FC2ブログ
セルフ塾は閉めましたが、そのままの名前でブログを続けます。独学,独習。教わるより,学ぶを重視。 セルフラーニングの方法,英語,数学などの情報を発信するつもりです。

司馬遼太郎著 城塞(下)



 城塞(下)から,まず次の部分(p205)

  浅野忠知も、言葉の勢いから、
 「知れたこと、殿もー個の武士じゃ。殿といえども討死はお覚悟であろう」
 と言い放った。ついでながら浅野忠知はきさに浅野家の前の当主の幸長が急死したあと、長晟の相続に反対してその弟を推戴しようとした老臣のひとりであった。このことを長晟は忘れておらず、のちこのときの言葉をきいて、
「そういう侍大将があってよいものか」
と、激怒した。侍大将(家老)の役目は主人の身に代っても主人を生かすという存在であり、さらにはできるだけ味方の死傷を少なくして勝たしめるためにこそ高禄で召しかかえられてあるのに、浅野忠知は「主人の討死は当然のこと」などという。そういう馬鹿な侍大将があってよいものか、と長晟はのちにいうのである。

 浅野忠知にすれば、そのことばの意味はいわば精神を指し示したつもりだが、誤解された。誤解されるのは当然であり、この時代、まだ江戸武士道という頽廃精神がー般化しておらず、忠知に付けられた騎馬衆には忠知のいう「武士は潔きことが第一であり、勝敗は第二第三のこと」というふしぎな倫理が理解できなかった。結局、
「左衛門どのは、殿を討死させようと謀っているのだ」
という、形而下的にうけとり・・・・むろん戦術そのものは形而下の世界だが こういう頽廃人の命令をきいて共狂いに狂うのはばかげている、と言いだし、
「されば、われらは我等の雅意にせん」
と、忠知にすてせりふをのこし、五騎駈け出したかとおもうと十騎がそれにつづき・・・


 ぼくがおもしろいとおもったのは,「江戸武士道という頽廃精神」,「こういう頽廃人の命令」と,武士道を「頽廃」という言葉で司馬遼太郎氏が表現していることです。

 最近,「武士道」がもてはやされています。ぼくもある面ではいいと思っています。それをこのように「頽廃」という表現がされていること,それをもう少し詳しく知りたいと思っています。

 次は,後藤又兵衛についてです。大阪冬の陣,夏の陣では,後藤又兵衛,真田幸村という2大ヒーローが出てきます。後藤又兵衛は秀頼にも信頼され,秀頼がどんどん変わっていきます。
 そして,最後。彼がみんなからどんなにしたわれているか,次の部分で分かります。


 とっさの出来事で、又兵衛の死は後藤隊のすべてには伝わらなかった。

 そのうち、山を守る山田外記と片山助兵衛は戦死したため、古沢四郎兵衛という者が敗兵をまとめて血路をひらき、ようやく西麓の野まで降りてきたとき、又兵衛の死を知った。
「死に後れたり」
と、五十男の古沢が声をあげて泣き、泣きながら敵のなかへとってかえして戦死し、それにつづいて古沢の子の小源太、それに豊田与左衛門、津田勘三則らが退却を断念してみずから死の中へとびこんでそれぞれ戦死した。戦国武士にしては異常な行為といってよかった。

 古沢たちだけでなく、生前、又兵衛の魅力に憑かれた者たちは、又兵衛の死をきくやいなや、ほとんど自殺的な死を遂げた。

 「長沢聞書」の九郎兵衛の父七左衛門は、この凶報に接するや、又兵衛の戦死の場所で死ぬべく馬を駈けさせ、すでにその場所に敵が群かっているのをみてー騎で突撃してたちまち戦死した。

 湯浅左吉という又兵衛の近習は敗軍のなかで又兵衛を見うしなってさがしていたところ、退却してきた父の三郎兵衛にめぐりあい、又兵衛戦死のことをきいた。
 父の三郎兵街はともに落ちてゆこうと左吉の具足の袖を執ったが、左吉はふりはらい、御主が討死なされたというのに家来が生きて退れましょうや、と高啼きに啼くような武者声をのこしつつ真っすぐに敵陣に駈け入って死んだ。

 さらに又兵衛とは同郷の播州出身で仲のいい友人であった宇野入道宗味という老人は、
 「又兵衛無き浮世になんの楽しみがあるか」
と、その死の報を聞いたその場で指物をぬきとって地に突き立て、そのあと根が生えたように動かなくなった。
 入道の背後に小川が流れ、まわりは草のみで樹ひとつない。その広野の真ン中で、宇野入道のみが塑像のように突っ立ち、槍のみを構えている姿はいかにもぶきみで、しばらく敵は遠巻きにして近づかなかった。
 寄せ手は、よほど気味わるかったのか、この痩せ入道一人をたおすのに銃弾を用いた。入道かあおむけざまにたおれて小川へ落ちこんでから、三、四騎の武者があらそって駈けより、首争いをしつつその首を掻き切っている。

 ・・・・徳川方のやり方は、どうもそうだ。
という旨のことを、「長沢聞書」は語っている。

 真田昌幸が亡くなるとき,次のような言葉を残したことをブログでも書きました。
http://selfyoji.blog28.fc2.com/blog-entry-828.html

然れども我は老功(巧)なれば人に信ぜらる。
信ぜらる時は、謀事用ひらる也。
汝は才智は我にまけざれど、惜哉(おしいかな)戦場の数少なければ人信ぜず。
謀事も亦用ひられじ。

 さて,幸村もその最期を迎えようとしています。そのときに,あの昌幸の言葉を思い出します。


 この合戦に、序戦というものがなかった。接戦と同時に、早くも混戦の様相になった。
(わが策は、ついにやぶれた)
と、茶臼山の幸村は、蔡采を投げつけたい思いでおもった。考えてみれば大坂入城以来、何度となく軍議がおこなわれたが、幸村の策が容れられたことはまれであった。そなたでは無理である、と亡父の昌幸が息をひきとるにあたって幸村にいったことばを、いまさらのように脳裏によみがえらせた。亡父昌幸は戦術家として無数の成功例と栄光をもっていたが、幸村は大坂に入城するまでは世間では無名の存在であったにすぎず、世間が自然に威服する履歴がなかった。冬ノ陣における真田丸での善戦によってようやく城内の者たちが幸村の器量をみとめるようになったが、それでもなお、幸村の能力が豊臣家の悲運を挽回するに足るものだとまでは評価していなかった。
幸村の命令が威厳をもって全軍にゆきとどくというぐあいには、とうていゆかなかったのである。
関連記事
スポンサーサイト




Comment

 秘密にする

Track Back
TB*URL

Copyright © セルフ塾のブログ. all rights reserved.