司馬遼太郎の「城塞(上)」を読みました。真田幸村を知るために読んでいるのですが,やはり小説はおもしろいです。
さて,織田信長が死んであと,織田家はまったくといっていいほど,表舞台に出てきません。どうしたのだろうか,と思っていたのですが,この本を読んで少し分かったように思います。
織田有楽という信長の弟がいます。
以下,p70からの抜粋です。
考えてみればこの織田有楽が天下を取らなかったというのが、ふしぎでなくもない。
天正十年六月、明智光秀が、老ノ坂から備中へゆくとみせかけてにわかに京に乱入し、おりから本能寺に宿をとっていた織田信長、二条城にいた嫡子信忠を急襲し、父子もろともに殺してクーデターに成功したとき、この有楽も当時長益と言い、四十の壮齢で、手兵をひきいて二条の宿館にとまっていたのである。本能寺にあがる火炎をみておとろき、一戦もせず変装して京をのがれ落ちてしまった。無理をせぬということであろう。
そのあと、有楽に気概さえあれば織田家のー族として当然兵をあげて光秀と対戦することもできたのだか、そういうことはおのれの器量にあわぬと思い、秀吉が天下をとると、それに臣従してしまった。秀吉は有楽を旧主筋の人として言葉あしらいなどもつねに丁寧であったが、かといって大領はあたえない。摂津島下郡でー万石そこそこをあたえ、官位だけは高くした。従四位下、侍従である。
関 原のときには、家康に味万した。なにごとも世のながれにさからわないというのが有楽の生き万であり、その功によって戦後、家康から恩賞をうけ、大和芝村において三万石をあたえられた。
また別のところには,織田常真入道について書かれています。織田信雄(のぶかつ)のことで,信長の息子です。(p393~395)
信長は、その側室たちに多くの子を産ませたか、みな出来がわるく、あの乱世でー人として自立して生きてゆけるほどの者がなかった。そのなかでもとくにこの信雄が庸人で、もはや愚人というにちかい。もっとも愚人は愚人としての価値があった。かれは愚人であったがために、かれのいのち一つが生きのびえたのかもしれない。
(中略)
天性、物におびえるたちであった。
(中略)
信雄はこの程度のことでだまされる人物であった。
(中略)
信雄は愚人ながら、欲だけは十分にあった。
(以下略)
僧についての,次の記述もおもしろい。
崇伝は、禅僧である。僧というのは、元来うその世界に生きている。念仏宗の僧たちはありもせぬ極楽を口一つで売って金にし、禅門の僧たちは数万人にー人の天才的体質者だけが悟れるというこの道での、ほとんどがその落伍者で、そのくせ悟ったという体裁だけはととのえねばならぬため、「悟り」のあとは狐が化けるようにして自分を化けさせ、演技と演出だけでこの浮世を生きている。崇伝というのは、その典型的な人物であった。
念仏宗の僧は本当に極楽があると思っているのでしょうか。思っているとしたらうそではないでしょうね。
禅宗の僧に関しては同感です。ぼくは,悟りがどのようなものか分からないので,数万人に一人は悟っているかどうかも分かりません。ただ,ほとんどが悟っていないだろうなあとは思います。しかし,悟った顔で説経をしなければ付いてこないでしょうから,うそをつくしかない。
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