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不屈瀬長亀次郎日記


 沖縄の政治家,瀬長亀次郎さんの日記です。

 琉球新報社編集局長嘉数武氏は,「はじめに」の中で

 

沖縄にこれほどの政治家がいたことへの驚き



 の声が多く寄せられたと書いています。

 ぼくは子どものころからセナガさんをよく知っていました。そして大きくなるにしたがったセナガさんの偉大さを知るようになりました。だからこの本で初めて「これほどの政治家」と思ったわけではないのですが,初めてふれた人にとっては大きな驚きであろうと思われます。世界史的な政治家だと思っています。

 この本で初めて知ったのは,アメリカのひどさです。セナガさんがアメリカによってひどい扱いをされたことは以前から知ってはいたのですが、この本で具体的に知ることができました。

 現在,アメリカのイラク,アフガニスタンに対する戦争などでアメリカを批判する人が多くなっています。しかし,アメリカのひどさはいまに始まったことではないことがこの本で分かります。

 「人民党事件」で瀬長さんは奄美出身の活動家、畠義基と林義巳を「かくまった」として逮捕された。しかし畠は今後政治活動はしないという誓約書を出して強制送還をまぬがれ、55年4月に釈放された。「かくまわれた」本人が釈放されたのに、瀬長さんは収監されたままだった(56年4月に釈放)。「人民党事件」は、瀬長さんをつかまえるのが目的だったわけだ。{真栄田義晃さん(p39)}



 所長の話では布令143号の公布と同時に受刑者心得が出ている。それによると新聞及び時事論説の閲読は禁ぜられている。だから今後月刊雑誌はおくって貰わないようにとのことで理一郎にその旨書き添えておいた。新聞はいいとして雑誌だけは毎号読みたいものである。(1955年4月2日 p212)



 受刑者といえ、自由に雑誌も読むことができないとは自由権の剥奪です。これが「民主主義国」アメリカのやることなのか。

 

手紙はこない。どうしたことか気になっている。もう1月以上なるし、先の小包もおくったとの手紙はない。(p214)



 これがなぜなのか。後でわかります。


 娘内村千尋さんによる手記

 3年ほど前に知人から「沖縄県公文書館にこんな資料がありますよ」と数枚のコピーを受け取った。それは1955年3月23日付で宮古刑務所にいる父、亀次郎にあてて書いた姉(瞳)の手紙だった。その他に数点の手紙があった。いきなり50年前の手紙が出てきて一瞬これは何なのかと戸惑い、驚いた。なぜ個人の手紙が公文書館で公開されているのか、この手紙は父には届いていたのかと次々疑問が出てきた。

 調べてみると、この手紙は父に届いていないことが判明した。決め手となったのは父の「獄中日記」だった。



( これは戦前の治安維持法下の話ではありません。終戦から10年もたっています。そのころ手紙を検閲して、届けないということをアメリカはやっていたのです。)


 不穏な空気を感じた長浜医師は、手術中に万一停電になっては大変だと、予備のバッテリーを用意して手術に臨んだという。( 内村千尋 p275) 


 瀬長さんの胃の手術をした長浜医師はぼくの住む読谷の出身です。ぼくの舅(曽根信一)はそれをほこりに感じているようでした。手術の予備バッテリーのことを知っていてぼくに話してくれました。瀬長さんを排除するためなら停電もやりかねないアメリカなのです。


(長浜医師の話)

 やっこさん達ひどいことをするね。証言の翻訳を歪曲していやがる。それで捺印を求める。こんな調子で文字を解しないものに強制捺印させることがしきたりになっているのであろう。{1955年10月14日 p282}




 英語を解する長浜医師だから歪曲しているのがわかるのです。ほとんどは歪曲された翻訳とは知らずに捺印していたのでしょう。ひどい!!

 瀬長さんが県民に慕われていることがよくわかる描写


 3時過ぎ(豊見城村)我那覇の男女青年がやってきた。女8名男5名である。那覇保健所で検査してもいいが、こちらまでくれば顔が見られるそうだからとみなで相談してやって来たのである。{1955年8月8日 p260



 宮古刑務所へ父が移送された時の担当看守だった方から聞いた話として「瀬長さん申し訳ありませんが、規則ですので手錠をかけさせてください」と涙を流しながら手錠をかけたという内容だった。(p270 内村千尋)




 その中には「血液型が合わなくて採血してもらえなかった」とがっかりして帰ったという若者たちもかなりいた。(p274 内村千尋)



1956年3月2日(金)
 1時、義歯入れ替えに上原歯科医院に行く。開南交番附近は各社のバスの溜り場になっているようだ。刑務所のゴ送用車はおかげで医院の横に停車出来ず、市場の入口にとまったのでそこから約5分ほど歩かねばならない、まち小の人々がー斉に立ち上がった。道行く人々は立ちどまった。キョトンとしているのである。あらあら不思議といった顔もある、目礼するものもいる、頭を下げて挨拶するものもいる。ハンケチを打ち振るものもいる。バーサンもおれば兄さん達もおる。豆フ市場のねえさん達もフカシ芋をあきなっているオバサン達もいる。歯科医院にきえてもまだ群集は私をおっかけている。20分ほどして出たらバスの車窓から運転手、乗客がー斉にキンチョウしている。何しろ、車をとめているのだから、何んだ何んだから、セナガセナガのささやきにかわり、ざわめきとなり、騒ぎのうづがどんどん大きくなる。(p302~303)


 まるでアイドルスターですね。それくらい県民はせながさんを慕っていたのです。




 一九五六年の四月に那覇高等学校へ入学したばかりの私たちにも、危機感は共有されていた。瀬長亀次郎が出獄した四月九日、刑務所の周辺には出迎えの大勢の人々が行列をつくり、授業中の私たちにもマイクを通してシュプレヒコールが聞こえてきた。

 亀次郎の出獄のニュースは、米軍統治の暗い時代に差し込む一条の希望の光のような強烈な印象を私たちに与えた。亀次郎が出獄すれば米軍の圧政をはね返してくれるのではないかという期待感が高校生の私たちにも拡がっていた。

 この日の夕方開催される「出獄歓迎大会」の場所と時間を、電柱に張り出されたビラで確認して、私は少し早めに実栄橋広場へ着いた。まもなく続々と多くの人々が広場へ集まり、周囲の塀や木立にも鈴なりになる状態で、会場は熱気に包まれた。私は多くの高校生たちとともに前列に座り、演壇の弁士の演説に耳を傾けた。亀次郎の不屈の闘いを讃える弁士たちが「亀さんの背中に乗って日本へ復帰しよう」と呼びかけ、社大党委員長の安里積千代が連帯の挨拶をした後、亀次郎が万雷の拍手を受けて演壇に立った。
{瀬長氏の「出獄歓迎大会」に参加した西里喜行さん(琉球大学名誉教授)の手記p350~351}

 感動的です。多くの県民がせながさんの出獄を待っていたのです。

 なお,p323~324の手記を書いている仲松庸全はぼくの叔父です。

 日米両軍を問わず,軍は住民を守らないのです。(p324)



 真実です。みんなに知ってもらいたい。由美子ちゃん事件,なんて痛ましい事件でしょう。軍,基地があるせいです。

 なお,この本は「とぐち修必勝めざす後援会決起集会」で購入し,赤嶺衆議院議員にサインしてもらった本です。

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