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セルフ塾は閉めましたが、そのままの名前でブログを続けます。独学,独習。教わるより,学ぶを重視。 セルフラーニングの方法,英語,数学などの情報を発信するつもりです。

受験をマラソンに喩える
 面談で話したことをもうひとつ。

 中学3年生は,基本的に全員沖縄県県立高校統一プレ入試を受けました。そしてその結果を見ながら話をします。

 AランクからEランクまで,志望校判定が行われます。Aランクは80%の合格圏,Eランクは圏外です。CとDの間が合否のボーダーラインです。

 さて,Aランク,Bランクだからということで合格が保証されたわけではありません。今の実力で入試に入れるということを意味するのではないのです。

 そこで,ぼくはマラソンに喩えます。

 マラソン42.195kmを走っているとします。読谷高校の定員は320名。だから,ゴールするときに320番以内であれば読谷高校に合格だということです。

 さて,第1回のプレ入試を受けたときは8月。ぼくの感じではマラソンの折り返し地点。そして今回の第2回プレ入試は12月。これは35km地点くらいです。

 いまあなたはAランクだから200番くらいを走っているようなもの。だから確かに悪くないところを走っている。
 だけど,まだゴールしたわけではない。あと7km残されている。テレビのマラソン中継を見ていても,この地点から勝負が始まる。そこから飛び出ていくものがあるし,それに付いていけない人がいる。力つきてずるずると落ちていく人がいる。全体的にラストスパートに入る。

 この段階でAランクということは,いまの位置をキープしていたら,合格できるということだ。Aランクだということで気を緩めたら後からくる人に抜かれてしまう。そしていつのまにか320番以下になっていて不合格ということもある。

 これから2ヶ月のあなたたちの学力の伸びというのは驚異的だよ。びっくりするくらいだ。この時期にぐーと伸びていく人が多いなかで,ちょっとでも油断するとすぐに順番が下がってしまう。

 だからAランクだからと安心しないで,走り続けなければいけないんだよ。


 (Dランクの人に)
 読谷高校定員は320人。あなたはいま330番くらいを走っている。だからこのままの調子では不合格。でもあと2ヶ月でこの10人を抜いてさらに前に進むことができれば合格できるという位置にいると思っていい。320番の背中がいま見えている。走っていて,あの人を抜けば合格できるという位置にいる。だからがんばりしだいだということだ。

 でも,その320番の人もあなたが来るのを待っているわけではない。彼は彼なりに必死で走っている。だからあなたが来たらもう先に進んでいる。それを抜かなければならないのだから,かなり難しいということだ。もちろん無理ということではない。あなたがどこまでがんばることができるかということだ。


(Cランクの人に)
 読谷高校定員は320人。あなたはいま310番くらいを走っている。だからこのままの調子では合格できる。しかし,あなたを抜こうと必死で走っている人の足音がすぐ後ろで聞こえる。その人たちに抜かれたら不合格ということ。まったく余裕がない。少しでも油断するとすぐに抜かれてしまう。
 抜かれないためにはだれにも抜かれないというくらい走らないといけない。もっと前の人を抜くくらいのがんばりが必要だ。

テストに強い子,弱い子
 今場所のすもうは横綱朝青龍の優勝で終わりました。ぼくも多くの人と同じように,朝青龍が負けるのを期待して注目していました。しかし,場所前あんなにひどく批判されていたのに,結局は朝青龍の優勝。すごいです。

 勝負に対する執着心がちがうのでしょうね。

 セルフ塾の卒業生のErikoさんの文が沖縄タイムスに載っていました。いまモンゴルにいます。モンゴルの人は勝負が好きだそうです。とにかく勝ち負けにこだわる。

 子どもたちをみていて思うことがあります。ふだん勉強を教えていてけっこうできると思っている子がテストではふるわない。逆にできないと思っている子がテストではいい点数をもらってきます。

 テストに強い子,弱い子がいるのです。
 原因はいろいろ考えられるでしょうが,テストに対する執着度の違いがあるのではないでしょうか。テストでいい点を取りたい,席次を上げたい,そういう気持ちが強い子はいい点数をもらってくるのです。
 生徒はだれでもがいい成績をとりたいと思ってはいます。しかし,そのこさに差があるのでしょうね。それが濃い子はむんむんとぼくのところまで伝わってきます。
 そういう気持ちは,テスト前に集中して学習に取り組み,塾だけではなく家に帰っても勉強をし,またテスト中もなんとか問題を解くように努めていると思うのです。
 とにかくいい点数を取るんだ,という気持ちがいろいろな面にあらわれるのでしょうね。

 その気持ちを持たせるのは第三者には難しいです。学力はあるが成績に淡泊である子には,もちろん気持ちも大切だということはできるのですが,それを変えることは難しいです。ぼくの言葉がどれだけ届いているのだろうかと悲観的です。
 本人も頭では理解できるのでしょうが,それが気持ちまでは伝わらないのでしょうね。

 そういうぼくも成績にはかなり淡泊でした。だから気持ちはわかるのですが・・・。

数学・・・遺伝と環境
 2月11日に,NHKで「双子の不思議に学べ」をやっていました。

 科目の中では,数学がいちばん相関が低いということでした。つまり,他の科目に比べて双子でも一致度が低いということです。数学の能力に関して遺伝子の影響が比較的少ないといえるのでしょう。

 最初は意外に感じました。生徒に教えていて数学のセンスに個人差が大きいことを感じていたからです。すぐに理解してくれる子がいる一方で,なかなか分かってくれない子がいます。図形では,男子の方が女子よりもすぐれています。
 番組の中でも言っていましたが,空間図形の認識において,男女差がはっきり出ているとのこと。

 それで,数学に関しては,遺伝子の影響は大きいだろうというのがぼくの考えでした。

 その後ゆっくり考えてみると,数学で相関が低いというのも納得です。

 なぜなら,数学ほど教えやすい科目はないからです。

 学習に自信をなくしている子に1科目だけ徹底して教え,できるという自信をもたせ,他の科目にもやる気を出させるという方法があります。
 そのときに,ぼくは「算数,数学」をさせた方がいい,と以前から主張していました。

 数学,算数の場合は,何をやればいいのかはっきりしています。できた,できないもはっきりしています。だから,とても教えやすいのです。できるようになったという実感がわくのも数学が最適です。

 また,できない子には,計算だけはできるようにしようという指導もできます。

 そういう意味で,数学,算数は環境の影響をとても受けやすいのです。

 一番教えにくいのは国語です。そして成績が上がりにくい。何を覚えたから国語ができるようになったというのはほとんどありません。ある意味で総合的な力がためされます。だから,環境の影響を受けにくいともいえます。

 ただ,日本人に育てられたら日本語を話すようになります。胎児のときから国語教育が始まっています。その後の親や兄弟といった言語環境の中で育ちます。環境の影響を大いに受けているのが国語とも言えます。

 英語はその次に教えにくい科目です。教えることはできるのですが,ある程度の力がつかない限り点数に結びつきません。

 理科,社会は,数学と,国語,理科の中間の感じです。何をやったらいいのかははっきりしています。勉強もしやすいです。

 ただ,理科,社会は何が出題されるのかはっきりしないことがあります。
 数学では,二次方程式の勉強をしているときは,定期テストでは二次方程式が必ず出題されます。高校入試でもかなりの程度傾向を見抜くことができます。数字が変わるだけということもよくあります。

 しかし,理科,社会はそのまま出るということはありません。ある意味では内容を読みとる力がないと解けません。

 思いつくままに書いてきましたが,遺伝と環境というのは,簡単に分けるわけにはいかないなあという感想です。

もう『知らない』という状態には戻れないのたなぁ
入れたり出したり (角川文庫)

 前回は,酒井順子さんの「入れたり出したり」を紹介しました。
 次の部分については,教育的な立場からそこだけでまたひとつ書きたいです。


 が、ふと寂しくなることもあるものです。それは、
「ああ、もう『知らない』という状態には戻れないのたなぁ」
と思った時。

たとえば今の私は、カラスミの味を知っています。カラスミを初めて食べたのは、社会人になりたての頃、銀座の飲み屋さんに上司に連れていってもらった時のこと。大根に挟んであるオレンジ色のカラスミがあまりにもおいしくて、
「こんなにおいじいものがあるんですね~っー」
と、私は大感激した。

 今でもカラスミを食べる時は、”おいしいなぁ”と思うわけですが、それは初めて食べた時のあの感動には、明らかに劣る。既にお馴染みの味となったカラスミをかじりつつ、”カラスミの味を知らない時代には、もう戻ることかできないのだ”と思うと、寂しくなるのです。

 何かを「知らない」という状態から「知っている」という状態になるのは、その何かか身近な問題であるかぎりは、ある程度の努力をすれば可能です。が、「知っている」という状態から「知らない」という状態に戻すのは、痴呆にでもならない限り、ほぼ不可能。

 一度セックスをしてしまった人は、たとえ処女膜再生手術を受けても処女ではないし、昔野球をやっていた人は、たとえニ十年間のブランクがあっても、再びバットを握れば昔と同じようなフォームで素振りをしてしまう。

 私達は苦に憶えたことを忘れることもできるし、世の中には「白紙に戻す」という言い方もあるけれど、忘却によって得られる白紙は、鉛筆で書いた文字を消しゴムで消して白くした、という感じなのです。過去に読んだことがある本を、忘れてもう一度読んでいて、”ハテ、何かこの読み心地、以前にもー度味わっているようなないような・・・・”と思うように。

 そして私は、「知らない」という状態がいかに貴重なものであったかを、しみじみと思い知るのでした。知っているべきことはほとんど知らず、知らないでいいことばかり、たっくさん知ってしまったような気がする今。



 まだ,しばらく続きますが引用はここまで。そうだよなあ,と思います。

 著者のいいたいことからはずれるかもしれませんが,
 教育をするものにとってはこのことは理解していた方がいいと思うのです。

 ぼくら教育者は知っていることを,それを知らない人に教えるのですね。

 ぼくらは知っている。しかし彼らは知らない。
 知らない人の身になることができないのです。どんなに努力しても。

 「隠し絵」というのがありますね。例えば,ごちゃごちゃした絵に何か動物が隠れている。何が隠れているのかをさがす。

 最初は見えないのですが,そのうちに見える瞬間があります。そして,その後は見えなくならないのです。見えない状態にならない。後戻りはできません。

 だから,別の人がさがしてあっちこっち見ているのがおかしくてしようがない。
 なぜ,見えないのだろうと思う。ついさっきまでは自分も同じだったのに。

 数学でもそうです。図形の問題がある。慣れていると,何を見たらいいのか着眼点がすぐに目に入ってきます。向こうの方から飛び込んできます。

 しかし,できない人はとんどもないところを見ている。

 そこで,ぼくらは「なぜ,分からないんだ」と怒鳴ってしまうのですね。

 知らない,分からない,ということが理解できない。

 でも,それでは教育はできないのです。できない人の立場に立つことができなければ。
 知っているけど,できるだけ知らない人の気持ちも理解しながら,教えるというところまで自分をもってこなければいけないのですね。なかなか難しいです。 

生徒の評価は,教師の評価

 きょう(4月23日)付け,琉球新報朝刊論壇に掲載されたぼくの文です。


 通知票で,ほとんどの生徒に評価2を与える教師がいて,理由をきくと,生徒はあれもできない,これもできない,と生徒の欠点をあげるのだそうです。教師にすれば生徒の未熟さが目につき,2をつけたくなるのでしょう。

 しかし,生徒の評価が2でしかないのは,その教師の教え方が2なのではないでしょうか。

 分かる人,できる人にとっては,分からない人,できない人が不思議で仕方がありません。なぜ分からないのか,なぜできないのか,それが理解できません。分からない人の気持ちが分からないのです。できるようになれば,できなかった昔の自分のことはすっかり忘れるのです。

 「なぜ,こんなことが分からないんだ」

 「いま教えたばかりじゃないか。なぜ教えた通りにできないんだ」

 ぼくら教える側はついこのようなことを言いたくなるものです。いや,実際に言ってしまうことも少なくありません。

 しかし,考えてみましょう。教え方が下手だと子どもは分かるようにならないし,教えるのがうまければ分かるようになるはずです。だから,子どもができないのは,教え方が下手だということになります。子どものできる,できないは,教え手自身に与えられた評価なのです。

 子どもの立場で言えば,「なぜ分かるように教えてくれないんだ」「ぼくができるように教えてくれよ」ということになるでしょう。

 それに対して教師は「ちゃんと教えたのにできないんだ。分かるように教えたのに,子どもは分かってくれないんだ」と言うかもしれません。それは教えた「つもり」ということにしかなりません。分かるように,できるようになって初めて教えたことになるのです。教える側が変わることによってしか子どもは変わりません。

 子どもが分からないのを分かるように,できないのをできるようにするのが教える者の役目なのです。だからぼくらは,なぜ子どもは理解してくれないのだろう,どのようにすればできるようになるのだろうと常に考え,そして絶えず教える工夫を重ねなければいけないのです。

 子どもが理解しようと努めていない,よく考えようとしない,説明を読まない,聞かない,そのようなときはぼくもその生徒を叱ります。しかし,理解しようと努めているが理解できない生徒に対しては,どのようにすれば理解してくれるのかを考え,いろいろと教える工夫をしていかなければいけないと思うのです。

ルーティンにする

 ぼくが管理している mixi「セルフラーニング」のコミュに立ち上げたトピックです。
 「ルーティンにする」

 

前のトピックで,ダーライオン(dachan)さんのコメントに,

>> 小さいうちは、こんな風にルーティーンを作ってしまうのが心理的抵抗の少ない方法だと思います。

 というのがありました。セルフラーニングにおいて,このルーティーンはとても大切なものだと思います。

 カタカナ語なので,念のために,辞書で調べた意味を書きます。


ルーチン【routine】 《「ルーティン」とも》

1 きまりきった手続きや手順。また、日常の仕事。日課。「―ワーク」


 つまり,毎日決まった時間に歯磨きをする人は,その歯磨き行動はルーティンです。

 ダーライオンさんのところは,毎日の勉強がルーティン化しているということです。すばらしい。

 ルーティン化していると後は楽です。決まった時間にはそれをするのですから。

 このルーティン化ととても関連の深いのが「一貫性」です。決まった時間になると決まったセリフで「さあ,いっしょに算数しよう」と誘う。すると,子どもはそれを体で覚えてその時間になると算数モードに切り替わるということになります。

 ぼくは,正午になると犬,ねこに餌を与えます。すると犬やねこはもうその時間が分かるのですね。ちゃんと待っていますよ。

 ところが一貫性がないと,ルーティンになりません。

 ぼくは,「親は最悪の教師」とよく言っています。

 感情的になるということと,一貫性がないということでそう思っています。子どもとの約束は簡単に破ってしまう。7時からは勉強の時間と決めても,お母さんの方がいろいろ用事があって守りません。それではルーティンになるはずがありません。
 ルーティンになるまでは,意固地なくらいにそれを守る必要があります。

 そして,ルーティンになれば,何の力もなく走っていきます。

 自転車もこぎ始めはきついです。しかし,スピードに乗ればペダルをまわさなくても自転車は走っていきます。それと同じですね。

 このことは,子どもに勉強をさせることだけではなく,自分がセルフラーニングをする場合でも同じです。決まった時間に決まった場所で勉強をする。それがルーティンになればセルフラーニングは半分は成功です。

学んで思わざれば則ちくらし
高校生が感動した「論語」 (祥伝社新書)

 論語の中の有名な一節から

子曰、學而不思則罔、思而不學則殆。

子曰わく、学んで思わざれば則ちくらし。思うて学ばざれば則ちあやうし。


 「高校生が感動した『論語』」には次のようにあります。

 人から知識を教わるだけで自分の頭を使って考えなければ,本当に理解したとは言えないし,かといって,自分一人で考えて満足していると独断に陥ってしまう。両者の兼ね合いが何とも難しいポイントだよ。


 そして,解説には,

○これは教育の基本を述べている。本来はまず自分で考え,自分なりの答えを出してから先例と比較してみるというのが正道なのだが,効率のために既に出ている答えを次からつぎに教えているのが現状である。その結果,単に暗記力のよい者がエリートと呼ばれているのだ。

○哲学者ショーペンハウエルも「読書について」の中で「自ら思索する者は自説をまず立て,後に初めてそれを保証する他人の説を学び,自説の強化に役立てる」と述べている。



 論語すべてではないのですが,この部分はまったく同感です。

 きのう,4月新入塾者が習いにやってきました。国語の指示語の問題です。それがその日の課題で,自分の答えを何も書いていません。だから,

「間違えてもいいから,とにかく自分の答えを書いてごらん。間違えていたら次にいっしょに考えよう」と追い返しました。

「自分で考え,自分なりの答えを出(す)」
 これはとても大切なことだと思います。そうしなければ自ら思索するということが身に付きません。

「教える」と「教え込む」
 studyとlearnの違い,分かりますか。studyは「勉強する」,learnは「学ぶ,学習する」という訳がふつう当てられます。

 政村秀實著「図解英語基本語義辞典」から抜粋します。


learn 「覚える,学ぶ,」五感を通して情報・知恵・技術などを総括的に身につける。

study 「勉強する」対象を細かく観察して考察を加えること。studyは身体機能のうち,目を用いることで始まる。studyされたものが成果として残ることをlearnと言う。

 studyの対象のほうが,learnの対象に比べて具体性が高く,したがってstudyは対象を「かじる」ように学べるが,learnは「飲み込む」ように修得しなければならない。あるいは,study+study+study→learn ,つまりstudyという動作の成果としてlearnという状態が生じる。


 「studyという動作の成果としてlearnという状態が生じる」のです。
 だから,studyしたけど,learn していない,ということもありうるのですね。
 
  ぼくは,「教える」「教え込む」にも似たような関係があるように思います。

 教師は「教えた」。しかし,その成果は生徒の頭には残っていない,という状態です。

 「教える」は,「知識・学問・技能などを相手に身につけさせるよう導く。」ことです。
 それに対して「教え込む」は,「完全にわかるまで十分に教える。」ことです。

 「きのう,ちゃんと教えただろう。なぜ,きょうはできないんだ」というとき,確かに「教え」は,したのでしょうが,「教え込ん」ではいなかったのです。

 ぼくらはついつい教えたつもりになります。しかし,ただ単に表面的に教えるということではいけないのです。生徒の頭の中に教えたことがちゃんと入って残るまでしなければいけないのです。
 「教え込む」というと,何かギューギュー頭に詰め込むようなニュアンスが感じられますが,ぼくの言いたいのはそうではなく,「教える」という行為の成果としてきちんとその内容が生徒に伝わっているのかをいつも気にしなければいけないということです。教えたということで自己満足するな,ということです。

ピュグマリオーン
 「ピグマリオン効果」ってご存知ですか。

 このブログの次の記事にも少し書きました。

アダルトチルドレンとピグマリオン効果


 「教育心理学における心理的行動の1つで、教師の期待によって学習者の成績が向上すること」です。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


 とても有名で,知っている方も多いと思います。「ピグマリオン効果」については次の記事で書きたいと思っていますが,今回は,その名前の由来になった話を紹介しましょう。

 出典は,トマス・ブルフィンチ著,大久保博訳「ギリシア・ローマ神話」(角川文庫)です。


 ぼくが読んだのや上下1冊になっています。読んだのは大学卒業直後だったと思います。もうだいぶページが赤茶けています。

 ピグマリオンは王様だったという説明が多いですが,この本にはそれはありません。

ピグマリオンという名称は、ギリシャ神話を収録した古代ローマのオウィディウス『変身物語』("Metamorphosen"、訳に『転身物語』とも)第10巻に登場するピュグマリオン王の恋焦がれた女性の彫像が、その願いに応えたアプロディテ神の力で人間化したと言う伝説に由来する。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)




ピュグマリオーン

ピュグマリオーンは、女には非常に多くの欠点があるのを見て、とうとう女性を忌み嫌うようになってしまい、一生独身でくらそうと決心しました。

 彼は彫刻家で、すばらしい腕をふるって象牙の立像を彫っていたのですが、その作品の美しさは、生きた女なぞ誰ひとりそばにも寄せつけぬほどのものでした。それはまったく申し分のない乙女の姿で、ほんとうに生きているように見えました。そして動かないでいるのは、はにかみのためなのだとしか思えないほどの出来栄えだったのです。彼の技術は実に完璧でしたから、人工の跡も残さず、できあがったものはまるで大自然の手になるものかとも思えました。

 ピュグマリオーンは自分自身の作品に見とれ、そしてとうとうこの作りものの女性を恋するようになりました。彼は、この像がほんとうに生きているかどうか確かめでもするかのように、何度も手を触れてみました。そしてそれでもこの像が象牙にすぎないのだと信じこむことができませんでした。

 そこでこの像を抱きしめたり、若い娘たちがよろこぶような贈り物を・・・つまり、美しい貝殻や滑らかな小石や、かわいい小鳥や色とりどりの花や、じゅず玉や琥珀などを、贈りました。また体には着物をきせ、指には宝石をはめ、首には首飾りをかけてやりました。耳にも耳飾りをつけ、胸にも真珠のくさりをかけてやったのです。着物はよく似合って、彼女は裸でいたときにもおとらぬほど美しく見えました。

 彼はテュロス染めの布を張った臥床に彼女を寝かせ、彼女を自分の妻と呼び、彼女の頭をすばらしく柔らかな羽根枕の上にのせてやりました。それはまるで彼女がその柔らかみを喜ぶことができると思っているかのようでした。

 そのうちにアプロディーテーの祭りが近づいてきました・・・キュプロスの島で盛大に祝う祭りです。生贄が捧げられ、祭壇には香が焚かれ、その香の匂いがあたりー面にひろがりました。

 ピュグマリオーンは祭礼での自分の務めを果たしおえると、祭壇の前に立って、はにかみながら言いました、「神々さま、あなたがたがどんなことでも叶えてくださいますなら、どうかお願いです、私にお授けくたさい、私の妻としてして」・・・彼もさすがに「私の象牙の乙女を」とは言えず、そのかわりにこう言いました・・・「私の象牙の乙女に似た女性を」。

 この祭りに臨席していたアプロディーテーは、その言葉を聞くと、彼が言いたかった心の内を悟りました。そこで彼に対する恩寵のしるしとして、祭壇に燃えている炎を三度、空にむけて鋭くもえたたせたのです。

 ピュグマリオーンは家に帰ると、自分の作った像のところへ会いに行き、臥床に身をかがめて、乙女の口に接吻しました。するとその唇はなんとなく暖かいように思えました。そこで彼はもういちど唇を押しあて,自分の手を乙女の体の上に置いてみました。すると象牙はその手に柔らかく感じられました。そして指で押してみるとヒュメトスの山の蜜蝋のようにへこみました。

 彼は驚き喜びながらも、半信半疑で、自分が思いちがいをしているのではなかろうかと心配して、いくどもいくども恋にもえる熱い手で、この憧れの対象に触れてみます。ところが像はたしかに生きていたのです! 血管は、押えてみると指の下でへこみ,放すと元どおり円くなりました。

 そこでようやく気のついたこのアプロディーテーの崇拝者は女神に感謝のことばを捧げました。そして自分の唇を自分と同じように血のかよっている唇の上に押しあてました。乙女はその接吻を感じると、さっと顔を赤らめ、内気な両の目をこの世の光に向けてあけると、同時に、恋人をじっと見つめました。

 アプロディーテーは自分のまとめたこの結婚を祝福しました。そしてこの二人の結びつきからパポスが生まれました。あのアプロディーテーに捧げられたパポスという町は、この子に因んで名づけられたものなのです。


ピグマリオン効果
 前の記事では,,ギリシア神話の「ピュグマリオーン」を紹介しました
 その神話にちなんで名付けられた心理学の用語に「ピグマリオン効果」があります。それを紹介します。

 アメリカの教育心理学者ロバート・ローゼンタールが次のような実験をしました。

 小学生に普通の知能テストをさせます。そして、その結果を担任の教師に「このテストはどの子どもの学力が伸びるかどうか,予測できるものです。先生にだけ、将来伸びる子の名前を教えましょう。」と言って,名前を教えました。しかし、その生徒は知能テストの成績に関係なく、無作為に選ばれた子でした。つまり,先生をだましたのですね。

 それから1年後、再び知能テストをしました。すると、名前をあげられた子は、そうでない子に比べて明らかに成績が上がっていたのです。

 なぜ,子どもたちの成績があがったのでしょうか。

 次のように考えられます。先生はその子ども達が伸びると期待しました。そして,あなたならできるだろう,という期待をこめた態度で接したのです。授業中,積極的に質問をして答えさせます。答えにつまった様子を示したとき,「あなたならできると思うよ」と励ましたことでしょう。先生の手伝いもさせます。そして肯定的にみたのです。子どもたちは先生がそのように接するものですから,それに応えようとしたのです。だから成績が伸びたのです。

 このように、「他者に対する意識的・無意識的な期待が相手に伝わり、期待通りになること」を「ピグマリオン効果」とよんでいます。先に紹介したギリシア神話にある面でよく似ています。

 なお,このピグマリオン効果は,心理学的にまだ認められていないようです。きちんとした実験で同じような結果がまだ得られていないとのことです。

 でも,ぼくは効果はあると思っています。

R汰くんとそのお母さん
 R汰くんとそのお母さんについて書きます。
 2005年の名簿にあるので,もう4年前です。R汰くんが中学2年に上がった4月にセルフ塾に入塾し,1年間いました。

 入塾する前にお母さんから相談がありました。学習障害を持っていること,それでも,学校の授業には何とかついていっているとのということでした。

 とにかくお預かりします。学習を進めながらやり方を考えていきます。お母さんとぼくらで協力しあいながらR汰くんが少しでもいい方向に向かうようにしましょう,と言いました。

 学習障害があることはすぐに表れました。おだやかな素直な性格ではありました。しかし,学習への集中が続かないのです。1つ年上の兄さんもいっしょに入塾しました。兄さんも優しい子で,弟のことが気になるようで声をかけたりしていました。
 資料として塾から保護者にあてて出した「個人欄」を読んでいたらそれをそのまま載せた方がよく理解できると思い,それを掲載いたします。
 「個人欄」というのは,塾のニュースレターの最後に設けた,生徒個人の塾での様子などを保護者に知らせるコーナーです。

 この四月に入塾して一週間あまりがたちました。
 静かに席に座っています。しかし様子を見ると指遊びをしたり,キョロキョロしたりと,あまり学習に集中してるようではありません。質問予約表に名前を書いて質問をしながら進めるように言っています。そして私どももできるだけ呼び出して教えるようにも努めています。説明を自分で読み取って進めることにが困難なので,課題を十分にこなすこなすことは難しいです。最初のころは数学に的を絞って,できるところを伸ばしていけばいいのかと考えています。
 先日は数学の自分でやったところがかなり正解になったようで,とてもうれしそうに報告していました。 (4月20日)

 おとなしく席に座っています。しかし,何もしないでいることがほとんどです。R汰くんの席を目の前にして,頻繁に声をかけるようにしたり,席を回りながら進み具合をチェックしたりしています。席が近くの(同級生の)Y気くんもよく声をかけてあげたりしています。また,質問予約表には必ず名前を記入するように指示しています。対峙して,問題を解かせると,ゆっくりではありますが,けっこう解くことができます。けっして学力が低くくはないようです。これまでお母さんがよく勉強させてきたのだろうなと感じています。(6月15日)


(しばらくしても,学習がなかなか思うように進まないので,家でお母さんが数学,英語を指導し,他の科目を塾でやることにしました)

 庸次の隣に座らせて,いつでも声をかけることができるようにしています。それでも他の生徒を教えている間は,ほとんど自分では進めることができないようです。とにかく,頻繁に声をかけ,進み具合をチェックするようにしています。そして細かく指示を与えながらさせています。
 家での学習はよく進んでいますね。数学や英語の進み具合をみると,お母さんがよくがんばっているのが分かります。引き続き協力しながらやっていきましょう。(8月10日)

 すぐ隣に座らせて,絶えず声をかけるようにしているのですが,ゆっくりゆっくりで,なかなか学習が進みません。こなせるのはその日の課題のよくて3分の1くらいです。やればできるのですが。もっと集中できればいいのですが。とにかく,声かけは続けていこうと思います。
 家では順調ですね。  (10月14日)


 11月22日,24日,25日に期末テストがありました。3週間前からそれに向けた勉強でしたが,その間,家で学習を見てもらいました。
 テスト勉強が終わった次の日だったと思いますが,集中して課題に取り組んでいて,その日のノルマをすべて終了して,早めに帰りました。やる気になればできるんだと思いました。そのやる気をどのように引き出すかが課題ですね。(12月8日) 

 意固地なところがあり,根比べをすることがよくあります。学習態度は相変わらずで,少し目を離すと自分の世界に入り込んでしまいます。
(2月8日)

 学年が変わりました。中学2年生のとき(2005年度)の1年を振り返ってみます。
 4月に入塾しました。やればできる力を持ちながらも,やる気を持たせることができませんでした。隣の席に座らせて,監視の目を強めたり,基準内の時間に課題をできたらほめてあげたりといろいろ工夫はしたのですが・・・。大勢を見ながらということもあり,私どもの力不足を感じました。結局はお母さんの方が私どもより力をつけてあげられると思います。この1年間,お母さんと相談しながら指導してきて,私どももいろいろ勉強になりました。来年は卒業し,R汰くんにとっていい進路が見つけられたらいいなあ,と願っています。その際は,連絡いただければうれしく思います。(4月20日)



(以上が,個人欄の記述です。3年に上がるときに,受験もあるので,ということで,塾を辞めてお母さんが勉強をみることになりました。
 中学を卒業後,進学し,物作りの好きな彼の長所を伸ばす方向でがんばっているとのことです)

 ぼくがここで書きたいことはR汰くんのお母さんには負けた,ということです。脱帽です。

 R汰くんの兄さんの話では,R汰くんに対し,お母さんはとてもきびしいそうです。そして,きちんきちんと学習をみてあげていたようです。だからこそ,それなりの学力をつけてきたのです。

 「親は最悪の教師」とばくが言うとき,それは親子が感情的に近すぎること,そして時間的にルーズになることが原因だとしています。親ということで,最悪の教師になる条件を持っているのです。

 しかし,それを乗り越えると,「最良の教師」になることもできるのです。子どものことを愛しているのはお母さんです。そして,その子のためだけに時間を作ることもできます。
 ぼくは教えることのプロです。とにかく教えることでお金をもらっています。もう20年も教えてきました。

 しかし,お母さんの愛ほど強い愛情はありません。一人の生徒としてR汰くんのことを考えてはいましたが,それはお母さんの足下には及ばないものです。

 また,ぼくは,R汰くんだけを指導するわけにはいきません。他の生徒に対しても責任を負っています。だから,ずっとR汰くんのことを教えているわけにはいかなかったのです。

 こういうことを考えると,親は最良の教師としての条件も備えているのです。そのことをR汰くんのお母さんに教えてもらいました。


教育における強制
 だいぶ前になりますが,新聞に載っていた記事をかいつまんで紹介します。
「ある中学校で、指導に従わなかったとして、教諭が女子生徒に対し頭を両手でつかみ、左右に揺さぶり、保護者がそのことを訴え、学校長は体罰と認め、謝罪した」

 簡単な記事で、詳しい事情は知らないのですが、この記事を読んで感じ、思ったことを述べます。

 「声に出して読みたい日本語」で知られる斎藤孝氏は、「子どもに伝えたい<三つの力>」の中で「学校教育の最大の長所は、強制力があるということである」と述べています。私もまったく同感です。

 戦後日本は民主主義の国になり、教育も民主的になりました。しかし、その民主主義をはき違えている人も多いのです。強制することが民主的ではないと思い、教育においても強制することに腰が引けている場合があるのです。確かに、子どもの人格、自主性は重んずるべきです。しかし、教育においては、必要なことは強制してでもさせるべきです。

 教師も生徒も人間としては平等です。しかし、教室の場では、教える、教えられる関係にあり、同じ立場ではありません。生徒は教師の指示には従わなければなりません。そのことを教師がしっかりつかんでいないと教育はうまくいきません。学級崩壊というのが多くなってきているそうですが、この強制力がうまく働いていないからではないでしょうか。

 ぼくは夜、学習塾で生徒の指導をしていますが、生徒と根比べをすることがあります。私の指示に従わない場合は、従うまで引かないのです。そう多くはないのですが夜中の12時をまわることもあります。私の指示には絶対に従わなければいけないということを教え込むのです。そういう指導を続けていくと生徒のほうから「(ぼくが)ダメといったら、ダメだ」と思うようになり、生徒同士で「どうせダメだから言うとおりにしたほうがいいよ」とアドバイスするようになります。

 教師は、それくらいの強制力はあるのです。そのことに自信を持ってもらいたい。

 親に対しては、まずは、親の指示には従う子に育てて欲しいです。そして教師の指導には従うような子に育ててもらいたい。ある本で次のような話を読んだことがあります。ある大学教授が自分の子どものテスト問題を見ると、間違えた出題がされているのに気づきました。しかしその教授は子どもにはそのことを言わず、教師に手紙を書き、その間違いを指摘したそうです。子どもに知らせると「あの先生は何も知らない」と先生をバカにして、その後の授業をまじめに受けないことを懸念したからです。

 子どもが教師をバカにしては子どもにとっても不幸です。少なくとも子どもの前で教師をさげすむようなことは控えるべきです。

 もちろん、学校が強制力を持っているといっても、それを笠に着て、どのような横暴なことも許されると教師が思ってはいけません。教師自らが子どもたちや親に尊敬される存在になるように心がけなければなりません。それはぼく自身への戒めでもあるのですが。

 このことは,親が家庭で子どもを指導するときも同じです。勉強を教えるときに限りませんが,親は子どもに強制的に何かをさせる力はあります。

 子どもと友達のような関係でいたい、という親も多くなっているようです。「地震・雷・火事・親父」のようないつも怖い親父である必要はありませんが、いざというときは強制してでも親のいうことに従うことは大切です。親の権威は子どものしつけに必要です。そういうしつけが自制心のある子に育ててくれます。子どものいうことを聞いているだけではわがままなに子にしていしまうのです。

「分かる」と「できる」
 ぼくが管理するmixi「セルフラーニング」に立ち上げたトピックです。
「分かる」と「できる」

 糸山 泰造 著「絶対学力」では,できることより,分かることをかなり重視しています。以下,絶対学力からの引用です。
絶対学力―「9歳の壁」をどう突破していくか?



飛躍できない子供たちの存在を見えなくしている原因は「分かっていなくても、できるようにさせられてしまっている」ことにあります。「できれば分かる」という宣伝文句に乗せられて手順だけを覚えて条件反射的に答えを出し、「できたできた、ドンドン進め」とやっているうちに、分かっていないことが山積みになり、取り返しかっかないことになってしまうのです。

 「できたから先に進む」は「高度な学習への移行」を意味してはいません。それどころか、新しい手順を覚えるという最も貧弱な学習を数多くしているだけです。これは多くの人たちが勘違いしている点です。できても分かるようにはならないのです。

 「分かっていないのにできる」子供にしたい親などいないはずです。ですが、小学校では個々の子供の理解度を確認してはくれません。そこで計算がスラスラとできたり、漢字を多く書けたりすると、即ち学力が高いと親は勘違いしてしまうのです。そして、この盲点をついて盛んに行われているのが考えない学習の代表である反射式プリントです。この種のプリントは分かっていなくてもてきるようにすることを目的に作られていますので、大変危険です。もちろん「分かっていないのにできるようになります」とは書いてありません。「できるようになるだけで、分かるようにはならないプリントを使っています」とも書いてありません。「できれば分かるようになる」という解説を読んで、親がそう思い込んでいるだけなのです。

 ですから、いつまで経っても分かるようにはならないのです。また、「分かっていないのにできる」状態になると、本人までもが分かっていないのに「分かっている」と思ってしまいます。これでは自発的な学習はいつまで経ってもできません。
私は「分かっていないのにできる」よりも「分かっていないならできない」方がずっといいと思います。なぜなら、病気なのに症状が出ないことほど恐ろしいことはないではありませんか。癌でさえも早期発見すれば治療できるのです。遠出をする時に、ガソリンが減るのを見たくないからと言って、車のガソリンメーターに目隠しをする人がいるとは思えません。親がすべきことは、目先の結果を気にして「できる」ことを追うのではなく、子供が本当の自信を持って生きていくことができるように「考える力」を育ててあげることなのです。

※注 反射式プリントとは「考える」という頭の活動を経由せずに条件反射的な反応を育成するためのプリントを指します。つまり、問題を解く場合に、その問題の意味を理解して答えを出すのではなく、問題の中にあるキーワードや数字に反応して機械的に(自動的に)知っている手順を実行することで答えてしまう習慣を付けるものです。例えば、文章問題の中に3と8という数字かあると、文章の意味を考えずに足したり引いたり掛けたり割ったりと裏付けのない計算をします。反射式は反復式のー種ですが、一般的な復習を目的としたものとは構造的に異なっており、反射式の中に「考える」という要素は入っていません。逆に「考えさせない」ことが反射式の主要素なのです。


(引用終わり)
 ぼくも「分かる」ことがとても大切だと思っています。ぼくの数学のテキストを見た人が「(理解することに)こだわりすぎているんじゃないか」と言っていました。
 確かにこだわりすぎていると思っています。数学ではとにかく理解することに重点をおくべきだと思います。そういう意味で糸山さんと同じです。

 上の「反射式プリント」というのは,たぶん公文式のことでしょうね。

 ぼくも,できればいいとは思いません。

 ただ,少し違うかもしれないと思うのは,生徒が十分に理解できないときにどうするか,です。
 ぼくは,理解できないときは,理解はできなくても計算はできるようにして,先に進みます。
 例えば,なぜ分数のわり算では,分子と分母をひっくり返してかけるのか,より分からないとします。そういう場合には,いまは理由は分からなくてもいいから,計算はできるようにしよう,と言って,「分数のわり算はひっくり返してかける」という操作を覚えさせ,とにかく進みます。
 ぼくのテキストでは,分数のわり算がなぜひっくり返してかけるようになったのか,きちんと説明しているつもりです。でも,それはかなり難しいです。
 そういうときにどうするかです。みなさんはどう思いますか。

見ぬ世の人を友とするぞ
 「魚を与えれば一日の飢えをしのげるが、魚の釣りかたを教えれば一生の食を満たせる」ということわざがあります。その通りですね。

 学習においては,知識を一つ与えたら,一つだけ賢くなる,しかし,知識を得る方法を教えたら,一生学ぶことができる,というところでしょう。

 だから「学び方を学ぶ」というのが大切です。

 その「学び方」で一番大切なのは「読書」です。ぼくもインターネットでいろいろ検索します。キーをたたいたら,欲しい情報が入ってきます。インターネットによる学び方も知っていたほうがいいですね。

 しかし,まとまった知識をしっかり深く学ぶには,やはり読書です。インターネットが読書に替わるということは今後もないと思います。

 だから,しっかり読書をして欲しいです。そして,読書をする力,読書をする習慣をつけて欲しい。
 なぜ,読書か。

 吉田兼好の随筆「徒然草」第十三段を引用します。

ひとり燈火(ともしび)のもとに文(ふみ)をひろげて見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。
文は、文選(もんぜん)のあはれなる巻々、白氏文集(はくしもんじふ)、老子のことば、南華(なんくわ)の篇(へん)。この国の博士(はかせ)どもの書ける物もいにしへのはあはれなること多かり。


 橋本 治 (著)「絵本 徒然草〈上〉」の訳です。

ひとりで灯りの下に本を広げて「見ぬ世の人」を友にするってさ、とんでもなく慰められることだよな。
本は、『文選』のジーンと来る各巻、『白氏文集』『老子』『荘子』、この国の学者達の書いたのでも、昔のはジーンとくるのが多いよな。


 「見ぬ世の人を友にする」,まだ会ったことのない人,いやもうすでに亡くなった人,遠い外国の人,そういう人を友にして語らうことが,読書ではできるんです。

 カフカは,遠いチェコの人です。そして,だいぶ前に亡くなっています。しかしぼくらは彼の小説を読むことができます。彼がぼくを友と思うことはありませんが,ぼくが彼を友と感じながら読むことはできます。

 本はそれを書いた人が自分の思いを凝縮してそれにこめているのです。読書をすることによって,それを直接ぼくらはその著者から聞くことができるのです。それこそぜいたくなことです。

一方伝達と双方伝達
 デジタル放送が始まって,テレビではよく「双方向番組」「双方向機能」ということが言われています。

 双方向番組(そうほうこうばんぐみ)は,視聴者が参加できるテレビ番組のジャンル。主にデジタル放送では、通信販売の商品を購入する際にを使い購入したり、NHK紅白歌合戦で紅白どちらが勝利するか投票などができる。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 ぼく自身は,まだ双方向番組を経験したことはありません。

 これまでは,「一方向番組」だったのですね。テレビ番組を作って,視聴者に流す,という一方通行。それに対して,視聴者から番組側への声も届くようになったわけです。

 さて,別の場面を考えてみましょう。
 極端な一方向の話は,朝礼での校長先生の話ですね。校長先生が一方的に生徒に向かって話をする。これは,一方向です。なお,英語のspeakは,このイメージです。

 それに対して,おしゃべりは双方向です。Aさんが「△□○×」,それに対してBさんが「☆△◎□●○×」,というように言葉のキャッチボールが行われるのです。英語のtalk は,このイメージ。

 さて,この二つの違いを頭に置くことは,子育て,教育,人間関係において,とても大切なことです。

 その違いがはっきりする実験があります。
 「感受性訓練」という本にあったものです。家庭でも,友人同士でもすぐにできますので,やってみてください。


1 一方伝達
まず、一方伝達の実験からお話ししましょう。みんなの中から有志をー人えらんで、前のほうに出てきてもらいます。この人はみんなに背をむけて坐り、みんなに見えないようにして、上の図形1をことばで1から順に説明します。みんなは説明を聞きながら、じぶんの紙に図形を書きます。伝達者は身振りや図解をしてはならない。もっぱら、言葉だけで説明するのです。指導者はみんなにむかって、つぎのように言います。
kanjuseizukei.jpg

(1)いまから、誰々さんが、簡単な図形をみなさんに書いてもらうように指示しますから、よく聞いて言われた通りに書いて下さい。

(2) 誰々さんには、できるだけ明瞭に、できるだけ完全に説明してもらいます。時間は必要なだけ十分にとってかまいません。

(3)しかし、みなさんが質問することは許されません。みなさんは「解らない」「困った」「もうー度言って」「フアッ」など声を出してはいけません。黙って、言われた通りにしなければなりません。また隣りの人のを見てはいけません。成績をつけるわけではあり
ませんから、カンニングはしないで下さい。

(4)いわれた通り、できるだけ正確に書くようにして下さい。

2 双方伝達

 こんどは双方伝達についてやります。
 伝達者はまえと同じ人にしますが、図形は別のものにします。ただし、困難度は前のと等しくなるように、あらかじめ調査されたものです。やり方は前と同じですが、次の指示をあたえます。

(1)こんどは、誰々さんが、もうーつ別な図形をみなさんに書いてもらうように指示しますから、よく聞いていて、言われた通りにかいて下さい。

(2)こんども、できるだけ立派な指示をしてもらいますが、こんどは前とちがって、誰々さんはみなさんのほうをむいて説明することにします。もし解らない所があったら、いつでも遠慮なく質問して下さい。何回反復してもらっても構いません。しかし、みなさんはジェスチャーを使ったり、ほかの人に答えを暗示するようなことを言ってはいけません。隣り同志見てはいけない点は前とおなじです。

(3)こんども、できるだけ正確に書くようにして下さい。


 一方伝達と双方伝達のちがいは,質問を許すか,許さないかです。
 この実験をやればとてもよく分かりますが,一方伝達では正確な図形はなかなか描けません。ほとんど不正確でしょうね。それに対して双方伝達はほとんど正解になります。

 教師が黒板の前に立ち,一方的に授業をするとします。どんなにうまい教師でもなかなか教師の伝えたいことは生徒に伝わりません。
 それに対して,生徒の質問をできるだけ引き出すように授業を進めると,かなり伝わります。
 
 家庭でもそうです。お母さんが一方的に話していたのでは,子どもに伝わりません。それよりも子どもと会話するように,言葉のキャッチボールをするとお互いの気持ちが通じます。

 勉強をみるときも,教えるというより,子どもが問題を解き,それにつまずいたときに,なぜつまずいたのかを考えながらヒントを与えたり,いっしょに考えたりするといいですね。

 ぼくは教材を自分で作っていますが,作って生徒に与え,それがどのように解かれているかよく観察するようにしています。よく間違えるところ,生徒がつまずくところは,まだまだ分かりにくい教材だということです。そういうところは工夫をこらして,もっとわかりやすいものに作り替えるようにしています。

 このように,いろんな面で,一方通行にならず,双方向で声が行き交うようにするように努めたいものです。

きょうの50より,明日の100
 教育というのは,投資です。
 つまり,「その将来を見込んで金銭や力をつぎ込むこと」です。
 いま得することではない。苦あれば楽あり,の世界です。
マシュマロ実験
「すぐほしい脳」と「がまんする脳」

 「苦あれば楽あり」に似たようなことわざで,
「きょうの50より,明日の100」のようなのがあったように思ったので,ネット上をいろいろ探すと,逆でした。

明日(後)の百両より今日(今)の五十両

【意味】将来の大金より、現在とりあえずまとまった額の金がほしい、ということ。
また、そのような当座間に合う金の方が本来人間には有用であるということ。明日のことはあてにならないから、今日確実に入手できる五十両をとるべし、という意味もある。(講談・鼠小僧次郎吉、野狐三次)


 教育の投資とはまったく逆ですね。
 似たようなのに,故事成語

【轍鮒】てっ‐ぷ

《「荘子」外物から》轍(わだち)の水たまりであえいでいる鮒(ふな)。危急がさしせまっていることのたとえ。轍魚。轍の鮒。

 荘子はひどく貧乏な暮しをしていた。ある日とうとう食べものがなくなってしまったので、近所の家に行って、一日分の米を乞うた。その家の主人は丁重に迎えて、こう言った。

「先生のような立派な方にわずかばかりの米をさしあげたりしては、私の家の名折れになります。あと五日もすると、千両の金が入りますので、それをさしあげましょう。」これを聞いた荘子は次のような話をして聞かせた

──昨日私が道を歩いていると、誰か呼びとめるものがある。ふりかえってみると、一匹の魚が轍の中で苦しげにもがいていた。私は不思議に思って、わけをたずねた。

川の神の使いで湖まで行く途中、あやまってこんなところに落ちてしまい、のどが渇いて死にそうだから、水を一杯恵んで下さいと言う。

私はいいことを思いついて、こう言った。「三日たったら湖に遊びに行くことになっている。そのときお前を連れて行って、湖に放してやろう。」すると魚は恨めしそうに答えた。

「私は今にも死にそうなのです。三日後に湖一杯の水を頂くよりも、いま手桶一杯の水を頂く方がどれだけ嬉しいかわかりません。」

 私は魚の苦しみがわからなかった自分を恥かしく思い、すぐに水を汲みに走った。

 荘子の話を聞いて、主人は深く恥じ、さっそく米をもってきて与えた。



 それも理解できますね。いま苦しんでいたら,明日のことより,いまが大切です。

 でも,教育者としては,逆を強調したいです。いま少しがまんして将来のみよう,ということです。

 いま,遊びたいでしょう。テレビを観たいでしょう。ゲームをしたいでしょう。
 しかし,それは少しがまんしましょう。勉強は楽ではありませんね。でも,いま勉強をすることで将来いろいろいいことがありますよ。
 というようなことですね。

 だから,
「きょうの50より,明日の100」です。

「クローズアップ現代」10歳の壁”を乗り越えろ~考える力をどう育てるか~
 きのう,6月18日(木)放送のクローズアップ現代を見ました。

 クローズアップ現代のサイトから転載します。


“10歳の壁”を乗り越えろ~考える力をどう育てるか~

 「学力低下」問題をうけて去年、学習指導要領が改訂。算数・理科は前倒しで今年から新しいカリキュラムへの移行が始まった。授業時間も増えたが、それ以上に学習内容が全体に増加、前倒しされる。

 そうした中、教育現場で注目されているのが「小4の壁」という現象だ。この20年間、授業時間が削減され、学習内容も易しくなっているにも関わらず、勉強についていけなくなる児童が、9歳から10歳、つまり小学4年前後に急激に増えているのだ。

 原因の一つと考えられるのが「考える力」の低下。算数の場合、計算は得意でも、文章題になるとできないケースが目立つ。背景として、ドリルに依存した学習スタイルや、家庭での会話の減少によるコミュニケーション能力の遅れなどが指摘されている。

 各地で模索されている対策も紹介しつつ、「考える力」をどう育てればいいのかを考える。(NO.2753)

スタジオゲスト : 佐藤 学さん (東京大学教授)

 
 よかったです。

  ぼくは,正直言って,小4の壁を感じません。
 個人を見ているからなのでしょうか。

 Aくんは,ここでつまずいている,Bさんはスムーズに進んだ,Cくんも同じようにつまずくから,ここは教え方をもっと工夫したほうがいいな,などと考えます。

 だから,多くの子がつまずくことはあっても,それを壁と考えるより,どのように教えた方がいいのかな,と考えます。大きな壁を考えないで,小さな壁というかつまずきを見つめるようにしています。

 考える子がいます,また,考えない子がいます。
 考えるようにするには,どうすればいいのか。
 もっと突き放して自分で考えるようにしよう,などなど

 さて,絶対学力の糸山氏が出演し,百ます計算の批判をしていました。

 速くするために,生徒は,まあインチキなやり方をしているというのです。0の行を写し,1の行はそれに1を加える・・・といったように。

 ぼくは,感心しました。このような工夫のできる子ってすごいじゃないか,って。計算力はつかないでしょうが,こういう子は考える力がありますね。

 次に絵を描いて文章問題を解く授業をやっていまいた。すばらしい,の一言です。このやり方はたぶん糸山氏のすすめているやり方ですね。
 本「絶対学力」を読んで,いいな,とは思っていましたが,テレビで見て,すばらしいと思いました。

 少しずれますが,糸山氏についてのぼくの感想です。
 最初の本は「絶対学力」ですね。たぶん。ぼくはこの本しか読んでいません。
 この本では,百ます計算の批判,教えることの批判が前面に出ています。それがぼくに言わせると,少しずれている。それについては,これまで書きました。

 しかし,この絵に描く方法はすばらしいです。他を批判するよりもその方法のすばらしさを前面に押し出して主張した方がいいと思いますね。「絶対学力」の後にもいろいろ書いているようなので,それではそうしているかもしれませんが。

 この方法は,確かに考える力をつけるやり方だと思います。ぼくも図に描くことを生徒に言いますが,これほどは徹底していません。
 このような方法でやっていることろがあることはとてもいい勉強になりました。

 それから,集団で教えあいながら算数の勉強をするところが出ていましたが,これもすばらしかったです。
 三桁÷一桁の計算の仕方を考える授業です。いろいろ考えたあとで,一人のできる子(Aくんとします)が,筆算で答えを出してします。正しいやり方です。
 それに対して,別の子が,なぜここでこの7を下ろすのかわからない,など疑問を発します。Aくんは考えるのですが,なぜなのか,説明できない。
 そこで,先生の準備したキャラメルを使ってみんなでやり方を考える。すると,計算の方法が理解できる,というものです。

 テレビドラマかと思うくらいよくできていました。子どもにはそういう力があるのですね。感心しました。

 ぼくは,自分の学習塾には自分のやり方が一応確立しているので,上のやり方をすぐに取り入れることはできないのですが,とてもいい勉強になったと思っています。

ノルマを減らし,やる気につなげる
 Yさんは,現在中学2年生,女の子です。中学1年のときにセルフ塾に入塾しました。

 上の子3人ともセルフっ子です。2人の姉さんはもう社会人。兄さんは大学生です。
 姉さんが赤ちゃんをだっこしてセルフ塾に来たことがありますが,あの子がYさんだったのですね。

 さて,理解力は悪くありません。いや,いいです。ちゃんと説明を読みとることも,ぼくらの話すことも理解できます。ある程度は自分で学習することができます。分数の計算は取りこぼしているようで,そこのところを習いによく来ました。

 頭痛持ちのようで,休みがよくありました。それで,セルフ塾に通うのが習慣化せず,また休むという感じだったと思います。1年最後の数ヶ月はほとんど欠席状態でした。このまま辞めていくのだろうな,と思っていたのですが,2年も継続。がんばって学習に取り組みました。

 しかし,課題を終えることができません。1日のノルマを半分ほどしかできません。
「きょうもできなかった」と悲痛な表情で帰っていきました。
「Yなら,できると思うんだけどなあ」と言うと
「がんばっているんだけどよ」と答えます。
 不真面目な態度ではありません。
 それで,Kyokoと相談して,課題を減らすことにしました。2割近く減らしました。もちろん,本人の意向も尋ねました。とてもよろこんでいました。
 
 すると,ノルマのこなしが極端によくなったのです。毎日のように課題を終えるようになりました。それもだいぶ早い時間に。
「もう,終わったよ」と,にこにこしながら言って,帰っていきます。表情がとても明るくなりました。

 以前は,通常の5割程度しかできなかったのです。それが,今では通常の8割できるのです。それも楽々と時間も余らせて。

 課題を減らしたのは,大成功です。

 どうせ,できないと思うと,やる気が出ないのですね。だから,ついゆっくりになってしまう。意識的にではないのでしょう。

 しかし,これだけならできると思ったら,さっさと課題に取り組めるのです。

 結局は「やる気」ですね。

 セルフ塾には5ポイント休暇もあります。いまは課題をこなせるので,意識的にそれをねらっています。だから,さらにやる気につながっていきます。いま好循環に入っているYさんです。

60歳でも遅くない
 発達過程において、その時期を過ぎるとある行動の学習が成立しなくなる限界の時期があり,それを臨界期(りんかいき)と言います。

 ローレンツのインプリンティングは有名です。動物の生活史のある時期に、特定の物事がごく短時間で覚え込まれ、それが長時間持続する学習現象の一種です。

 彼は、ハイイロガンの卵を人工孵化して、ガチョウに育てさせようとした。ガチョウが孵化させた雛は当然のようにガチョウの後について歩き、ガチョウを親と見なしているようにふるまった。ところが、一つの卵だけを自分の目の前で孵化させたところ、その雛は彼を追いかけるようになり、ガチョウのふところへ押し込んでも、他の雛がガチョウについて行くのに、その雛だけは彼を追ったという。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)



 ぼくも臨界期はあると思っています。だから,できれば最適の時期に行うようにしたいです。

 ただ,次のようにも思っています。

 ぼくが大学生のころだったか,井深大(著)「幼稚園では遅すぎる―人生は三歳までにつく」がベストセラーになりました。ぼくも読み,その気にもなりました。

 それに対して,精神医で作家のなだいなだ氏が,何かの本で,「私は,『40歳からでも遅くない』という本を書こうと思う」というようなことを書いていました。 たぶん冗談で皮肉で書いたのでしょう。

 ぼくもそう思います。

 幼稚園では遅すぎると,あおるのではなく,やる気になったときが最適期だと思うのです。

 結婚適齢期というのがありました。ぼくが若いころは24歳ごろが適齢期だと言われていたように思います。しかし,最近は結婚したくなったときが適齢期だと言われますね。30歳だろうが,40歳だろうが,結婚したくなったときにすればいいじゃないか,というところでしょう。出産を考えると確かに問題かもしれませんが,気持ちが大切です。

 人生に,遅すぎる,ということはありません。英語を学びたいと本気で思ったときが最適期です。それが40歳であろうが,60歳であろうが,かまわない。

 ぼくは生徒に言います。「何歳になっても自分がいいと思った道でやり直せばいいんだ。自分とは何かというのは何歳になっても課題だ。ぼくも今でもそうだ」と。

 ぼくはもうすぐ60歳です。確かにいろいろと衰えてはきました。しかし,やりたいと思うことはいまからでも遅くないと思っています。

 最初にも書きましたが,臨界期はありますし,できればその時期に教育でできればいいです。しかし,それを固定的に考えるのではなく,柔軟に考えるべきです。そうでないともう手遅れなのか,ということで何もしなくなります。

絶対的な権威者はいらない!
  「進学塾不要論」を読みました。恐ろしい本です。



p112~113を引用します。誤解を与えないように少し長めに。

こういう、父の権威のない、父に代わる権威者のいない、それらを保証する神仏もいない現在の日本に「自由」「平等」などという言葉を輸入したとき、「自由」は「わがまま、甘やかし」へ、「平等」は「みんな、なんでもすべて同じ」へと変質してしまったのです。こうして、子どもたちから道徳という意識はなくなってしまいました。

  道徳を作るのは権威者です。

 「なぜ人を殺してはいけないのですか」 
 → 「神が『人を殺してはいけない』とおっしゃったからだ」、

 「どうしてぼくはテレビゲームをしてはいけないの、〇〇くんも△△くんもしているのに」
 → 「お父さんがだめとおっしゃったからだめなのです」

これでいいのです。数学のように誰もが完全に納得のできる合理的理由など、本来道徳にはないのです。だから権威者が道徳を作り、人々がそれに従うことで、うまく社会は機能するのです。

現在の日本には、権威者がいなくなってしまいました。そんな社会には、当然道徳などあるはずがありません。無道徳・無規範社会になっています。だから、「なぜ人を殺してはいけないのか」という子どもの問いに対して、大人が明快な回答を示せず愚かな議論を続けているのです。「だめなものはだめだ」と理屈抜きに言い切れる権威者がいないのです。

 このアノミー社会、無権威・無道徳・無規範社会が、今のいじめや拝金主義を生んでいるのだと私は思います。



 父親の権威は必要です。また,数学のように完全な合理的理由は難しいです。ぼくもそう思います。
 でも,権威者が言ったことは絶対だというのは,とても危険なことです。

 「イラン大統領選挙で,アハマディネジャド大統領が圧倒的大差で勝利したのはおかしいと思います。私は,みんなといっしょに抗議のデモに参加したいと思っています,なぜそれがいけないのですか?」
 → 「最高指導者のハメネイ師がダメだとおっしゃるからです。」

 「私はお腹がすきました。この子を見てください。こんなにやせてしまって。国民の多くが飢餓状態です。核実験にお金をかけるより,食べ物をください。なぜ,核実験をするのですか」
 → 「金正日将軍様がそうおっしゃるからです」

 「なぜ,こんなにユダヤ人を殺さなければいけないのですか」
 → 「ヒトラー総統が『殺しなさい』とおっしゃるからです。」

 「私は,父に毎晩のように性的暴力を受けています。いやでいやでたまりません。なぜ,私はこのような辱めを受けなければいけないのですか」
 → 「お父様の意思だからです。理屈などありません。」

 これでいいのでしょうか。
 確かに「数学のように誰もが完全に納得のできる合理的理由」は難しいでしょう。しかし,上の例で分かるように,権威者によって間違えたことが行われることはあります。

 ぼくが出した例を読めば,権威者が行っていることはおかしい,間違えているということが分かってもらえると思います。ぼくの出した例は極端なものかもしれません。こんなに極端なことでなくても道徳的に正しいこと,間違えていることはあるのです。
 人間の道に反するようなことはやってはいけないのです。「人間の道」というのはあります。どんな人間でも人間として生きる権利があります。日本国憲法はそれを基本的人権として高々と唱えています。

 『人間の道』というのは何か? とても難しいです。人間とは何か? 人間の幸せとはなにか? それらをすべて考えなければいけません。しかし,それが難しいということでそれを考えるのを放棄し,絶対的な権威者を求めるのはとても危険なことなのです。

 ぼくは,父親の権威は必要だと思います。ぼくも「だめなものはだめだ」,と言うことがあります。しかし,それは絶対ではありません。父親は自分の権威を絶対視してはいけません。いつでも人間の道に反しないかどうか自分を省みることが必要です。権威のある人には特にそれば求められます。
 親による子どもの虐待が後をたちません。親の権威というのは絶対ではないのです。

 また,子どもには,権威に従うことも教えたいです。しかし,また何が正しいことなのかを見抜く力も育ててあげたいです。父親の権威を絶対視してはいけません。子どもにも人権があります。
 中学生になると反抗期が始まります。それは当然通るべき道です。それを押しつぶすような権威をぼくは認めません。子どもなりに何が正しいか,それを考える姿勢も育てていくことが必要です。

「相関」と「因果関係」
 相関と因果関係を混乱する人がかなりいます。

 Aが多いとBも多いというデータが出てきたとします。
 すると,Aが原因でBが結果だというように。

 例えば,

 計算の速い子は,漢字力がある。
 計算の遅い子は,漢字力ない。

 という相関関係があるとしましょう。

 とすると,
「計算が速くなる」と「漢字力がつく」
または逆に「漢字力がある」と「計算が速い」

 そう考えてしまいがちです。

 でもそう考えてはだめなのです。
「計算が速くなる」と「漢字力」の間には単に相関関係があるだけです。

 この2つが別の要素の結果であることが十分に考えられます。

 例えば「頭のよさ」です。あいまいな定義ですみません。頭のよさをきちんと測ることはできません。でも,なんとなくみなさん分かりますよね。

 頭のよい子は,計算も速い
 また,
 頭のよい子は,漢字力もある

 そうした場合,計算と漢字力の間には,相関はあるが,因果関係はありません。

 このように相関があっても因果関係はないことがあることを知っておくべきです。

 ついでに,上の頭のよさと計算力,それも因果関係にあるとはまだ言えません。

 さて,計算力と漢字力との間に因果関係があるかどうかは次のような実験で確かめられます。

 できるだけ多くの子どもを集めます。最初にテストを全員にします。計算問題と漢字力問題です。

 その結果,そして,性別,年齢,学力などできるだけ均一な2つのグループに分けます。

 そして,実験グループには,計算練習をたくさんさせます。
統制グループはその間絵本を読みます。漢字のない本です。

 その後,再度テストをします。計算力と漢字力を測るテストです。
 実験グループと統制グループで,計算力,漢字力のどちらにも明らかな差(有意差)がみられるとすると,

 計算力は漢字力の原因になる,と一応言えそうです。
 しかし,たぶん実験グループの計算力はあがるでしょうが,漢字力はあがらないでしょうね。

中学最初のテストのジレンマ
 中学1年生,最初のテストに関して,少々ジレンマを感じることがあります。

 1年生最初のテストで力のわりにかなりいい点数,席次をとる子がいるのです。塾の生徒がいい点数をとり,席次がいいというのは喜ぶべきことです。でも,素直に喜べないところがあります。

 この子の実力ではないなあ,と思うのです。

 なぜ,いい成績をあげるのか。考えてみました。

 中学1年,最初のテスト。塾に通っていない生徒にとっては何をどのように勉強すればいいのか,よく分からないのです。これまで経験したことがないのですから。

 それに対して塾では,ぼくら(一般的に塾の先生)は,テストのことに通じています。だから,何をどのように勉強すればいいのかよく分かっています。

 それで,定期テスト前になると,これをしなさい,あれをしなさい,といろいろ指示します。生徒は言われた通りに勉強に励みます。

 そこで,塾に通っている子と通っていない子の差が出てくるのです。

 それでも,成績がいいのはいいではないか,という声が聞こえそうです。

 でも,単純にそうは言えないのです。

 親は,それがその子の力だと思うのです。そして,それが出発点。塾に通っているのだからその後はそれ以上の成績をあげてくれるだろう,伸びていくだろうと思うのです。

 塾に通っていない子も2学期,3学期とテストを重ねると,何をどう勉強すればいいのかだんだん分かってきます。
 そういう意味では,塾の子と差が少なくなってきます。

 すると,最初にいい成績をあげた生徒の成績はだんだん下がってくるのです。

 ぼくらに言わせれば,塾に通っているからこそ,その成績を保っているのです。でも,親は最初のテストからだんだん下がってくるように見える。塾に通わせても無駄だ,と思うようになるのですね。

 そういうことで辞めていった子も実際にいます。親は自分の子どもの力が分かりません。それはある意味でしかたのないことです。ぼくらは多くの生徒を見ているからこそ,この子のこの成績は力以上だなあと感じますが,それを親に求めるのは難しいです。

 そのことを親に伝えるべきか。伝えるべきでしょうね。たぶん。
 でも,いい成績で喜んでいるお母さんに,これは嘘ですよ,というようなことはなかなか言えません。何とか言うように努めるのは努めるのですが,どうしても奥歯に物がはさまった言い方しかぼくにはできません。

 ただ,子どもの力というのは,ぼくらにも分からないことがあります。
 最初のテストでこれは出来すぎだなあ,と思っていた子が,その成績を維持しながらさらに伸びていくことがあるのです。子どもの力を決めつけるのは絶対にいけないなあと思います。だれがどのように伸びるか,分からないのです。

原始的脳が直感を作る
 7月25日放送のサイエンスZEROをみました。

 以下は,その公式ホームページより,
サイエンスZERO公式ホームページ

シリーズ「ヒトの謎に迫る」第10回のテーマは「脳」。

最新の脳画像技術は脳の微細な違いを捉えることを可能にし、直感が働くときの脳の変化までも解き明かそうとしている。

理化学研究所で行われている「将棋プロジェクト」は、アマチュアとプロの棋士の脳を調べ、一瞬の直感、いわゆる“天才脳”の姿を明らかにしようという試みだ。このプロジェクトには羽生名人も協力している。

解析の結果、アマチュア棋士は前頭連合野と呼ばれる大脳新皮質が活動するが、名人と呼ばれる棋士になるほど、原始的と言われる奥深い部分も活動することが浮かび上がった。このことから“天才脳”には習慣的に繰り返してきた努力が不可欠であることがわかる。

 特別ゲスト:田中啓治(理化学研究所脳科学総合研究センター副センター長)



 前頭連合野は,思考、創造、意思、意欲、判断など高次な活動を司る部位です。アマチュアもプロ棋士もそこは使っています。考えながら次の一手を決めるのですね。

 しかし,プロ棋士は,さらに原始的な脳で判断をすることがあるというのです。ぼくらも最初のころはいろいろ考えてやりますが,慣れてくると,考えないでぱっとできたりします。例えば,コンピュータのキーボード。最初はキーをみながら打っていきますが,いまでは指が自分で動くようになります。そのときには,原始的な脳が働いているというのですね。

 因数分解を中学3年生はやっています。ぼくは,高校でやる一般的な因数分解も中学生にさせます。いろいろ考えたが答えが分からないということでぼくのところに質問にきます。考えた跡があるときは,ぼくはすぐに答えを示してあげます。すると生徒はびっくりするのですね。

「Yojiさん,なぜすぐ分かるの?」
 ぼくは,「56年も生きてきたからさ」と答えますが,何度も因数分解をやってきたので,直感的に答えが見えてくるのですね。そういうときは,たぶん原始的な脳が働いているのでしょう。

 直感というのの部位がある,というのがおもしろいと思います。

 前に,「絶対学力」への反論として,
計算が速くてはいけないか?
  を書きました。
 計算が速くなるということは,いちいち考えなくても原始的な脳が働くということなのかもしれません。だから,速いにこしたことはないとやはり思いました。

 なお,この番組では,ぼくが以前紹介したマシュマロテストをやっていました。マシュマロがシュークリームになっていましたが,とてもおもしろかったです。


 再放送
・7月30日 (木) 2:30~ BS2
・7月31日 (金) 19:00~ 教育

サヴァン症候群
 mixi「セルフラーニング」のコミュに立てたトピックです。
 サヴァン症候群


 サヴァン症候群ってありますね。

 サヴァン症候群( - しょうこうぐん、savant syndrome)とは、知的障害や自閉性障害のある者のうち、ごく特定の分野に限って、常人には及びもつかない能力を発揮する者の症状を指す。「savant」は、フランス語で「賢人」の意味である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 ぼくは,本やテレビでお目にかかるだけです。
 不思議だなあと思います。

 今回は,雑談的に話題にしてみました。以下は,いくつかの本を読んでぼくなりにまとめてみたものです。正確ではありません。そこのところも指摘してくださればありがたいです。

 サヴァン症候群は,脳の一部が発達し,そのために別のところがおかされるために起こるとも言われているようです。

 例えば,10の能力があるとそのうち2は計算のため,2は言語のため,2は社会性,2は音楽,2は絵画のためにあるとします。この分け方も適当ですよ。説明を単純にするためにやっています。

 普通の平凡な人は,それをまんべんなく伸ばそうとします。少々のでこぼこはあっても全体的に調和がとれている。しかし,特に優れているところもない。

 しかし,サヴァンの場合は,そのうちの一つが発達し,異常にできるようになる。例えば山下清。絵画の能力だけがすぐれています。絵画の能力が5になる。その代わりに,他の能力が小さくなります。言語が1,社会性が1というように。

 脳の研究で,そのような感じのことが確認されているようですね。絵画の部分が異常に発達し,別の部位まで進出していく。そのためにそこの部位の働きがおかされる。

 

 これまでのぼくの考えは,能力って全体量が決まっているというのではなく,ある能力が発達すると,別の能力も発達する,というものでした。

 例えば,言語が発達すると,それに伴って計算の能力も発達する。どちらかといえば,どちらもいっしょに伸びていく,という感じです。

 だから,国語にすぐれている生徒は数学,英語,理科,社会と全体的に優れています。これらの科目ほどではないのですが,体育,音楽,美術などともある程度のプラスの相関があるように思っています。

 つまり,能力の高い人は,全体的に能力が高いという感じがするのです。もちろん,時間は有限なので,一つの能力を伸ばすと別の能力を伸ばす時間がないので,その方面は苦手になるということはありますが。

 とにかく,一つの能力を発達させると別の能力もそれに伴って発達していくというのがこれまでのぼくの能力観です。

 それに対して,サヴァンの場合は,一つの能力を発達させるために,別の能力を犠牲にしているという感じです,まったくちがった能力観です。

 モーツアルトもサヴァンのようなものでしょうか。映画で見ると,だいぶ変わった人のようです。音楽の力を伸ばすために,他の力を犠牲にしたのでしょうか。
 アインシュタインはどうだったのでしょうか。

 平凡な人の場合と,天才の人の場合とでは異なるのでしょうか。

 まとまりがありませんが,みなさんはどう思われますか。
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