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セルフ塾は閉めましたが、そのままの名前でブログを続けます。独学,独習。教わるより,学ぶを重視。 セルフラーニングの方法,英語,数学などの情報を発信するつもりです。

多野岳
 コスモス畑を出発し,多野岳に向かいました。58号線を少し北上,案内板があったので,迷うことなく行けました。

多野岳 沖縄県 名護市 仲尾次

稀少な野鳥が生息するヤンバルの自然を体感できる絶景&ネイチャースポット。
標高385mの多野岳は、360度視界が開け、山頂から周辺の島々を見渡せる県内随一の眺望の名所。北部の初日の出スポットとしても知られています。周辺には豊かな自然が残され、9月上旬に飛来するアカハラダカ、国の特別天然記念物ノグチゲラ、国の天然記念物のカラスバトやヤンバルクイナなどを観察することができるバードウォッチングの聖地でもあります。最近では地形を活かしてパラグライダーやハングライダーを楽しむ人々が増え、大会も開催されています。




 午後3:41,多野岳の頂上に到着しました。
 ホテルやレクリエーションホールなどがありますが,、人の気配が全くありません。最初,ホテルもレクレーションホール,プールも廃虚になっているのだろうかと思いました。ただ、駐車場には10数台の車が止まっていました。ここに来るまでの途中で草刈り作業をしている人たちを見かけたが、その人たちの車なのだろうかと思いました。

 午後 3:54 少し高いところがあったので,そこに上ると「三角点」になっています。そこで,来た証拠写真を撮りました。
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 午後4:00 ホテルの近くから下を見おろすととても景色がいいです。羽地内海がよく見えます。古宇利島も見え,古宇利大橋がよく見えます。こうして見ていると,島が丸いことがよくわかります。そこで写真。
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 ホテルは廃墟かとの最初は思いましたが,ちゃんと営業しているようです。冬場なので客が少ないのでしょうか。静かです。何人かは泊まっているのでしょう。

 僕らのように、ただ見物に来る人もいるようで,二組ほどそういう人がやってきました。

 春のセンバツ,優勝に沖縄の気候も
第82回選抜高校野球大会で,沖縄の興南高校が優勝しました。沖縄尚学はこれまで2度優勝したことがあります。これで,沖縄勢として3度目のセンバツ優勝となります。
 夏はまだ優勝したことがありません。

 そこで,仮説を思いつきました。

 気候が有利に働いているのではないか,ということです。

 プロ野球のほとんどのチームが沖縄で春のキャンプを張ります。来年は巨人軍も加わるとか。この時期,沖縄では野球をしてもちっとも不思議ではないくらいの気候です。筋肉もリラックスしています。

 それに比べると,他の都道府県は寒いですね。凍えながら練習に励んでいるのではないでしょうか。雪国ではグランドで練習することがないとも聞いています。

 それに比べると,沖縄は恵まれています。時には暑いと思う日もあります。そういう中だ体調をつくり,春のセンバツ大会に備えることが十分にできるのではないでしょうか。それが,優勝につながっているのではないでしょうか。

 もちろん,沖縄の高校生も,懸命に練習に励んでいます。力そのものもだいぶついていると思っています。
 ただ,プラスアルファの部分に気候もないだろうか,ということです。

 単なる,遊び心での仮説でした。

ムムグヮーシ
 ムムグヮーシというお菓子があります。直訳すると「桃菓子」。桃の形をしていてゴマ入りアンコが入っています。僕は大好きです。
 このムムグヮーシ、いつでも食べられるわけではありません。法事に出されるのです。お菓子屋さんで注文すると、法事でなければ売ってくれません。
 清明祭を行いました。御墓の前でのピクニックです。ムムグヮーシを食べようと提案し、受け入れられました。妻は弟に買ってくるように依頼し、「清明で使うというと売ってくれないからね」と付け加えました。弟はそれを心得て行ったのですが、案の定、店員に何に使うのか尋ねられたのです。「頼まれただけなので知らない」と答え、買うことができました。
 清明祭は、お祭りなのですね。法事ではない。でも僕らは気にしません。好きなものは好きな時に食べればいいという考えなのです。無事手に入れたムムグヮーシ、店員の話をおかずに、おいしくいただきました。

 今朝の琉球新報の「声」に掲載されました。



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(写真は,新聞には載っていないよ)

「花園」は「かえん」?
 沖縄では,「花園」を「かえん」と読む人が多いように感じます。ぼくはずっとそう思っていました。もちろん,「はなぞの」という読み方もあるのは知ってはいました。

 塾を始めるようになり,「花園」を辞書で調べる機会が出てきました。すると,「かえん」では出ていないのです。また,ワープロで「かえん」と打っても「花園」は出てきません。

 ここからは推測です。

 沖縄の学校の先生方が「花園」を「かえん」と言っているのではないでしょうか。ぼくは学校で覚えたように思います。

 「花壇」のことを「花園(かえん)」と言うのです。
 「きょうはみんなで花園(かえん)の草をとりましょう」というように。

 きょう,このブログを書くために,ヤフーの辞書で調べてみました。

かえん[くわゑん] 0 【花園】 :はなぞの。  ・ 自然―

 「かえん」と読んでも間違いではないようです。しかし,「はなぞの」 のことですから,「花壇」とは違うようです。

はな‐ぞの【花園】 :花の咲く草木の多くある園。

か‐だん〔クワ‐〕【花壇】 :庭などで、一部分を区切り土を盛り上げるなどして草花を植えた所。《季 秋》

 「花壇」の意味で「花園(かえん)」と言うのは,かなり定着しているように感じます。

 ほかの地域ではどうなのでしょうか。

 前に書きましたが,沖縄は言語圏が本土とはまったく異なります。だから,明治以降に日本語を話し始めたのです。だから,後遺症がまだ残っていて,全体的に日本語が下手です。その現れのひとつかな,とも推理していますが。

普天間基地包囲行動に参加
昨日は普天間基地包囲行動に参加しました。かなり大粒の雨が降る中でした。それでも多くの人が参加して、人間の鎖はぐるりとつながったそうです。

 この激しい雨の中で、包囲行動が成功したのは、かなり意味が大きいのではないかと考えています。

 昨日は午前中、古堅中のテスト勉強がありました。それを12:30に終了し、1時過ぎに、京子と二人で出かけました。

 天気予報でも強い雨が降るとのことでしたが,その予報通り、出発する時はかなりの雨が降っています。大雨警報も出ていることでしょう。

 この雨のために参加を取りやめる人がいるかも知れないと心配になりました。

 二人とも雨合羽を来てスクーターに乗りこみました。雨にうたれながら走りました。雨の中でめっとにスクーターに乗らない京子は,「雨が痛いね」と言っています。

 そして人間の鎖が始まる2時前には現地に到着することができました。

 僕の所属する民商グループの旗を探して、走りました。スクーターは便利です。民商グループの前にスクーターを駐車してみんなの中に入りました。

 よく知った仲間たちです。

 2時、2時半、3時の3回手をつないで基地をぐるりと囲みました。

 3回のうち2回は切れ目なく手をつなぐことができたそうです。

 そこにいる時も雨はよく降っていました。時々は小降りになりますが、雨が続いています。梅雨時なのでしょうがないことでしょう。

 人間の鎖は 1回につき3分ほどなので、そのほかの時間は近くにいる仲間とおしゃべりを楽しみました。

 僕は民商のグループにグループの一員として参加しましたが、一般市民の参加も多いように感じました。県民大会後、県民の意識は高まっているようです。

 目の前は大きなスーパーマーケットがあります。そしてその通りにはお店や民家がずっと立ち並んでいます。普天間基地のすぐそばがこのような人家が立ち並んでいるのです。本当に危険な場所だと改めて感じました。

 日本政府が代替基地を探すというよりも、この危険きわまりない基地をすぐにでも無条件に撤去することが必要だと思います。そして、そのあとアメリカ軍基地をどこに作るかなどは、アメリカ政府の責任にすればいいのです。そういう気持ちを込めながらみんなと手を握っていました。

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琉球朝日放送 報道部
基地の無条件返還を! 普天間包囲行動に1万7000人
普天間基地の即時閉鎖・無条件返還を求めて人間の鎖で基地を取り囲む「普天間包囲行動」が16日、市民らおよそ1万7000人が参加して行われました。


恨(はん)の碑
 昨日は読谷村瀬名波にある「恨(はん)の碑」に行きました。

 妻京子が新聞で知ったとのことで以前から行きたかったそうです。

 インターネットで場所を確認ししましたが、少しあいまいでした。渡慶次小学校の横から上がっていくと「恨(はん)の碑」への道しるべがあったのでほとんど迷わずに到着することができました。

 渡慶次小学校の裏手、民家の裏手にあります。近くには墓もありました。少しこんもりしたところで緑があり、よく手入れがされていました。

 こういう過去もあるのだということを知ることは大切なことだと思います。

 インターネットで碑文を検索したのですがのっていません。それでここに載せておきます。

 また、少々あいまいではありますが、多くの人に行ってもらいたいので、地図もここに載せます。道しるべがあるので近くまで行くと迷わずに行けると思います。緑の矢印のあたりです。


 アジア太平洋、沖縄戦において日本は朝鮮半島から 100万人以上と言われる人々を強制連行し、日本軍夫・性奴隷として使役した。慶尚北道から軍夫たちが沖縄に送り込まれたのは 1944年6月頃。

 姜仁昌さんは慶良間諸島の阿嘉島に、徐正福さんは宮古島に配置された。沖縄の地上戦は1945年3月26日に始まった。二人は同胞たちの死を目のあたりにし、また同胞への処刑や虐待などに立ち合わされた。

 私たちは朝鮮半島と沖縄に向かい合う二つの同一の追悼碑を建立することを決めた。そして不幸な過去を心に刻み、平和・共生への決意の印と、多くの賛同者、団体の寄付により、この碑を立てた。レリーフは金城実さん、碑文は安里英子さん、翻訳は河東吉さん。

 2006年5月3日、韓国からの姜仁昌さん、徐正福さんと共に除幕式を行った。

 アジア太平洋戦争・沖縄戦被徴発
朝鮮半島出身者恨の碑建立を進める会



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神の島「久高島」へ
 今日は京子と二人で久高島に行きました。久高島は「神の島」といわれている神聖なところです。

引用は
http://www.okinawainfo.net/kudaka/index.htmlのページからのものです。

沖縄本島南部知念の東約5km海上にある、約3kmの細長い平坦な島。それがこの久高島です。現在の人口は約290名余り。過疎高齢化はこの島でも進んでいます。この島がなぜ神の島と言われるか。
国建ての神アマミキヨがこの地に降りて来たという伝説があることも勿論ですが、琉球王朝時代から王府がこの島を尊重し、国王は毎年この島に来て祈り、国の霊的最高位となる聞得大君もこの島で霊力を与えられてその地位についた、という歴史も大きな理由だと思います。



午前8:13 セルフ塾を出発。出発する前に犬の梅子や猫たちにご飯をあげる。いつもは正午にあげるのだがきょうはとても早い時間。

9時過ぎに高速道路を下りて一般道路進む。高速の料金は \350。いつもより安いが何かあるのだろ。
 県道82号線から86号線に入る。南風原北インターチェンジの少し行ったところで降りるつもりだったが、おりそこねてしまった。それで南風原南インターで降りる。

9:42 安座真港に到着。船に乗り込む。往復で一人 \1240。

10:00ちょうど、フェリー船が動き出す。保育園の子どもたち30人ぐらいが 3人の保育者と一緒に同じ船に乗り込む。

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10:30 久高島に到着する。そしてフェリーを降りており、折り畳みの自転車を組み立てる。

10:45 港の近くのレンタルサイクル屋「さばに」で自転車を一台レンタルする。その前に京子が僕の折り畳み式の自転車に乗ることができるのかどうかテストをする。うまく乗れそうなので、京子は僕の自転車に乗り、僕はレンタルサイクルに乗ることにする。
 2時間で\600。それ以上になった場合には追加料金を支払うことにする。

さばに
港からあがって左手に有る明るい感じのお店。 沖縄そばなどの軽食と貸自転車もやっています。



10:53、ピザ浜。砂浜がきれいだ。波がとても荒い。フェリーでも波が荒くて、とても揺れた。同乗した保育園の子ども一人は船酔いで、嘔吐して、保育者がその対応に追われていた。
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 心配した天気だが何とか保ちそうだ。天気予報では雨の予報だったが、今のところ雨は降っていない。でもときどきポツリポツリとやってくる。


久高島の集落のすぐ東にある浜です。
東海岸から近い道を北に向かって進むと、所々に右手の林に細い道ができているところがあり、そこを抜けると海岸に出られるようになっています。


11:02 イシキ浜 砂浜の砂がとても白くてきれい。石も白い。
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島の仲程に有るのがイシキ浜。
五穀が入った壷が流れてきて、それから久高島、沖縄本島へと穀物が広まったとされる伝説の場所。
  薄暗い小道をいくと、途中で余り広くない神に拝みをささげる場所があります。ニラーハラーの神、東リ大主(アガリウプヌシ)の御嶽であるイシキ泊。琉球国由来記にも出てくる有名な所です




11:11 シマーシ浜 浜には先客のアベックがいる。一緒の船ではなかったので僕らより先の9時のフェリーきた人たちなのだろうか。
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11:24 一本の長くまっすぐ道が続いている。その先に海があるあるようだがはっきりしない。今日は天気が悪いせいなのだろうか。

11:26 長く続いた道の先に海が見えてきた。天気のせいではなかったようだ。肉眼では海がよく見えるのだが写真にきれいに写ってるかどうか。
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11:30 久高島の北の岬の端までやってきた。カベール岬。このあたりも植物群がある。途中で、フェリーで一緒だった観光客らしい夫婦(?)とすれちがう。
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 久高島の道は、北東に進んでいくと白い一本道になり、最先端のカベール岬へと繋がっています。
琉球神話で、沖縄の祖神であるアマミキヨ(アマミク)が初めて降り立ったと言われる場所。


11:51 ロマンスロードを走る。
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道幅は自転車が二台やっと通れる位ですが、ぜひここは行ってみてください。
長さにして約600m位ですが、途中にベンチが置かれている少し広くなった所と、その先に東屋がある広場が有り、その辺りから見る海の景色は最高です。


11:54 携帯電話の呼び出し音が鳴るので出てみると日本漢字能力検定協会からの電話である。しばらく話しを聞く。

12:21 クボー(フボー)うたき、神聖な場所なので立ち入りが禁止されていると表示されている。「立ち入り禁止」の表示板の前で写真を撮る。
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 沖縄の七御嶽の一つで、久高島のみならず沖縄でも最高の霊地。アマミキヨが住んだと言う霊地を廻る巡拝東御廻り行事の一箇所でもあります。
旧来から男子禁制の聖地で、今でもヨーカビー(お祓い)、ピーマティー(火の神の祀り)、ハマシーグ(害虫祓い)など多くの祭祀がここを舞台に執り行われています。



12:32 ヤグルガー 道が壊れてるので立ち入り禁止になっている。のぞくと海岸に続く細い長い階段が続いている。海からは沖縄本島がすぐ近くに見える。斎場御嶽や首里城も見えるはずだが双眼鏡で見てもはっきりはしない。
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五穀神話にも壷を拾うために禊をする井戸として登場しますから、かなり昔から枯れることなく水が湧き出していたのでしょう。現在も神女さん達が禊に使っている神聖な場所でもあります。


12:42 ハシガー きれいなわき水が今も出ている。飲料水にして利用していると説明板がある。少しだけのんでみる。京子は塩辛くておいしくないという。僕はその塩辛さがあまり感じられない。

12:56 久高ノロ家 黄色の屋根の屋根がそれである。表示も何もない。近くにいた女性に教えていただく。
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13:00 久高殿(ウドゥンミャー)
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久高殿(ウドゥンミャー)は、昔シラタル(百名白樽)とその娘タルガナー(多留加那)が天神地祇を祭り、島の繁栄を祈った場所と言われています。久高祝女と久高根人が祭主で、ここの前にある広場も含めて午年に行われていたイザイホーの舞台となった神聖な場所です。



大里家・ウプラトゥ
○五穀の神様となったアカツミーとシマリバーは、ここに祀られています。
○琉球王朝第一尚氏最後の17代尚徳王がこの家の美しい神女クニチャサと恋仲になり、政治を省みず久高島にいる間に城内で反乱が起きて・・・(以下略)


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1:12 外間殿 後ろは外間山か 今はフェリーの切符売り場でもらった久高島の地図を参考にしながら回っているのだが、現場には表示や案内板が全くないので目の前にあっても、そこが何なのかはっきりしない。簡単な表示でもいいからやってもらいたいもんだ。
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外間殿(フカマ)は、久高殿(ウドゥンミャー)と並ぶ島の二大祭祀場の一つ。
 琉球王朝第二尚氏三代尚真王の時代に定められたノロ制度の中で、王府任命のノロ職は公事ノロという公式の役職として外間家から選ばれ、シマノロはタルガナー家(久高家)からはから選ばれました。


1:16 琉球の創世神アマミキヨが腰かけたという岩が地図にはあるので、さがすのだがはっきりしない。拝所があるのでそこで写真を撮る。
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1:30ごろ「食事処とくじん」にはいる。沖縄そばと魚ミーバイの煮つけをいただく。

食事処 とくじん
  港の切符売場の近くにあります。
島で唯一夜までやっている食堂。海側の席からの景色もなかなか良い。
名産のイラブー汁をはじめ、各種チャンプルー、沖縄そば、もずくの天麩羅、カレーライス、焼きそばなどメニューも一通りそろっています。



2:16 レンタルサイクルを返却する。1時間30分延長してるので追加料金\450を支払う。。

2:25 港の近くの販売所で氷ぜんざいをいただく。\350の二人分。そして、うずら豆を2袋買う。これも1袋\350。ぜんざいの\350は高いなと思った。

2:49 自転車を折り畳んで袋に入れて、i船に乗り込む。帰りは高速船なので追加料金一人\80を支払う。

3:00ちょうど 船が港を出港する。

3:14 沖縄本島の港に到着する。その間やはり疲れていたようで眠っていた。熟睡はできなかったが。

3:18 車に乗り込んで家路に就く。

4:30 塾に到着。運転中眠気が襲う。塾に到着して仮眠をとる。


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恩納ナビーの歌碑めぐり
 きょうは恩納ナビーに歌碑廻りに出かけました。

恩納なべ(おんななべ) 生没年不詳。琉歌(りゅうか)の歌人。18世紀前半、琉球王朝尚敬(しょうけい)王時代(1713~51)の人と伝えられる。沖縄本島の中央部恩納岳の麓(ふもと)に生まれ、万葉風の琉歌を詠んで有名な歌人である。「恩納岳あがた里(さとう)が生(う)まれ島(じま)/もりもおしのけてこがたなさな」にみられるように、壮大な景観や熱烈な恋情を歌に託す手法は非凡で、作風の際だった特徴である。国王の巡行を迎えて詠んだ歌の歌碑が恩納村の万座毛(まんざもう)に建てられている。島袋盛敏・翁長俊郎著『標音評釈琉歌全集』(1968)によれば、恩納なべの歌とされるものを18首数えることができる。 [ 執筆者:外間守善 ][ 日本大百科全書(小学館) ]



12時29分 セルフ塾を出発。京子と二人車で。

12時52分 恩納村の博物館に立ち寄る。職員にこれから恩納ナビーの歌碑めぐりに行くのだが、ネットで二つは見つけた。もっとあるのかと尋ねたが、二つだけとの返事だった。


1時22分 万座毛を通過して御菓子御殿のレストランに入る。そこで、フーチャンプー \850とソーキそば\750を注文。海の色がとてもきれいである。伊江島も見える。

1時37分 フーチャンプルーとソーキそばが来る。食べ始める。

2時4分  御菓子御殿を出る。二人で\1600を支払う。

2時15分 万座毛に到着。恩納ナビーの歌碑を見物。
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「波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天がなし 美御機拝ま」
(波の音も 風の音も 静かになれ 今私が首里の王様のご機嫌を伺いをしますから お顔を拝ましますから)
「しぐれせり おんな詩人の 碑を訪(と)へば」


明治・大正期に活躍した児童文学者、巌谷小波(いわや・さざなみ)が1931(昭和7)年にここを訪れた時に詠んだ句。


2時30分 万座毛。歩道ができている。ほとんどが立ち入り禁止になっている。だから以前来たときよりも面白くなくなっている。

万座毛(まんざもう) 沖縄本島北部、恩納(おんな)村にある海岸景観地。東シナ海に面した岬部で、琉球(りゅうきゅう)石灰岩からなる台地に広場をなし、古来から若い男女が集まって歌や踊りに興じた(毛遊(もうあし)び)ところから、尚敬(しょうけい)王が1726年の巡行のおりに命名されたと伝承されている。沖縄海岸国定公園にあって沖縄本島北部観光のメッカとなり、近接して万座ビーチの海水浴場がある。 [ 執筆者:目崎茂和 ] [ 日本大百科全書(小学館) ]



「恩納岳あがた 里が生まれ島 もりもおしのけて こがたなさな」

(恩納岳の彼方に愛しい人の生まれた村がある。あの山を押しのけてこちらに引き寄せたいものだ)




2時40分 売店の裏をぐるりと回る。あずまやがある。ダイビングスポットなのかYナンバーの車などがある。釣りをしている人もいる。
 ボンベもあるのでダイビングの人もいるようだ。

 恩納松下の歌碑に到着
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恩納松下に 禁止の碑たちゅす
恋しのぶまでの 禁止やないさめ
恩納の松下になにやら禁止の立て札が立っているというが、
まさか男女の恋を忍ぶことまで禁ずるようなおふれではないでしょう。



 3時:29分 恩納ナビー誕生の地に到着。地図がはっきりしないのでだいぶ迷う。途中で高校生ぐらい女の子に尋ねる。
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3時:50分 恩納のえき。
4時:03分 クリームぜんざい(カナちゃんパーラー )\370。ターウム、とまっ茶のぜんざい(琉冰) \500。そこは行列ができている。

4時:40分 セルフ塾に到着。

よしや(吉屋チルー)を訪ねる
 先月は、恩納ナビーを訪ねました。琉球の2大歌人は、ナビーとよしやです。それで今月はよしやを訪ねる旅に出かけました。

 よしやは、吉屋チルーとしてよく知られていまが、「よしや」の方が正確なようです。名前については明日書きたいと思います。

 まずは、ヤフー辞典で調べたよしやについて。

よしや思鶴(よしやうみつる) [ 日本大百科全書(小学館) ]

琉歌(りゅうか)の女流歌人。生没年ともに不明だが、ほぼ18世紀初頭の人と推測される。
擬古文の物語『苔(こけ)の下』(平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)作、1730ころ)の主人公でもある。沖縄中部読谷山(よみたんざ)で育ち、遊廓(ゆうかく)に売られて那覇に出、悲恋のうちに18歳の生涯を閉じたという。
「恨む比謝橋やわぬ渡さともて 情ないぬ人のかけておきやら」は、故郷から那覇仲島の遊廓に行くよしや8歳の作だという。伝説じみてはいるが、恨みの情を主調とするよしやの歌の特徴がみられる。恩納(おんな)なべと並ぶ代表的歌人であるが、作風は、懸詞(かけことば)や縁語をはじめ和歌の心と修辞を自在に琉歌に写し、洗練された美意識を表出する。 [ 執筆者:外間守善 ]


午前 11時43分 京子を家で迎えて座喜味の家を出発する。

11時49分 読谷村農協給油所でガソリンを入れる.

12時03分 比謝橋のたもと、吉屋チルーの歌碑」
   

 「恨む比謝橋や 情けないぬ人の 
    わぬ渡さともて かけておきやら」

  上の外間守善の説明にある歌と少々異なる。
  平成17年にできたもので、ぼくも初めて来た。まだ新しい。
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12時18分 嘉手納町の福祉センターの駐車場に車をとめる。比謝橋からほんの少し南に行ったところである。そこに「旧比謝橋模型碑」がある。
  それには吉屋チルーの歌ものっていて、それについてもふれられている。でも、かすれていてほとんど読めない。以前、舅曽根信一に連れられてきた記憶がある。
 新しい歌碑ができたので、ここは忘れ去られそうだが、ふるいのはそれだけでも価値があると思う。
 歌碑を訪ねてきた人は、ほんの数分南下すればいけるのでぜひ行ってほしい。
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1時34分 昼食をとるためにレストランに。

2時46分 仲島の大石の写真を撮る。バスターミナルの一隅にある。
  バス誘導係のおじさんが、ここは歩くな、むこうの歩道を歩けなどとうるさい。でも仕事だから、ご苦労様です。
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 よしやは、この近くの遊郭にいたとのこと。
表示板から抜粋「この付近に仲島の遊廓があり、多くの遊人が訪れ賑わっていた。歌人として有名な「よしや(吉屋地チルー)」も、この遊廓で短くはかない生涯を終えたと伝えられている。」

4時32分 親鸞聖人像のあるところに来る。読谷側から北上しているときは木の陰に隠れて分からなかった。マリブハウスのところでUターンし、南下したらすぐに分かる。
 そこに「よしやの墓」と言われているところがある。
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http://midori.ti-da.net/e1018399.html のページにあった。真偽のほどは分からない。
 でも、少しでもそういうことが伝わっているなら、地元で「よしやの墓と伝えられている」というような説明板でも作れば、定着してしまうのではないだろうか。観光にも一役かうかも。

4時58分 座喜味の家に到着。


「吉屋チルー」は本来の呼び名ではないらしい
 多くの沖縄の人が「恨む比謝橋や ~~~」の琉歌をよく知っています。とても有名な歌です。

そして、

「その作者は?」と問いかけると、

 ほぼ100%の人が自信満々に「吉屋チルーさ」と答えます。
沖縄ではそれくらい有名です。首里の王様の名前は知らなくても「吉屋チルー」の名前は知っています。

 ぼくもその中の一人でした。「恨む比謝橋や」の作者は「吉屋チルー」だと思っていましたのです。

 しかし、この「吉屋チルー」というのは本来の呼び名ではないようです。

 曽根信一著「読谷山路を行く」のp160~161にかけてを引用します。

「よしや」という名の由来

私たちがいま、「吉屋チルー」と呼んでいるのは、彼女の本来の呼び名ではないらしい。

昔からの色々な歌書も、殆ど単に、よしや(吉屋)とだけ書いてある。それをチルーと付けて呼ぶのは、明治以後の芝居のせいではないかという。

 しかし、チルーという名が、彼女と全く無関係ということでもない。前にあげた平敷屋朝敏作の「苔の下」の中に、
「つる君とてよしやにつかいけるうかれめそばに来て云々」とある。

 つまり、 つる(チルー)とはよしやの小間使いをしている禿(かぶろ)(先輩遊女に使われる少女)の名だったことになる。

 それを、あるいは吉屋を、彼女が召し抱えられている女郎屋と勘違いして、それにチルーを付けて吉屋チルーという姓名風にしたのだろう。

しかし、よしやとは、屋号ではなくて、彼女に付けられた渾名(ニックネーム)だったのではないかという説(島袋全発氏)がある。

(中略)

これが当時「かぶき者」と呼ばれた旗本奴である。その旗本奴のいくつかのグループの中でも、特に人々の口の端に上っていたのに、吉屋組というのがあった。この吉屋が、わがよしやの津名の起こりだというのである。

(後略)



 なお、この曽根信一はぼくの舅です。もうなくなりました。
 この「読谷山路を行く」は、ぼくが販売もしています。

曽根信一著「読谷山路を行く」

曽根信一著「読谷山路を行く」
 曽根信一著「読谷山路(ユンタンザジ)を行く」について前の記事で書きました。

 著者の曽根信一は舅になります。つまり、妻京子の父親です。もう亡くなりました。

 ずっと同居していて、ずいぶん影響を受けました。

 ここに「読谷山路を行く」の「まえがき」や「目次」を載せておきます。関心のある方はショッピングカートからご購入ください。

曽根信一著「読谷山路を行く」

まえがき

「道端の小石でも、拾えば玉になる」という言葉があります。この冊子は、それを試みてみようとしたものです。

路傍の石も苔を払ってやれば、そこから、読谷山一帯の歴史物語、あるいは、沖縄歴史と結びつきのある物語が見つかるのではなかろうか、という思いからです。

読谷山とは、今の読谷村のことです。この村は、太平洋戦争終戦直後の、一九四六年十二月十五日までは、ずっと昔から、読谷山と称えていたのです。

この冊子は、その読谷山時代のことで、今でも、目で見、じかに指さすことのできるものに限って書いたものです。それで、誰でも、現場に行きやすいように、案内地図を作成しました。おおまかな道順は、比謝橋を渡って、国道五十八号線沿いに北行してから、左廻りに読谷村内をー巡しました。

沖縄の女流歌人、よしやについては、比謝橋のところで書くべきはずですが、つい欲張って、彼女のことをいろいろ余計に書いてしまったので、この本の一番最後のところにまとめておきました。



目次

まえがき
掲載地図・写真について

比謝橋 ・石造比謝橋のこと そのレクイエム

米人の見た比謝橋・・・ペリー提督の『沖縄訪問記』も比謝橋のために特にぺージを割いている
尚巴志王三代の墓・・・琉球歴代国王中の大王 尚巴志王三代の基のこと

喜名番所・・・中山の最北端、いよいよ山原路へさしかかる

喜名番所の絵・・・アメリカの従軍画家の描いた一四〇年前の喜名番所

道路元標・・・ただー基で、読谷山の三文字を守り続けている「読谷山村道路元標」

村教育発祥の地・・・現在の喜名小学校敷地

読谷山窯跡・・・那覇壺屋より早く開け 突如として消えた読谷山窯のこと

観音堂と土帝君・・・喜名観音堂と土帝君の祠

坊主井・・・国王を追って、王妃・王子・摂政三司官らが読谷山に駆けつけた事件のこと

石碑の命・・・小さい石碑たちにメッセージを託する老人クラブ

座喜味城跡・・・沖縄の城の特徴を知るのに手ごろな城

美しい座喜味城 ー六〇〇年前・十五世紀の美術作品

シラシ御獄 ・・・おもろに歌われ、首里城へ蜂火も送ったという御獄

読谷山基督教教会・・・日本メソジスト読谷山教会のこと

掩体壕 ・・・日本軍の残したもの

渡慶次小学校・・・「沖縄障害児教育発祥校」の碑のこと

読谷山の馬追・・・農村にその痕跡をとどめるカタノーシンマウィ

ザンバ岬・・・海の向こうはユーラシア大陸

ザンバ岬を称える・・・「風を早める白帆煙を吐く汽船さながら 手に取るがごとき残波岬」

ザンパ岬の牛・・・かつて、ザンパ岬の広大な草地は、恰好な牧場であった

寂しい残波岬・・・沖縄を愛し、折りにつけ残波岬に思いをよせた折口信夫

瀬名波泉井・・・おもろ時代から今日まで、 波うちぎわに湧き続けている瀬名波泉井

赤犬子・・・琉球音楽の神様となった赤犬子

赤犬子はユタ・・・赤犬子はよたであったとおもろは歌う

阿麻和利の墓・・・戦国時代最後の英雄、勝達按司阿麻和利の墓のある所

続 阿麻和利の墓・・・こんな所に阿麻和利の墓がある経緯について

続々 阿麻和利の墓 ・・・阿麻和利の墓を守った人々

楚辺暗川・・・地底に下りて清水を汲む

釈迦空の歌・・・楚辺処女を「あはれと思ふ」歌三首

おいしい芋・・・もうーつの楚辺暗川

御獄・・・読谷山の御獄及び徳武佐のこと

付 比嘉秀平銅像

渡具知木綿原遺跡・・・渡具知木綿原遺跡のこと

渡具知東原遺跡・・・沖縄の歴史を、一挙に、三千年も遡らせた遺跡

梵字碑・・・アメリカの砲弾も避けて通った渡具知の梵字碑

海底電信線・・・沖縄海底電信線記念碑のこと

渡具知・・・沖縄縄文人、薩摩侵略軍、そしてアメリカ軍まで迎え入れた渡具知湊

女流歌人よしやのこといろいろ
・・・童女、遊女に売られて比謝橋を渡る
  ・・・「恨む比謝橋や」の歌のいろいろ
  ・・・よしやは三三八年前に死んだということ
  ・・・よしやの「島もとなどな」の歌
  ・・・「よしや」という名の由来」
  ・・・よしやと仲島の大石

あとがき
編集を終えて


蕎麦Cafeせい家
 日曜日の昼食は,嘉手納にある蕎麦Cafeせい家でとりました。ちょっと外出したので,ついでです。

 Kyokoが琉球新報の記事を読み,関心を持ったからです。大宜見の蕎麦を使っていること,ヤマトゥンチュで沖縄に移り住んで蕎麦屋を始めたとのこと。

 喫茶店といった感じのお店です。落ち着いた雰囲気。

 店主の趣味でしょうね。レコードがたくさん並んでいました。

 八割そばで,とろろそばと薬味そばをいただきました。白いそばでおいしかったです。

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あなたの魚は『普通』。あっちの魚は『サービス』
 昨夜、酒の場でYoshihiroくんが語ってくれた話です。おもしろかったので、ここに掲載します。

 観光客2人が、読谷村字都屋にある食堂「読谷海産物レストラン」に行きました。

 都屋の漁港のすぐ近くで、新鮮な海産物を食べさせてくれるという評判の店です。

 上品さはほとんどなく、荒々しいのですが、沖縄らしい食堂です。

 2人の観光客は、いろいろ迷ったあげく、2人とも「焼き魚定食」を注文しました。

 ところが、出てきた焼き魚、明らかに大きさが異なるのです。小さい方が来たAさんは不満です。

 それで、給仕のおばさんに言いました。

「ぼくの魚は小さいですよ」

 それにおばさんは、まったく動じることなく答えました。

「あっ、それね。あなたの魚は『普通』。あっちの魚は『サービス』。あなたの魚が小さいわけではないですよ」

 それにAさんは、言い返すこともできず、納得したそうです。


 大きさがまったく異なる魚を堂々と出すというところが沖縄らしいと思います。

 答えも名言ですね。

 でも、小さい方にはてんぷら1つでも加えてくれたらいいですね。

http://rp.gnavi.co.jp/5440542/map/

サタZOOナイト
 昨日は、土曜日。沖縄市にある「こどもの国動物園」では夏休みの間「サタZOOナイト」を行っていいます。そのことが新聞で報道されていて、Kyokoが行きたがっていたので一緒に行きました。

午後7時過ぎに沖縄こどもの国に到着。とても多くの車です。だいぶ遠くににある第二駐車場まで進んでやっと駐車できました。

 大人一人\500の入場料で入りました。

 すごく多くの人です。子供連れの家族が家族れ込んでいました。外人さんも多いです。

 最初は爬虫類のいるところ。こどもの国は前にも何度も来たことがありますが、ワニなどはいつも静かにしています。上からのぞくとくるりと人だかりができています。ワニもゆっくりではありますが動いています。
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 次にゾウ。ゾウに子どもたちがえさであるススキのようなものをあげていました。ゾウは鼻で草を取って黙々と食べています。。あとでのぞいてみるとこの数本の草が\200もするようです。それでもやっぱりえさをあげたいと思うようで、長い列ができていました。沖縄こどもの国もこの企画で大分儲けているでしょう。
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 へびの部屋を通り抜けて出ると、飼育係が子どもたちにへびを触らせていました。Kyokoもさわりました。
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 カバも夜はよく動いています。前に来たときは水にどっぷりつかっていて、からだの一部しか見ることができませんでした。でも夜はゆっくりゆっくりではありますが動き回っている姿を見ることがきました。近くで見るとやはりかなりでっかい動物です。
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 園内放送がありました。8:30から、動物たちにえさをあげるということです。ライオンのところ通過してきたところで、やはりライオンにえさをあげるのを見たいということで戻りました。案の定かなりの人です。

 それでも2番手についてみることができました。8時30分になると飼育係三名がやってきてえさをあげる準備をしました。釣り針のようなものに肉の一片をひっかけて上の方つりさげてえさをあげます。でもライオンは、おなかがすいていないのでしょう。なかなか動こうとはしません。飼育係が棒でつついていました。最初はゆっくり動き始め、肉を食べてしまいました。
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 熊もいました。小熊と思われます。一人でボール遊びなどをしていました。動いているのを見るのはいいのですが、ひとりぼっちでオリの中に入れられてかわいそうな気も気がしました。

 ほかの動物たちもそうですね。それを見に来た僕らは残酷な動物なのでしょう。


メキシカンハウス・リマレストラン
 サタZOOナイトのあとは、沖縄市の「メキシカンハウス・リマレストラン」で夕食。

 レストランの駐車場に車をとめ、裏からレストランに入る時、そこにかかっている雨よけのホロを見て、Kyokoが「なつかしいね」と言っています。

 基地の町では、レストランといえばこういう感じだったそうです。

 僕は首里で生まれ、育ちました。近くには基地はありません。

 しかし、Kyokoは読谷村で生まれ、育ちました。読谷村は基地の村です。だから同じ沖縄といっても感覚がかなり異なります。

 この雨よけの赤いホロを見たら昔のレストラン思い出すそうです。

 店内に入っても雰囲気としては基地の町にあるレストランだそうです。

 たっぷりたっぷりの料理を十分に食べました。いくらかは残して、明日の夕食にするといってビニールの袋に詰めていました。
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 会計をするためにレジに立ったKyokoが僕に声をかけました。

「ほらAサインがあるよ。」

 Aサインと言葉は僕にもなじみではあります。で新聞やニュースで見たり、聞いたりする用語です。

Aサイン(えーさいん、A Sign)は、復帰前の沖縄において米軍公認の店舗に与えられた許可証のことである。
1953年に制度が発足。米軍による衛生基準に合格した業者に与えられた。Aサインの「A」は「Approved(許可済)」の頭文字で、公認の店舗は許可証か「A」の表示を店頭に掲げて営業した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』.


 Aサインバーで殺人事件があった、などとよく報道されていて、遠い出来事として感じていました。
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 しかし、今読谷村に移り住んで妻のKyokoと話したり、嘉手納に住む知人と話しているとAサインというのが生活の中で生きていたというのがよくわかります。

 Aサインの「A」は「Approved(許可済)」の頭文字だったのですね。ぼくは今まで、A,B,Cのランクがあって、Aランクの店だと思っていました。

 復帰の後は、そういう制度はなくなったようですが、まだそのサインを壁に掲げているのですね。

 これを見て懐かしく思う人もいるでしょう。また、観光客も昔はこういうのがあったというのを見るためにも、いいものだと思います。
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ペリー一行が歩いた道
 1853年、ペリー 艦隊が浦賀に来航し、翌54年3月31日、ペリーは 日米和親条約を締結しました。それは有名ですね。

 その前後にわたって琉球に6度寄港、滞在しています。そして、。
 1854年7月11日、ペリーは王府との間で 琉米修好条約を締結しています。そして、1853年5月30日から6日間にわたって、沖縄本島を調査しました。それにはペリーは同行していないようです。

 それで、ペリー一行の足跡を追うことにしました。

2010年8月17日(水曜日)

午後12時30分 読谷村喜名番所に到着。喜名は、ぼくの住む座喜味の隣です。石嶺Airaさんが案内をしていました。京子の同期生です。
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喜名番所跡(道の駅)
 役場兼宿場の性格を備え、那覇から国頭への宿次として交通の要所になり、戦前まで読谷における行政・文化の中心として栄えてきました。1853年6月3日には、ペリー提督配下の探検隊もここで休憩し、地元民から鶏や卵、キューリなどのサービスを受けたといわれています。


http://heiwa.yomitan.jp/4/3523.html
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喜名番所の前には大正時代の道路元標(どうろげんぴょう)があります。道路元標とは、道路の起点を示す目印。沖縄では、ここと美里(沖縄市)だけに残されています。


http://toraheko.ti-da.net/e1955760.html

1時20分 昼食,カレーバイキング。

2時18分 オーシャンキャッスルカントリークラブの入口。「ペリーの旗立て岩」に向かって歩き出しました。ハンタ道代替道。カントリークラブの駐車場にいったん車をとめたのですが,そこからだと遠くなるので,移動して、出発しなおし。

2時26分 本来のハンタ道に入りました。

中頭方東海道「ハンタ道」
首里城を起点として、西原町の「幸地グスク」、中城村の南上原・北上原・新垣に延びる丘陵上の古道を「ハンタ道」とよぶ。ハンタ道は首里城と中城グスクを結ぶ最短のルートである。
首里城→幸地グスク→新垣グスク→中城グスクを結ぶとなれば、グスクの道であり、沖縄グスク時代(12~15世紀)の戦場の道である。


http://www.nakagusuku.or.jp/chiiki/rekishi/gosamaru.html
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2時30分 ペリーの旗立て岩に到着。写真を撮しました。逆方向から車で来ることができるようで、車に先着の方がいました。ぼくらに,どうやって歩いてきたのかを尋ねました。

ペリーの旗立岩(新垣)
●1853年琉球に寄港したペリー提督率いるアメリカ艦隊の調査隊が、中城グスクへ至るハンタ道の道中で、写真中央に見える岩の頂部に旗を立てて、その周辺で休憩をとったとされている。
●ペリー提督の探検隊のハイネが残したスケッチ。探検隊の様子や当時の琉球の風俗が垣間見ることができる。
●兵士達が祝砲を撃っている様子が描かれている。



http://www.nakagusuku.or.jp/chiiki/rekishi/hata.html
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2時43分 ついでに、新垣城(あらかきぐすく)も見物。

●築城年代は不明。出土した遺物から13世紀前後と推定されている。
●グスク内には御嶽および祭祀場などがあり、新垣集落の重要な拝所となっている。なお、グスクの興亡にまつわる伝承はない。


http://www.nakagusuku.or.jp/chiiki/rekishi/gusuku.html
2時51分 新垣集落跡も見て、車をとめてあるところに戻ります
3時13分 ハンタ道の入口まで戻ってきました。車に乗ってこれから中城城跡へ。

3時27分 中城城跡の駐車場。

●武将・護佐丸の居城として知られ、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして世界遺産に登録された沖縄を代表するグスクの一つである。


http://www.nakagusuku.or.jp/chiiki/rekishi/naka.html

中城城はその後も威容を誇り、1853年に黒船でペリー提督一行が沖縄に立ち寄った際、中城城を測量し、「要塞の資材は石灰岩であり、その石造建築は、賞賛すべき構造のものであった」と『日本遠征記』に残しています。


http://www.vill.kitanakagusuku.lg.jp/site/view/contview.jsp?cateid=6&id=113&page=1
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3時31分 入場料1人300円。窓口でペリーについて尋ねました。ペリー本人は来ていないそうです。西の郭のスケッチをしたのだが、説明板にはないとのこと。

4時03分 西の郭を見物して、駐車場に戻りました

4時34分 帰路、道の駅「かでな」に寄り、屋上に上って嘉手納基地を見ました。学習展示室も見学、ビデオも見ました。アイスクリームを食べました。

5時19分 セルフ塾に到着

沖縄の暑さ
 ニュースによると本土の方では猛暑が続いているようです。天気予報では沖縄の方が本土よりもずっと低い気温です。

 でも、ニュースの映像を見ると、本土の人と沖縄の暑さがだいぶ違うように感じます。

 本土では、町を歩く人々が顔を流れる汗をハンカチで拭いていて、とても暑そうです。でも、直射日光を気にするようなそぶりはほとんどありません。確かに日傘をさして歩いている人は多いです。

 沖縄の暑さは直射日光です。日が差したところはとても暑いです。でも、直射日光をさけて日陰に入ると本当にホッとするのです。

 だから、横断歩道で信号が変わるのを待つ短い間も、電柱の陰にでも隠れているのです。

 僕はスクーターを利用しています。信号待ちの時にはどこか日陰がないか探して、そこでスクーターを停車させます。それぐらい沖縄の直射日光はすごいのです。

 気温は百葉箱の中の気温です。たぶん僕が学生のころは、そのように教わりましたがたぶん今でもそうでしょう。つまり、直射日光は避けているのです。

 日の射したところで比べるとやはり沖縄の方が本土よりも高い温度になると思います。

 本土ではもう九月にもなるとそろそろ涼しくなるでしょう。でも沖縄の夏はまだまだ続きます。十月ごろまではこのような暑い日が続くのです。

ペリーの「旗立て岩」
 きのうは,中城村の旗立て岩に行きました。

 前回も行ったと紹介しました。
ペリー一行が歩いた道

 そのとき,Kyokoは,「どこに岩があるんだろうね,それらしいのは見あたらないけど」と言っていました。

 さて,KyokoのいとこのTamotsuくんが旗立て岩の近くに住んでいます。
 先日,旧盆でそこにKyokoが行きました。

 彼に先の疑問をぶつけたのです。

 すると,彼は,「岩はちゃんとあるよ」と言い,連れて行ってくれたのです。

 それで,今回はぼくもいっしょにその岩に向かいました。

 まずは,Tamotsuくんの家に行きました。

 理由は2つ。Kyokoはそこから連れていってもらったので,そこからの道順しかしらない,もう1つは,塾の庭でとれた野菜をプレゼントに。

 Tamotsuくんの家は中城村新垣。建て売り住宅のところです。本部落とは別。

 畑道を車で進みます。しばらくして,Kyokoが車を止めるように言うので,道ばたに留めました。

 そこから見上げると,確かに岩が見えます。それが「旗立て岩」とのこと。かなり高いところにあります。そこからだと東西の海が見渡せたでしょう。
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 そして,新垣の本部落へ。そして,ぐるっとまわって,墓のあるところ。そこから歩きます。道なき道を歩きます。密林をかきわける感じ。
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 もし,岩まで行きたい人は,軽装で来た方がいいですね。そして,村役場に問い合わせるなりして,道の分かる人についてきてもらった方がいいです。案内板もありません。少しだけ危険でもあります。(村役場に問い合わせたら,案内者を紹介するかどうかは分かりません。ただ,案内者がいないと無理に近いということです)

 その辺りは,地面の裂け目になっていて,左右に移動しているとのこと。Tamotsuくんは地質の専門家です。あちこちに裂け目が見えます。旗立て岩も2つに分かれています。そういう意味でも危ないところです。素人のぼくの目では,2つの岩がただあるだけにしか見えませんが。
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 Tamotsuくんは,毎年見に来るそうです。どれくらい移動しているかを調べるために。

 さて,なんとか岩の下までたどりつきました。下から見上げます。

 岩の上に上りたいと思い,途中まで行ったのですが,きびしいです。身が軽ければ上ることができそうです。でも,ぼくには危ない。無理はよそうと思い,止めました。でも,旗立て岩そのものを見ることができたのは,大きな収穫です。

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 さて,場所です。
 「ペリーの旗立て岩」の説明板があり,展望台があるところの裏手です。そこに車を止めて行くこともできます。
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 展望台に向かって右の方向に「ハンタ道」を行きます。ゴルフ場に向かう感じで。

 すると左に車一台が通るくらいの小道があるので,そこを進みます。すると,次のような施設が見られます。何の施設かは分かりません。
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 その建物に向かって右手の方に進みます。墓や畑があります。ぼくの行ったときはサトウキビ畑でした。

 そして,次の墓の後ろにまわって進みます。
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そこからは案内者がいないと難しいですね。

中野昌彦著「ペリーを訪ねて」
 中野昌彦著「ペリーを訪ねて」を読んでいます。面白い、興味深い本です。



 でも、琉球、沖縄については全くありません。全くないと言ったら語弊があるかもしれません。

 日本でのことを書きながら、それに関連して琉球が出てくることはあります。

 しかし、琉球でペリー提督がどのようにしたのかについての記述は、基本的ににありません。

 ペリー提督一行は浦賀に来る前後に琉球に訪れています。そして琉米修好条約をむすんでいます。

 琉球のあちこちを回って調査をしています。絵画もいくつもあります。僕の住んでいる読谷村にも訪れています。そのあたりのことが書かれているかと思って、期待していたのですが全くありません。

 ペリー提督の米国での状態などは結構詳しく書いているのですが 、琉球について書かれていなくていないのは残念です。

 あのころ琉球は日本ではないので、日本から離れたら外国に行っているということで、日本とは関係ないということなのでしょう。そういう意味では仕方のないことだと思われます。

 さて面白い箇所があるので引用します。

 3月31日に条約が調印されると、今度は日本側が饗宴を催した。(中略)

 ウイリアムスにとっては、がっかりする料理だったらしい。沖縄でふるまわれた料理の方がはるかに良かったし、おそらく江戸ならもっとおいしかっただろうし、神奈川でさえもっとよいものが出ただろうと書いている。

 『ペリー遠征記』にも、親切に心をこめた接待はよくわかったが、料理は沖縄の方がよかったと書いているから、だいぶ期待外れだったようだ。



 僕も、本土に住み始めたころは日本の料理があっさりしすぎて物足りないという感じを持ちました。

 沖縄の料理は中国料理に近いと思います。豚肉も出てきます。そういう意味ではアメリカの人の口にあったのではないでしょうか。

危機言語ウチナーグチ
 まずは次の記事を。

http://eternalscrap.tumblr.com/post/80160947/2500-8

 世界で約2500の言語が消滅の危機にさらされているとの調査結果を、国連教育科学文化機関(ユネスコ、本部パリ)が19日発表 した。

 日本では、アイヌ語について話し手が15人とされ、「極めて深刻」と評価された。

 このほか沖縄県の八重山語、与那国語が「重大な危険」に、沖縄語、国頭(くにがみ)語、宮古語、鹿児島県・奄美諸島の奄美語、東京都・八丈島など の八丈語が「危険」と分類された。ユネスコの担当者は「これらの言語が日本で方言として扱われているのは認識しているが、国際的な基準だと独立の言語と扱うのが妥当と考えた」と話した。



 昨夜、友人たちと酒を飲みました。

 高校の同級生Yoshihiroくんが、

「Yojiは、いつも方言をつかっていたよな」といいました。

 そうですね。ぼくはよく方言をつかっていました。首里中出身の仲間とは特に。

 でも、ぼくの方言はちゃんとした方言ではありません。

 ぼくが小学、中学のころ、方言は使ってはいけないと教育されていました。

 「共通語励行週間」なんてものがあったのです。

 多くの生徒が方言を使う。それでは教育にならない。だから、学校をあげて方言を使うのを禁止し、共通語を使うようにしよう、というものです。

 帰りのホームルームでは、「○○が方言を使っていた」と、告げ口をさせるようなことまでやっていました。

 方言を使うのはよくないことだ、と教え込まれたのです。

 でも、素直でないぼくらは、隠れては方言を使っていました。

 家に帰っても、似たようなものでした。

 祖父、おば、父親は、大人同士で話をするときは、方言を使っていました。
 でも、ぼくら子どもと話すときは、共通語を使うのです。おじいさんまでそうでした。

 だから、ぼくは大人と方言で話す機会がありませんでした。

 ぼくが方言を話すと、おばさんたちは、
「こんな方言があるか」と笑うのです。

 間違えた方言を使ったら、笑われるだけです。
「こういうときんは、こう言うんだよ」と教えてくれたことはありません。
 だから、大人と方言で話すのは避けるようになりました。

 振り返ると、ぼくの時代が分かれ道かなと思います。あのころに、「共通語励行」などという運動をせずに、方言を残しましょう運動をすれば楽に残すことができたでしょう。

 ぼくの兄は2学年違うのですが、お年寄りとも方言で話すことができます。

 妹は、2学年下です。方言はまったく使いません。女の子はぼくの同期生も先輩方も方言を使わなかったので、学年の差のせいだけとはいえません。

 弟はぼくと5学年違います。彼が方言を話しているのを聞いたことがありません。聞いて理解することはできるようです。方言はまったく話せないと言っています。

 ぼくが小学、中学のころに、みるみる方言が使われなくなっていったのです。

 「英語脳」などという言葉が最近よく使われますね。

 それがあるとしたら、ぼくには「沖縄語脳」があります。きちんと正しい沖縄語とはいえないかもしれませんが、ぼくは沖縄語を使うことができます。

 あのころなら、ちょっとしたエネルギーで方言を残すことができたでしょうね。

 いまの子どもたちは方言がまったく使えません。彼らの使う方言はぼくが聞いてもおかしな言葉です。方言とも共通語ともいえない言葉です。

 彼らに方言を教えるのは難しいですね。よっぽどのことがなければ無理です。

 ぼくらが死ぬころは方言も死んでしまうのかもしれません。

 妻の話によると舅(曽根信一)は、方言を残す努力をしていたようです。妻が小学生のころ、方言DAYというのを設けて、その日は方言しか使っていけない、ということにしたようです。

 妻は方言が使えないので、その日はいやだったと話しています。

 ぼくはちょっと勉強すれば、方言が上手に使えると思っています。塾を閉めて時間ができたら、勉強してみようかな。

沖縄語、いまはまだ元気

rinkaan さんからコメントをいただきました。ありがとうございます。

沖縄語ラジオ
実は、5月の連休に沖縄に行きました。

那覇のタクシーに載ったところ、ちょっと奇妙なラジオ放送がなっています。方言と標準日本語とをあえて混ぜて話している、教育番組的なモノだとわかりましたので、「沖縄語ラジオ番組ですか?」と質問してみたのです。やはり、そのようです。

こういう放送を聴いていたら、沖縄の言葉を理解することが出来るようになるのでしょうね。おそらくオランダ人やドイツ人が英語を学ぶというのは、沖縄語を学ぶくらいの感じなのかなあと思いました。

コメント,メールのブログ掲載について


沖縄にいらっしゃったのですね。会えなくて残念です。

沖縄の言葉はまだまだ元気ではあります。ラジオを中心に沖縄の言葉をよく聞くことができます。

僕は、最近はラジオを聴く機会がほとんどありませんが、中学高校のころにはよく聞いていました。兄が好きで、そのそばで聞いていてそして好きになったところもあります。

民謡番組などでは進行役が方言で話をして、その話題もとても面白かったです。その番組がまだまだ続いているようです。

方言を聞き取ることはできるが方言は話さず、共通語を話す女性アナウンサーと、方言がとくいな男性アナウンサーや芝居俳優との対話という形のものもありますね。

方言ニュースというのもあります。沖縄の言葉でニュースを語るのですね。現在の沖縄県知事仲井眞弘多氏の父親仲井眞元楷(なかいま げんかい)さんがやっていたころよく聞きました。


僕よりも年上の方は、方言の方が親しみを感じられ、共通語よりもいいといいます。

だから、方言でラジオ番組がまだ続くのですね。それは一つの沖縄の文化だと思います。

新しい民謡が次々に産まれています。若い民謡歌手も多いようです。

民謡歌手は、自分で作詞作曲をしてCDを作り売っているようですから、プロですね。

沖縄の方言で行う芝居もあります。劇団もいくつかあります。

僕が小学、中学生のころには、テレビ番組で沖縄方言の芝居をしていました。たしか毎週水曜日で「水曜劇場」と言っていたと思います。

おじいさんや叔母たちがとても楽しみにしていました。その横で僕も見ていました。

今はレギュラー番組としてはないと思いますが、たまに特別番組としてやっているようです。

そういう文化がまだ残っているというのは、沖縄人の一人として誇りに思います。

ただ、僕よりも若い人はそういうものを聞き取ることが難しくなっています。だから今後どうなっていくのか心配です。

言葉がなくなるということは、文化がなくなるのだということを本当に実感します。

Rinkaanさんが書かれているようにオランダ人やドイツ人が英語を学ぶのとよく似ていると思います。

僕も第二外国語として大学でドイツ語を少しだけかじりました。やったというにはとても恥ずかしい程度しか知りませんが。

僕は、ドイツ語と英語より、共通語と沖縄語はより近いと思います。とてもよく似ています。

だから共通語を知っていれば方言を少し学ぶだけで方言は使えるようになると思います。

ただ、それが日常的に必要とされるかどうかというのがとても大きい問題でしょう。

似ているとはいえ、言語は難しいです。趣味というだけでは残すのにはやはり難しいです。

日常の生活の中で方言を使うことがなくなった今、若者たちが方言を使いこなすことができるようになるのはとても難しいことに思います。

 いまは元気でぴんぴんしているが、がんが見つかって、余命が○年といわれているような感じがします。


尚巴志3代の墓
 先日お電話をいただきました。本土の方のようで、男性です。

 近々、沖縄に来るとのこと。

 「読谷山路を行く」を読んでいるが、その中にある尚巴志3代の墓を訪ねたい。基地の中にあると、書いてあるが今でもいけるのか、
 とのことでした。

 僕は知っていることは、お答えしました。

 基地の中にあるとは言っても黙認耕作地で、だれでも行けるところです。

 それ以上のくわしいことはよく知りませんでした。

 お電話では「5年ほど前に」と云いましたが、ゆっくり考えてみるともう10年以上も前のことでしょうか。
 「読谷山路を行く」の著書で舅の曽根信一が元気なころに連れて行ってもらったことがあります。

 僕が運転はしたのですが、曽根信一の指示に従ってハンドルを切っただけで、道はよく覚えていません。。

 それで、墓への行き方などは詳しくお答えすることができませんでした。

 いい機会だと思って、妻と二人で尚巴志の墓に行きました。
 妻は、その後友人らと墓を訪ねたことがあるとのことで、墓へ行けることに自信があるようでした。

 妻の指示で車を動かし、無事に墓まで行くことができました。

 ここに詳しい道順を示します。

 国道58号線を名護方面から那覇向けに南下しました。読谷村伊良皆交差点の直前で左折し、米軍基地(弾薬庫)の中に入ります。

 ここは現在は自由に出入りができます。黙認耕作地などがあるところです。

 那覇から名護向けに北上するときには、伊良皆交差点を過ぎてすぐ右折すればそこに行くことができます。

 その入り口の写真を次にのせておきます。
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 2~30mほど進むと、すぐ二股に道がわかれているので、左のほうに進みます。
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 そのまま道なりに進んでいきます。ゆっくり7~8分車を走らせると、右は行き止まり、左は上り坂になっているところにつきます。そこで、駐車しました。上り坂はかなりのでこぼこです。実はここで無理に上って、車を傷つけてしまいました。

 車を下りて、歩いて引き返すとせせらぎが流れています。車を降りてから気付いたので車からだと分かりにくいと思います。
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 せせらぎのすぐそばに、車の入らない、小さな道があります。その入り口に「尚巴志王之墓の碑」がたっています。少し奥の方に立っているので車からだと見えにくいかもしれません。
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 せせらぎに沿った小道を歩いて進みます。
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3分ほど歩くと、右手の方に石碑が見えます。
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そして奥の方に尚巴志3代の墓があります。
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 小道さえ見つけることができれば、分かりやすい場所です。

沖縄方言、ウチナーグチ、琉球語
 僕はこれまで沖縄方言、ウチナーグチ、琉球語を全く区別ししないで使ってきました。

 僕にとっては、ウチナーグチというのは、琉球語であり、沖縄方言だったのです。

 それで、今の若者は沖縄方言が全く使えない、または、僕は沖縄方言がそれほどうまくはない、などということを書いてきました。

 ところが、ネットを調べてみると、沖縄方言と琉球語を区別した方がいいのではないかというページに出合いました。

2章  <現在の沖縄方言の特徴>


琉球語は現在、若い世代ではほとんど使用されていない。しかし、沖縄でも他府県同様に方言が現在も使われている。
山口大学人文学部言語文化学科4年上谷有三


 それは、いい考えかもしれません。昔、沖縄で使われていた言葉を琉球語とし、そして現在若者が使っている共通語ではない、沖縄で使われている言葉を沖縄方言とするのです。

 方言を「一定の地域社会に行われる言語」とすれば、若者がいま使っている言葉は、沖縄で行われる言語ですから、方言と言えます。

 つまり、若者は沖縄方言を使っていることになります。

 それはそれで一つの文化といえるかもしれません。

 僕の耳で聞くと、若者が使っている方言は、全く聞くに堪えないものです。こんな方言があるのかと思ってしまいます。

 でも、言葉というのは変わていきます。これだけ標準語が当たり前になっていると方言も大幅に変わってくるものです。

 沖縄の場合には 琉球語と現在若者が使っている言葉との間にはものすごい差があります。

 僕はどちらかというと、まだ琉球語を使う方にかなり近いです。

 ぼくの世代を境にして、琉球語がなくなりつつあり、そして、沖縄方言という新しい言語が作り出されてきているのです。

 ウチナーグチは、琉球語とイコールでいいのではないでしょうか。


沖縄はまだ夏
今年、日本列島は猛暑でした。天気予報をを見ると、沖縄の気温よりも温度の気温の方がずっと高かったです。
ただ、直射日光は沖縄の方がすごいということを以前書きました。

沖縄の暑さ

 さて、本土の方は夏は終わり秋そして冬に向かっているようます。

 しかし、沖縄はまだ夏なのです。

 確かに、8月ほどの暑さはありません。しかしまだまだ暑い日が続いています。

 塾の学習時間が始まり、中学生がやってくると、

「暑い、暑い、クーラーを入れてくれ」という言葉から始まります。

 まだまだエアコンにお世話になる時期が続きそうです。

沖縄大百科事典
 おととい金曜日の夜、塾を途中で抜けだして、亡くなった妹のところへ行きました。アパートの一室です。

 母、おじ、兄などが、妹をしのびながら集まっていました。

 本棚に目を移すと、なんと「沖縄大百科事典」があるではないですか。

 妹が持ちそうではありません。妹の夫のものにちがいないと思います。

 「沖縄大百科事典があるね」と言うと、母が「欲しければもらっていよ」と云いました。

 ほかの人たちも、僕が貰うことに異存はないようです。

 この沖縄大百科事典は絶版になっていて、古本でなければ手に入ることができません。

『沖縄大百科事典』 (おきなわだいひゃっかじてん)
 沖縄大百科事典刊行事務局編、1983(昭和58)年沖縄タイムス社刊。同社が創刊35周年を記念して刊行した上中下3巻・別巻1からなる沖縄初の大百科事典。約1万7000項目を収録。

沖縄コンパクト事典



okinawadaihyakka.jpg


 今アマゾンで調べてみると、マーケットプライスにいくつか出ています。値段は\25,000から\60,000。定価は\55,000。

 これまで、沖縄関係のことを調べるときは、ネットにつないで検索していました。だから簡単なことは手軽に調べることができます。

 でも、この大百科事典は、内容がもっとしっかりしています。

 以前から欲しいとは思っていました。

 年をとるに従って、故郷沖縄に対する関心もだんだん深くなっています。沖縄についてもっともっと知りたくなっています。この沖縄大百科事典が役立つことは確かです。

 帰る時に、「では頂きます」と言って、もらってきました。とてもうれしいです。さて、 最近は、電子書籍というのがだいぶ流行っているようです。

 この電子書籍では、絶版になった良書が復刊するということがあるとのことです。

 この沖縄大百科事典は、電子書籍にでもなってぜひ復刊してもらいたいものだと思います。

 また、コンピューターを使っている者にとっては、デジタル化してCD-ROMの電子事典になって、気軽に使えれば、便利なのですが。

広告料の割引
 沖縄県では、告別式の広告を新聞に載せるということを以前に書きました。
沖縄の告別式新聞広告

 さて、妹の告別式も新聞に掲載することにしました。

 兄がいろいろ取りまとめて原稿を作っていました。名前を載せることに関して本人の了解を得るという作業を僕も手伝いました。

 スムーズに原稿作りが終わりました。新聞社の担当もやってきて、いろいろ相談しながら作業を進めています。

 そして、最終的に決まり、請求書が兄に渡されました。

 そのときです。僕の母が兄を指さして、新聞社の広告担当に言いました。

「これ(兄)の娘婿も、あなたの新聞社に勤めているんだよ:

 そして、その娘婿の部署などを話していました。

 新聞社の広告担当は「えっ!」という感じで聞いていましたが、急に先ほど兄に手渡した請求書を、自分のところに引き寄せて、それに何かしら書いています。

 書き終わり、また兄に請求書を手渡しながら、
「関係者には割引きがあるのです」と言ったのです。

 母は、そういうつもりで言ったのでは全くなく、その新聞社の社員がいるので、世間話をしただけなのです。

 でも、結果的にはいくらか割り引いてもらったので得をしたということです。

 兄は、「(娘婿に)酒をおごってあげなければいけないな。一人で飲むのはなんだから一緒に飲んであげよう」と冗談を言っていました。

真玉橋の人柱伝説 ― 七色ムーティー
 昨日は妹の告別式でした。火葬開始と骨拾いの間、控室で時間潰しです。

 そこでいろいろな話しが出ました。

 ぼくのおばToshikoが無口だという話になりました。とても無口な方でした。もう故人です。

 Toshikoおばの長女、ぼくのいとこのHiroko姉が、母Toshikoが無口であるということに理由があるというのです。

 「母が子どものころに、親から『真玉橋の 七色ムーティー』の話を聞いたからなのよ。

 軽はずみなことを言ってしまうと、それが自分に降りかかってくる、という話を聴いて、それ以来、口数がとても少なくなったのよ。」

 僕は、その話を知らなかったので、Hiroko姉に話してもらいました。

 先ほど、ネットで検索してみると次のページが出てきました。引用をいたします。

真玉橋の人柱伝説 ― 七色ムーティー
豊見城村と那覇市の間を流れる国場川にかかる真玉橋は、1522年、尚真王により、首里と豊見城間切を結ぶ重要な橋として建設されました。

しかし、当時木で造られた真玉橋は、大雨のたびに洪水で流されてしまうため、1707年尚貞王の時代に、じょうぶな石で造り替えることになったのです。


ところが、工事のために大勢の人をかりだしたにもかかわらず、大雨になるとせっかく造った橋脚が流されてしまうため、工事はなかなかはかどらず、役人たちは困り果てていました。

そんな時ひとりの神女が現れ、「この橋を完成させるためには、子(ね)年生まれデ、七色の元結をした女を人柱として立てよ」と神のお告げがあったといいました。

「な、な、なんと人柱とな」びっくりした役人たちでしたが、神女の言うことにはさからえないため、あらゆる手段を使って探させました。けれども、子年生まれで七色の元結をした女は、なかなかみつかりません。

そんなある日のこと、あの神女も子年生まれであることが、役人の耳に入りました。そこで、役人たちが神女の家を訪ねてみると、なんと神女の元結が七色に輝いているではありませんか。

思わぬ役人の訪れにあわてふためいた神女は、「これは、誰かが私をおとしいれるためのしわざです」と泣きながら訴えましたが、役人たちは耳を貸しませんでした。

あくる日、神女は、自分が口に出した神のお告げどおり、人柱として生き埋めにされることになりました。

大勢の人々がその様子を見守る中でなげき悲しんでいるひとり娘に向かい、神女は大声でこう叫びました。「娘よ、どんなことがあっても人より先に口をきいてはいけない」泣きながら母の最後の言葉を聞いた娘は、それ以来、口をきかなくなったのです。

その後、村人たちは、「物ゆみ者や 馬ぬ さちとゆん」(おしゃべり者は、馬の先を歩いて災いをまねく)と言って、お互いに戒めあったということです。

※七色ムーティーの言い伝えは、本土の「長良川の人柱」という芝居をもとに平良良勝が「真玉橋由来記」として書き直し、昭和10年頃上演されたのが始まりともいわれています。



「雉も鳴かずば撃たれまい」という話しによく似ていると思います。

まんが日本昔ばなし「キジも鳴かずば」

 親の話で無口になったというのはおもしろいです。

 でも、同じ話を聴いたと思われる次女のFumiおばは、とてもお喋りです(Toshikoおばは長女)。

 「2人を足して2で割ればいいのに」という声も聞かれました。

 また、Hiroko姉は母親からこの話しをきいたのだが、自分は無口にはならなかったと、笑いながら話していました。

 結局は気質の問題かなと思いました。

区民清掃作業、屋号
 まずは笑い話から。

 沖縄出身のAさんが東京で自己紹介をしました。

「私の父は区長です。」

 それを聞いた東京の人たちは「すごいな区長さんの子供なんだ」と感心しました。



 なにが笑い話なのか伝わっていないでしょうね。たぶん。

 説明します。説明しなければいけない笑い話というのは、いい笑い話ではないのですが。

 東京の人にとって「区長」をというのは、世田谷区、新宿区などの特別区の首長のことですね。

 でも、沖縄では「区長」というのは市町村のさらに下の行政区のことです。

 僕の住んでいる読谷村では座喜味は「座喜味区」とよく言っています。そこの首長が座喜味の区長です。選挙で選ばれます。

 座喜味は約3,000人の人口ですから、その長ということになります。

 東京の特別区は都道府県レベルの人口です。

1 東京都 世田谷区 約84万人
2 東京都 練馬区 約69万人
3 東京都 大田区 約67万人


 だから同じ「区長」でも東京の「区長」は都道府県知事レベルということになります。

 格付けがだいぶ異なるということです。

 この「区」を、ここではよく用います。

 座喜味区民運動会、座喜味区豊年祭などなど。

 前書きが長くなりました。実は今日は座喜味区の清掃作業に行って来たのです。年に2回、春と秋に座喜味区清掃作業があるのです。

 こ草刈機をもって出かけました。慣れない作業なので、うまくいかないこともありましたが、なんとか終わりました。

 ぼくは出身は読谷ではありません。
 地元にまだなじんでいないので、「アレーターヤガ(あの人はだれだ)?」という声が聞こえます。
 すると、ぼくを知っている人が「アレー、ミーヤーメーウザのムークヤサ(あの人は新屋前宇座の婿だよ」というように紹介してくれます。

 「新屋前宇座(ミーヤーメーウザ)」というのは、屋号です。ここではまだまだ屋号が生きているんです。

や‐ごう〔‐ガウ〕【屋号】
1 家屋敷の各戸につける姓以外の通称。先祖名、職業名、家の本家・分家関係などによって呼び分けた。家名(いえな)。門名(かどな)。


 新屋前宇座というのは、どうも次のようにできたようです。まず「宇座」という役目をもらった人がいたので、そこを「宇座」と言った。その前に分家して家を建てたのが「前宇座」。さらに分家して新しい家を建てたので、「新屋前宇座」。

 お年寄りに自己紹介をするときには、この屋号を言わなければいけないのです。ここではまだ。

伊是名島滞在を4時間に
 先日、伊是名島観光に行って来ました。

 伊是名島は、尚円王(金丸)の生誕地として有名です。そのゆかりの地がいくつもあります。それで、ぜひ訪ねたいところだとずっと思ってきました。

 でも、日帰り観光がなかなか難しいのです。一泊すればゆっくり回ることができますが、ペットを飼っているので一泊することはできません。それでずっといくことができませんでした。

 今回、短い時間でもいいから日帰り旅行をしようと計画し、強行しました。

 下準備は十分にしましたが、かなり駆け足の旅でした。

 11時30分、伊是名島にフェリー船がついて、そして次のフェリー船が伊是名島を出るのが午後1時30分。2時間しかありません。1日2往復だけです。

 伊是名島についてすぐに予約してあったレンタカーを借り、大急ぎで一巡りしました。

 一応は楽しい、有意義な伊是名島観光ができたと思っています。

 でも、途中からフェリー船が出る時間が気になって、いくつか行きたい場所をカットしました。

 次のフェリー船は翌日になります。絶対に逃すことができないので、時間的に少し余裕を持って港に駆けつけました。

 一巡りして、やはり2時間では短いなと感じました。

 あと2時間あればもっとゆっくり日帰り旅行を楽しむことができるのにと思います。

 伊是名の皆様には、伊是名の皆様なりの考え、都合があると思います。

 でも 4時間の滞在ができるようなフェリー船の運航時間をつくってくれれば日帰り旅行を楽しむ人が多くなるのではないでしょうか。一泊旅行が難しい人は多いはずです。

 尚円王(金丸)の生誕地として大々的に売り出せば、伊是名島を訪ねたい人は少なくないと思います。

 旅行会社と提携して日帰りツアーを組むことも十分に可能なのではないでしょうか。

 もし毎日が無理なら 1週間に1度は 4時間の滞在ができる運行時間をつくっても面白いのではないかなと思います。ご検討をお願いします。

沖縄観光タクシー・盛幸タクシーがお届けする沖縄観光案内タクシーブログ
 伊是名島観光に行ってきましたが、その下準備、そしてアルバム整理のためにインターネットで伊是名島についての資料を集めました。

 その時に大変重宝したのが次のサイトです。

沖縄観光タクシー・盛幸タクシーがお届けする沖縄観光案内タクシーブログ

 タクシー運転手が沖縄県各地を巡った時の情報を書き込んでいるようです。

 伊是名島には奥さんと一泊旅行をしたとのこと。

 何が重宝したのかというと、史跡などにある説明板をすべてテキスト化してあるのです。たぶん、写真に写して、それを家に帰ってコンピューターのキーをたたいたのでしょう。

 これがあったので、僕はそれをコピーしてアルバムに貼り付けるというだけで作業が進みました。とてもありがたい資料でした。

 ブログを作りながらいろいろ勉強なさったと思います。このような運転手のタクシーで沖縄観光をすると楽しさも倍増するでしょうネ。

 今回、利用させてもらった場所の説明

伊是名玉御殿
銘苅殿内
逆田
井伊文子先生歌碑
伊是名村諸見の神アサギ
尚円王生誕地屋敷内みほそ所
金丸(尚円)像
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