つの石が並んでいます。
舜天王・英祖王・察度王・尚思紹王・尚圓王といった5人の王様の名前がありますが、末吉君によると、これはおかしいとのこと。
何がおかしいのか説明してくれましたが、ここに書くほど記憶に残っていません。
彼は以前、ブログを書いていたのですが、事情があって現在休止中。こういうことも書いてくれたら勉強になるのに。


後でネットを調べると「弁ヶ岳」の説明板もあるのですね。
僕らは車で頂上近くまですぐ来たので途中見逃してしまったのでしょう。
次ページから借りてきた説明板の文です。
ごーやーどっとネット - 沖縄県民向け情報サイト「弁ヶ岳公園」
「1956年(昭和31年)12月16日 沖縄県指定史跡 首里城の東方約1kmにあり、海抜は165.7mで、沖縄本島中南部では、 最も高い峰の一です。そのため、かつては航海の目標にもなりました。 一般に「ビンヌウタキ」と呼ばれ、峰全体がご神体とされ、1945(昭和20) 年の沖縄戦で、この地において激戦が展開されるまでは、琉球松などの大 木が茂っていました。弁ヶ嶽は参詣道をはさんで、東側の小高い杜になっ ている方が大嶽、西側の低い方が小嶽となっており、「琉球国由来記」(1713 年)によれば、大嶽の神名は「王ノミウヂスデルカワノ御イベヅカサ」、 小嶽は「天子」と記されています。王府時代、1・5・9月に国王が親ら訪れ、 祭祀が行われました。あた、沖縄戦で破壊消失した石門は、1519年に首 里城歓会門前の園比屋武御嶽石門とともに築かれたといわれ、その構造や 工法も似ていました。この石門は、1938(昭和13)年、国宝に指定され ました。現在のコンクリートづくりの門は、1954(昭和29年)年にハワイ の「うるま一心会」からの寄付金を得て、首里鳥掘町民の奉仕によってつ くられたものです。 また、かつては石門の前に、拝殿と呼ばれる建物がありました。」
末吉君は口頭でそのようなことも説明してくれました。
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